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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
島唄に寄せて

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第2話:沈黙の等価交換

第2話:沈黙の等価交換

1. 神に愛された喉

その島において、海星かいせいの声は単なる「歌」ではなかった。

島の古老たちは、彼の声を「ヌチグスイ(命の薬)」と呼んで慈しんだ。彼が三線を手に取り、ふわりと喉を開けば、そこからは南国の極彩色の花々が咲きこぼれるような、あるいは深海の底を流れる清らかな水流のような、透明な響きが溢れ出した。

海星が歌えば、嵐の前触れに怯える赤ん坊が泣き止み、不漁に肩を落とす漁師たちの瞳に力が戻った。そして何より、幼馴染の美波みなみは、彼の声の中に自分の居場所を見出していた。

「海星の歌は、魔法みたいだね。遠くにいても、この声が聞こえれば、私はどこへだって帰ってこられる気がする」

五年前、那覇へ向かう定期船の甲板で、美波はそう言った。都会で音楽の道を志す彼女にとって、海星の声は唯一の、そして最強のお守りだった。

海星は、彼女を見送る岸壁で、喉が張り裂けんばかりに歌った。島に伝わる別れの唄を。それが、彼の「完成された声」を聴かせた最後の日になるとは、その時の二人には知る由もなかった。

2. 忍び寄る「潮の呪い」

美波が去って半年。海星の喉に、最初の棘が刺さった。

最初は、長い間歌った後の軽い掠れだと思っていた。だが、次第にそれは「痛み」へと変貌していく。歌おうとすると、喉の奥に熱い砂を流し込まれたような、あるいは無数の小さな針で粘膜を突かれるような、鋭い刺激が走るようになった。

島に一軒しかない、潮風に晒された小さな診療所。

老医師の比嘉は、海星の喉を覗き込み、何度も首を傾げた。そして、古びた医学書ではなく、さらに古い、表紙の剥げた島の伝承録を机に広げた。

「海星……これは、病気というより『役目』に近いかもしれん」

比嘉の言葉は、静かな波音のように部屋に満ちた。

「この島には古くから『身代わりの唄』という言い伝えがある。愛する者が遠く離れ、その身に耐え難い災厄が降りかかろうとするとき、残された者がその声を神に差し出し、守護の力に変えるという話だ」

海星は、かすれた声で問い返した。

「……僕の声が、美波を守っているというんですか?」

「お前の声帯を調べてみたが、細胞が少しずつ変質している。まるで、珊瑚が石になっていくようにな。お前が歌えば歌うほど、その響きは物理的なエネルギーとなって海を渡る。そして、受け取る側の苦しみを吸い取っていく。……だが、海星。このまま歌い続ければ、お前の喉はいつか完全に石化し、二度と音を発することはできなくなるぞ」

医師の宣告は、音楽と共に生きてきた海星にとって、死の宣告に等しかった。

しかし、海星の脳裏に浮かんだのは、自分の未来ではなく、遠い都会で独り戦っている美波の姿だった。

3. 透明な防壁

海星は、その日から「絶望」と「献身」の境界線を歩み始めた。

美波から届く手紙は、月を追うごとにその筆致を乱し、言葉の端々に暗い影を落とすようになっていた。

『オーディションに落ちた』『誰も私の歌を聴いてくれない』『この街の空は、島と違って灰色で、息ができない』。

手紙を読むたびに、海星は浜辺へと走った。

喉の奥では、すでに「結晶化」が始まっていた。一度歌えば、激痛で数時間は水さえ飲み込めない。それでも彼は三線を弾き、空に向かって声を放った。

彼が歌い始めると、不思議な現象が起きた。

海星の視界の中に、遠く離れた東京の情景が、陽炎のように揺らめいて見えるのだ。

冷たい雨の降る新宿の路地裏で、美波が膝を抱えて震えている。

その背中に、海星の歌声が柔らかな毛布のように重なる。

彼女を嘲笑う都会の騒音を、海星の三線の音が優しく遮断する。

絶望に染まりかけた彼女の心の中に、島の黄金色の夕陽を、彼の声が描き出す。

(届け……届け……!)

