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第十話 祈りの外

 野営地へ戻る頃には、残っていた兵士達が朝の活動を始めていた。


 森を抜けたはずなのに、カイラムの中にはまだ戦いの匂いが残っている。


 黒い血液の臭い。


 湿った木肌。


 裂ける肉。


 砕ける骨。


 それらは帰路の途中で薄れていくどころか、静かに胸の奥へ沈んでいた。


 だが、先ほどまで胸を掻いていた渇きは、今は少し遠い。


 消えたわけではない。


 ただ、戦いのあとだけ見せる短い静けさの中にある。


 野営地の入口で、兵士たちが一行に気づいた。


 怪我人の有無を確かめる目。


 戻ってきた数を数える目。


 その中に、カイラムへ向く別の視線が混じっている。


 戦場へ出すべきではないかもしれない神官。


 だが、出たことで助かった者。


 その扱いを誰も決めきれずにいる。


 カイラムは視線を受け流した。


 気にしないのではない。


 いちいち拾う必要がないだけだった。


「まずセイル司祭のところへ」


 隣を歩くリオスが言う。


 彼女の声は低い。


 戦闘の前よりも、今の方がよほど緊張しているのが分かる。


「報告ですか」


「それもあります」


 そこで一度、カイラムを見る。


「確認もです」


 確認。


 その言葉に、カイラムは何も返さなかった。


 爪のことを言っているのだろう。

 あるいは、もっと別の何かを。


 セイルの天幕へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。


 薬草。


 乾いた布。


 冷めかけた湯。


 そして、香。


 浄めのための香草を焚いた、乾いて重い匂いだった。


 その匂いが鼻へ入った瞬間、カイラムの足がほんのわずかに鈍る。


 リオスがそれに気づいた。


「どうしました」


「……いえ」


 本当は、少しだけ息苦しかった。


 森の中では、あれほど自然に呼吸できていたのに。


 天幕の前で足を止める。


 リオスが先に布をめくった。


「セイル司祭。戻りました」


「入れ」


 中は昼でも薄暗かった。


 白布をかけた祭壇。


 銀の皿。


 聖印。


 香炉。


 朝よりも整え直されている。


 そこに立つセイルは、朝と同じ静けさを保っていた。


 ただし、その目だけはすでに報告を受け取る側のものだった。


「終わったか」


「はい」


 答えたのはリオスだ。


「影に溶ける人型が六。ガレド隊長たちと共に対処しました」


「被害は」


「軽傷が一。致命傷なし」


 セイルは小さくうなずく。


 それから、カイラムを見る。


「お前は」


「異常はありません」


 そう答えると、リオスがわずかに眉を動かした。


 セイルはそれを見ても何も言わず、代わりに問う。


「戦っている間は、どうだった」


 カイラムは少し考えた。


 隠すべきかどうかではなく、どの言葉が最も正確かを。


「静かでした」


「何がだ」


「内側が」


 セイルは黙る。


 リオスの視線が重くなる。


「他には」


「渇きのようなものが、遠のきました」


「消えたわけではない」


「ええ」


 そこで初めて、セイルの目がわずかに細くなった。


 戦いで静まり、祈りで噛み合わない。


 その構図を、彼もまた受け取ったのだろう。


「座れ」


 短く命じられ、カイラムは祭壇の前に置かれた木箱へ腰を下ろした。


 リオスはその横に立つ。


 セイルは香炉の蓋を少しだけ開けた。


 白い煙がまた細く立ち上る。


 その匂いが濃くなった瞬間、カイラムの喉の奥がわずかに強張った。


 息を吸い込みづらい。


 痛みではない。


 拒絶とも違う。


 ただ、身体がその香に対して以前のように開かない。


「顔色が変わったな」


 セイルが言う。


「香が重いです」


「今朝よりもか」


「ええ」


 リオスの指先が、抱えた布束の上で小さく動いた。


 彼女もそれを予想していたのだろう。


 セイルは香炉を戻し、今度は祭壇に置かれた聖印を持ち上げた。


 銀で形作られた、掌ほどの大きさの印だ。


 本来なら神官にとって見慣れたもの、祈りを整えるための道具でしかない。


 だが、今のカイラムにはその表面が妙に眩しく見えた。


「これに触れろ」


 言われて、右手を伸ばす。


 触れる直前で、指先が一瞬だけ止まった。


 自分でも分かるほどに。


 リオスが息を止める。


 カイラムはそのまま聖印へ指を置いた。


 冷たい。


 はずだった。


 だが、触れた指先から熱が走った。


 痛みはない。けれど、不快だった。


 熱が皮膚の浅いところを這い、手首まで昇る。


 思わず、指先が離れる。


 セイルはその動きを黙って見ていた。


「熱いか」


「……ええ」


「痛みは」


「ありません」


「だが、触れ続けたくはない」


 カイラムは目を伏せた。


「はい」


 認めるよりなかった。


 今の自分にとって、聖印はもはや“何でもないもの”ではない。


 リオスが低く言う。


「今朝より強い……」


「だろうな」


 セイルの返答は短かった。


 驚きではなく、確認の響きだった。


 彼は聖印を置き、今度は小さな器へ手を伸ばす。


 中には薄く溶いた聖水が入っている。


「右手を」


 差し出す。


 セイルが枝先で一滴だけ落とした。


 熱い。


 やはり熱い。


 だが今度は、単なる熱だけではなかった。


 水滴が皮膚へ触れた瞬間、胸の奥に沈んでいた戦いの残り香が、逆に濃く浮き上がる。


 森。


 黒い血液。


 裂けた肉。


 ほんのわずかに満たされた静けさ。


 それらが一瞬で引き戻される。


