第6話:胸いっぱいのこの愛を誰より君に
健一がこの世を去ってから、一年が経った。
初夏の風が吹く日、八歳になったハルは、母の佳織とともに海が見える丘に立っていた。
ハルの手には、あの日父が何度も読み聞かせてくれた、古びた図鑑が握られている。
「ねえ、ママ。パパは今も、あの魚みたいに僕を見てくれているのかな」
佳織は、ハルの少し逞しくなった肩を抱き寄せ、穏やかに微笑んだ。
「ええ、きっと。でもね、ハル。パパはもう、飲まず食わずで戦う必要はないのよ。だってパパの分まで、あなたがこうして力強く生きているんだもの」
ハルは図鑑を開き、アイナメのページをなぞった。
そこにはかつて父が流した涙の跡が、小さな染みとなって残っている。
「……僕、忘れないよ」
ハルは知っている。
自分の体温が温かいのは、自分の心臓が力強く動いているのは、かつて自分のためにすべてを削り、バトンを繋いでくれた「魚」がいたからだということを。
空はどこまでも青く、海はどこまでも深い。
ハルは図鑑を閉じると、前を向いた。
父が命を懸けて守り抜いた「未来」という名の海を、彼はこれから、自分の鰭で泳いでいく。
自然界における「父性」は、時として残酷なまでの自己犠牲を伴う。
しかし、それは死による断絶ではない。
自らの骨髄を、時間を、そして愛を注ぎ込み、次世代を「孵化」させる行為は、生命が獲得した最も美しい生存戦略の一つである。
この物語の父・健一は、最後にアイナメと同じ景色を見たに違いない。
それは、自分がいなくなった後の世界で、光り輝きながら泳ぎ去る、我が子の背中という絶景である。




