第1話:波間に消えた約束
第二章:島唄に寄せて
第1話:波間に消えた約束
沖縄のさらに南、地図にも載らないような小さな島。そこには「失くした声を歌に乗せれば、海を越えて愛する人に届く」という古い言い伝えがあった。
かつて島の若者・**海星は、都会へ出た恋人の美波**を待ち続け、毎日三線を手に浜辺で歌っていた。しかし、彼には美波に言えない秘密があった。
その島では、風が歌を運んでくると言われている。
珊瑚礁の海が夕陽を浴びて、溶けた琥珀色に染まる頃、浜辺には決まって一人の青年が座っていた。海星だ。膝の上には、蛇皮の破れを丁寧に継ぎ当てした三線がある。
「島唄よ、風に乗り……届けておくれ、私の涙……」
彼が口ずさむのは、かつて島を去った恋人が大好きだった歌だ。
美波が音楽の夢を追いかけて東京へ旅立ってから、もう五年が過ぎた。最初のうちは頻繁に届いていた手紙も、いつしか途絶え、今では彼女の近況を知る者は島に一人もいなかった。
それでも、海星は毎日この場所に通う。
三線の弦を弾き、風の向きを確かめ、水平線の向こう側を真っ直ぐに見つめて歌うのだ。
1. 潮騒の沈黙
島の人々は、そんな海星を不憫に思っていた。
「海星、もうあの子は帰ってこないよ。都会の空気は、海の匂いも三線の音も、全部忘れさせてしまうんだから」
近所の老人たちが声をかけるが、海星はただ穏やかに笑うだけだった。
だが、海星が歌い続ける理由は、単なる執着ではなかった。
彼には、美波と交わした最後の約束があったのだ。
『もし私が道に迷ったら、あんたの歌を探す。海を渡ってくるあんたの声を目印にするから』
美波のその言葉を、彼は今も「命の綱」のように握りしめていた。
そしてもう一つ。海星が誰にも明かしていない「病」があった。彼の声帯は少しずつ、砂が混じるように削られていた。医師からは「いつか声が出なくなる」と宣告されていた。
2. 擦り切れる旋律
月日が流れるにつれ、海星の声は目に見えて掠れていった。
かつての透き通るような高音は、今や波の音に掻き消されそうなほど弱々しい。
「島唄よ……風に乗り……」
喉を突き抜ける痛み。それでも彼は歌うのをやめなかった。
歌えなくなれば、彼女が道に迷ってしまう。自分の声が消えることは、彼女にとっての灯台が消えることと同じなのだ。
ある夜、海星は一通の宛名のない封筒を拾った。
中には、美波が都会の喧騒の中で、独り膝を抱えて泣いているような、断片的な言葉が綴られた手紙が入っていた。それは、彼が幻視した彼女の孤独だったのかもしれない。
海星は、自分の涙が三線の胴に落ちるのを感じた。
(届けておくれ。俺の声が、まだこの世界にあるうちに)
3. 風の変容
やがて、海星の喉からは、音らしい音が出なくなった。
三線を弾く指先も、長い間の野ざらしでひび割れ、弦を赤く染める。
それでも彼は、口を動かし続けた。
声にならなくても、想いを風に乗せるために。
その姿は、かつて第一章で語られた、動けなくなっても卵に酸素を送り続ける魚の姿に、どこか似ていた。
そして、ある大型の台風が島を襲おうとしていた前夜。
海星はかつてないほど激しい風の中に、美波の匂いを感じた。
潮の香りに混じった、都会の排気ガスと、ほんの少しの懐かしい香水の匂い。
海星は、三線を強く抱きしめた。
もはや歌うことはできない。喉は枯れ果て、音を失った。
けれど、彼は知っていた。
自分の「声」は、もう自分の喉にはないのだ。
この五年間、彼が風に預け続けてきた数千、数万の歌たちが、今も海の上を回遊し、彼女を探し続けているはずだ。
「……あ……」
声にならない慟哭が、激しい風に吸い込まれていく。
その瞬間、はるか遠く、東京の片隅にある古びたアパートで、一人の女性がふと窓を開けた。
「……三線の音?」
彼女の耳に届いたのは、幻聴か、それとも――。