 祈りのためのものが、逆に自分の中の別のものを際立たせる。


 カイラムの眉が寄る。


「どうした」


「……落ち着きません」


「聖水で、か」


「ええ」


 セイルは枝を器へ戻した。


 そして静かに祈祷文を唱え始める。


 低い声。


 区切られた節。


 人の内へ溜まったものを外へ流し、人の形を保つための言葉。


 神官であれば何度も口にし、何度も聞いてきたものだ。


 理解はできる。


 意味も分かる。


 どの語句がどの働きを持つかも知っている。


 だが今は、それが“内側へ入ってこない”。


 耳には入る。


 頭にも届く。


 それでも、身体がそれを受け取らない。


 まるで閉じた扉の外で、誰かが正しい言葉を唱え続けているようだった。


 カイラムはわずかに喉を鳴らす。


 祈りの節の一部を、反射的に継ごうとしたのだ。


 だが、次の言葉が出ない。


 知っている。


 知らないはずがない。


 それなのに、喉の奥で止まる。


 リオスが目を見開いた。


 彼女も気づいたのだろう。


 カイラムが祈りを継げなかったことに。


 セイルの声が止む。


 天幕の中に静けさが落ちる。


「唱えられんか」


 責める声ではなかった。


 だからこそ重い。


 カイラムは正直に答えた。


「言葉は分かります」


「だが」


「身体が続きません」


 自分で口にしながら、その言葉の意味が胸の奥へ沈んでいく。


 言葉は理解できる。


 信仰を失ったわけではない。


 教義を忘れたわけでもない。


 それでも、身体が祈りに続かない。


 それはつまり、自分の内側がもう祈りの流れと同じ場所にないということだった。


 リオスが小さく声を漏らす。


「そんな……」


 カイラムは彼女を見ない。


 見ると、その顔に何が浮かんでいるか分かってしまいそうだった。


 セイルはしばらく沈黙していた。


 やがて、低く言う。


「魔力は、本来祈りで流れる」


 その声音は、確認でもあり、教えでもあった。


「人はそれで内を整える。澱みを外へやり、人の理へ戻る」


 カイラムは黙って聞く。


「だが、お前の中ではそれが噛み合わなくなりつつある。祈りを知らぬのではない。祈りが、お前の内側を正しく流れなくなっている」


 リオスの顔色がさらに悪くなる。


 その意味を、彼女は理解していた。


 祈れないのではない。


 祈りが、もう人の理へ届いていない。


 それは神官にとって、もっとも言葉にしづらい種類の異常だった。


「このまま進めば」


 リオスが言いかける。


 だが、その先を自分で飲み込んだ。


 セイルが代わりに言うこともない。


 言わずとも、そこにある言葉は重すぎた。


 神官は、人に戻れなくなったものを終わらせる。


 そのための聖句も、儀礼も、二人は知っている。


 カイラムもまた、知っていた。


 赦したまえ。人理を守るために、我らが下す人の鉄槌を。


 ふと、聖句が脳裏をよぎる。


 自分がいつか唱える側ではなく、向けられる側になるかもしれないという形で。


 だが、不思議と恐怖はなかった。


 あるのは、静かな理解だけだった。


「まだ戻せますか」


 尋ねたのはリオスだった。


 声はわずかに震えている。


 セイルはすぐに答えなかった。


 祭壇の上に置かれた聖印と、聖水と、カイラムの手とを順に見る。


「分からん」


 やがて、その一言が落ちる。


「だが、まだ終わりではない」


 リオスは息をついた。


 安堵とも、そう思いたいだけともつかない呼吸だった。


「戻せるうちは戻す。流せるうちは流す。それでも駄目なら、その時に決める」


 セイルの言葉は冷静だった。


 だが、それは冷たさではない。


 痛みを知ったうえで判断を据える者の声だった。


「カイラム」


 名を呼ばれ、顔を上げる。


「今後、祈りの場には一人で入るな。浄めもだ。必ず立ち会いを付ける」


「分かりました」


「祈祷を無理に継ぐな。内側が逆に乱れる」


「はい」


「聖印にも、必要以上に触れるな」


 その一つ一つが、神官としては異常な指示だった。


 祈りの場を避ける神官。


 浄めに一人で向かわせられない神官。


 聖印へ容易に触れられない神官。


 どれも、本来ならありえない。


 だが、今はそれが現実だった。


 リオスが口を開く。


「私が付いています」


 その声は少し強かった。


 決意めいてさえいた。


「食事も、移動も、祈りの時間も、できる限り」


 セイルは彼女を見た。


「抱え込みすぎるな」


「分かっています」


 そう言いながら、分かっていない顔だった。


 それでもセイルは止めなかった。


 止められぬことも知っているのだろう。


 天幕を出ると、昼の光は少しだけ眩しかった。


 森の匂いはまだある。


 戦いの残り香も消えてはいない。


 だが今は、それより別の感覚が胸に残っていた。


 祈りを知らないわけではない。


 忘れたわけでもない。


 それなのに、身体はそこへ続かなかった。


 カイラムは歩きながら、右手を開く。


 指先はまだ鋭い。


 瞳も、もう人のもののままではない。


 そして今、新しく分かったことがある。


 戦いの中では、身体は静かだった。


 祈りの中では、どこかがずれていた。


 もう偶然では済まなかった。


 リオスが半歩遅れてついてくる気配がする。


 彼女は何も言わない。


 言わなくても、その沈黙の重さだけで十分だった。


 カイラムは空を見上げた。


 白い雲が薄く流れている。


 人の営みの上を、何事もないように。


 祈りは理解できる。


 だが、もうそれは自分の内側と噛み合わなかった。

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