海星は血を吐く思いで声を絞り出した。

彼が音を一粒放つたびに、彼の声帯からは「命の輝き」が剥がれ落ち、海を渡っていく。

それはまさに、第一章で語られたアイナメが、卵を腐らせないために自らの筋肉を壊死させてまで新鮮な水を送り続ける姿と、重なるものだった。

海星の声は、美波にとっての「目に見えない防壁」となっていた。

彼女が歩道橋から身を投げようとした時、ふと耳の奥で懐かしい島の旋律が響き、足が止まる。

彼女が心を病み、闇に飲まれそうになった時、胸の奥で海星の温かな呼気が、彼女を現世へと繋ぎ止める。

美波は気づいていなかった。

自分が都会の荒波に呑まれずに済んでいるのは、故郷で一人の青年が、自分の「命の源」を削り落として送り続けているからだということに。

4. 剥落するアイデンティティ

三年前。海星の声から、ついに「言葉」が失われた。

母音を出すのが精一杯になり、歌詞を乗せることができなくなった。喉の痛みは、今や首の付け根から胸元まで広がり、呼吸をするたびに喘息のような音を立てる。

島の若者たちは、変わり果てた海星の姿を見て、声を殺して泣いた。

かつての美しい歌い手は、今やボロボロの三線を抱え、砂浜で呻き声を上げているだけの影のような存在になっていた。

「もういいだろう、海星。あの子はもう、お前のことなんて忘れているかもしれないんだぞ」

友人の言葉に、海星はただ微笑んだ。言葉を返そうとしたが、喉からは乾いた石が擦れるような音しか出なかった。彼は砂浜に、枝で文字を書いた。

『彼女は、まだ戦っている。僕の声が、まだ彼女の盾になっているのが分かるんだ。あの子の心が「孵化」するまで、僕は止められない』

海星にとって、美波が都会で夢を叶えること、あるいは自分を取り戻すことは、あのアイナメの卵が孵ることと同じだった。自分という個体が滅びようとも、彼女という生命が輝きを取り戻すなら、それは勝利なのだ。

彼は、自分の声を「売った」のではない。「捧げた」のだ。

神との契約。

僕の声のすべてを対価に、彼女に明日を。

僕の音楽のすべてを対価に、彼女に希望を。

5. 静寂の完成

そして五年目の夏。

海星の喉は、完全に沈黙した。

比嘉医師が診察すると、海星の声帯はもはや生身の組織ではなく、白く光る硬質な結晶体へと成り果てていた。それはまるで、長年荒波に揉まれて滑らかになった珊瑚のようだった。

「終わったな、海星」

比嘉は、沈痛な面持ちで告げた。

「お前の声は、すべてあちらへ行った。……もう、お前の中に残っている音は何もない」

海星は、深く頷いた。

不思議なことに、声を完全に失った瞬間、彼の心からはあの激痛が消えていた。

ただ、静謐な凪のような穏やかさが胸を満たしていた。

彼は三線を抱え、いつもの浜辺に座った。

指先は、長年の演奏でタコが固まり、感覚を失っている。

弦を弾いても、今の彼にはその音さえもはや聞こえないのかもしれない。

それでも、彼は空の三線を弾き続けた。

空は高く、積乱雲が湧き上がっている。

台風の接近を知らせる湿った風が、海星の頬を撫でていく。

(美波……)

心の中で名前を呼ぶ。声は出ない。けれど、彼の全身からは、かつてのどんな歌声よりも純粋な「祈り」が放射されていた。

彼という存在そのものが、巨大な共鳴箱となって、美波を呼び寄せる信号を発し続けているようだった。

その時、水平線の向こう側。

灰色の雲を切り裂いて、一筋の光が海面に差し込んだ。

海星は、その光の中に、自分の「声」が役割を終えて、こちらへと還ってくる予兆を感じた。

自分の声が、彼女を救いきった。

その確信が、音を失った青年の胸を、温かく満たしていった。



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