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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
島唄に寄せて

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第3話:共鳴する魂

第3話:共鳴する魂

1. 嵐の咆哮

島を包み込む空気は、ねっとりと重く、海面は不気味なほどに黒ずんでいた。

大型の台風が、牙を剥いてこの小さな孤島へと迫っている。定期船はすでに全便欠航し、島の人々は家の雨戸を閉ざし、神に祈りを捧げながら嵐の通り過ぎるのを待っていた。

しかし、その暴風雨の中で、一人だけ浜辺へ向かう影があった。海星だ。

彼の足取りは、かつての軽やかさを失い、一歩一歩が泥濘を歩むように重い。声帯を蝕んだ「結晶化」は、すでに彼の喉を石へと変え、肺に流れ込む空気さえも氷の刃のように冷たく突き刺さる。

(……来る。あの子が、帰ってくる)

根拠はなかった。だが、確信があった。

自分の喉から、そして魂から削り取って送り続けた「声」の欠片たちが、役目を終えてこの島へと一斉に引き返してくるのを感じる。それは、産卵のために母なる川へ戻る魚たちの遡上に似た、生命の根源的な呼び声だった。

海星は、いつもの岩陰に腰を下ろした。

もはや指先に力は入らず、愛用の三線を抱きしめるのが精一杯だった。激しい風が彼のシャツを翻し、容赦ない雨が視界を奪う。それでも彼は、水平線の向こう側、荒れ狂う波の間に「光」を探し続けた。

2. 波間の灯火

一方、嵐の海を突っ走る一隻の小型漁船があった。

無理を言って那覇から船を出させたのは、美波だった。

都会での彼女は、まさに死の淵にいた。音楽の夢は破れ、信頼していた人々に裏切られ、自分の存在価値を見失っていた。しかし、あの最悪の夜――彼女がすべてを終わらせようとした時、耳元で聞こえたのは、島の潮騒と、誰よりも優しい「海星の声」だった。

その瞬間、彼女の心の中に、凍りついていた故郷の記憶が溢れ出した。

自分がどれほど愛され、守られていたか。自分の喉が枯れるほど叫びたいほどの情熱が、海星の声によって呼び覚まされたのだ。

「海星……待ってて。今、帰るから!」

美波は船べりにしがみつき、荒波の向こうを見据えた。

不思議なことに、彼女の喉には今、かつてないほど力強い生命力が宿っていた。海星が失った「声」は、今や彼女の血肉となり、彼女自身の新しい歌声となって、内側から爆発しそうなほどに共鳴している。

彼女が都会で失わずに済んだのは、海星が自分の人生を削って作り上げた「透明な防壁」のおかげだった。そして今、彼女はその防壁を「感謝」という名の翼に変えて、嵐の海を飛び越えようとしていた。

3. 石の声、風の歌

ついに、船が島の桟橋に激突するように接岸した。

美波は、制止する船員の手を振り切り、泥まみれになりながら浜辺へと走った。

視界は雨に煙り、足元は高潮に洗われている。

「海星! 海星、どこにいるの!?」

叫んだ声は、風に掻き消されることなく、真っ直ぐに海へと響いた。

その声を聞いた瞬間、岩陰にうずくまっていた海星の身体が、微かに震えた。

海星は目を見開いた。

闇の中に、探していた一筋の光が見えた。

美波だ。泥にまみれ、髪を乱しながらも、確かな足取りでこちらへ向かってくる。

海星は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

喉の結晶化は、すでに限界に達していた。彼の喉元は、外側から見ても珊瑚のように白く硬く盛り上がり、呼吸の一回一回が、肺を引き裂くような激痛を伴う。

美波が、海星を見つけた。

「海星!」

彼女は海星の元へ駆け寄り、その痩せ細った身体を強く抱きしめた。

しかし、彼女は絶句した。

抱きしめた海星の首筋が、まるで本物の石のように冷たく硬いことに気づいたからだ。

「海星……どうして……あなたの声は、どこへ行ったの?」

海星は、声の出ない喉で微笑もうとした。

代わりに、彼は震える手で、傍らに置かれた三線の弦を、最期の力を振り絞って弾いた。

――パチッ。

乾いた音が響いた。

それは旋律ですらなかった。ただの弦の振動。

しかし、その音が響いた瞬間、奇跡が起きた。

海星の喉に溜まっていた「結晶」が、美波の歌声と共鳴し、眩い光を放ちながら砕け散ったのだ。

砕けた結晶は、何万もの蛍の光のような粒となって、嵐の空へと舞い上がった。

4. 命のバトン、響きの終わり

「あぁ……」

海星の口から、微かな吐息が漏れた。

それは五年間、一度も外に出ることのなかった、彼自身の本当の呼吸だった。

石になった声帯が砕けたことで、彼は自由になった。だが、それは同時に、彼の生命維持を司っていた「神との契約」が終了したことを意味していた。

海星は、美波の腕の中で、ゆっくりと視線を上げた。

美波の瞳には、かつての輝きが、いや、それ以上の強靭な美しさが宿っている。

(よかった……守りきれた)

海星は心の中で呟いた。

第一章のアイナメと同じだった。

自分の身体を、声を、時間を、すべて栄養として分け与えたことで、目の前の「命」は、見事に、美しく孵化した。

美波は、海星の頬を両手で包み込んだ。

「海星、聞こえる? 私、もう一度歌うよ。あなたの声を、あなたの想いを、今度は私が世界中に届ける。だから……」

海星は、満足そうに目を閉じた。

嵐は、いつの間にか去っていた。

雲の間から、嘘のように静かな月光が差し込み、銀色の波を照らし出している。

海星の意識は、穏やかな海へと溶け込んでいった。

彼は今、一匹の銀色の魚となって、どこまでも続く深い海を泳いでいるような感覚に包まれていた。

もう喉に痛みはない。重い三線を持つ必要もない。

ただ、耳の奥には、美波が紡ぎ出す新しい「島唄」が、誇らしげに響き渡っていた。

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