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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
銀鱗の守護者

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第5話:役目の終わり、命のバトン

第5話:役目の終わり、命のバトン

1. なぎの日々

骨髄移植から二年が経過した。

ハルの体内に根付いた健一の細胞は、驚くべき生命力で新しい血を作り出し続けた。拒絶反応も最小限に抑えられ、定期検診の数値は「完全寛解」を示している。

かつての真っ白な無菌室の記憶は、今では遠い悪夢のようだ。

八歳になったハルは、近所の小学校に元気に通い、放課後には友達と公園を駆け回っている。少しだけ日に焼けたその頬には、健康な赤みが差し、抜け落ちた髪も以前より濃くなって生え揃っていた。

「パパ、見て! 逆上がりができるようになったよ!」

公園の鉄棒で、ハルが誇らしげに声を上げる。

ベンチに座った健一は、眩しそうに目を細めて拍手を送った。

「すごいな、ハル。もう立派な若魚だな」

健一は、ハルのために会社を辞めた。

今は無理のない範囲で在宅のコンサルタントとして働き、朝はハルを送り出し、夕方には一緒に夕飯を食べる。かつて佳織が望み、ハルが焦がれていた「普通の父親」の姿が、そこにはあった。

失ったものは多かった。キャリアも、高額な年収も、大きなマンションも。

だが、ハルの寝顔を隣で見守れる夜に勝る報酬など、この世には存在しない。健一は心からそう思っていた。

2. 忍び寄る影

異変は、静かに、しかし確実に健一の身体を蝕んでいた。

最初は、階段を上がる際のもどかしい息切れだった。

(……まあ、もう若くないし、移植の時のドナー負担もあったからな)

そう自分に言い聞かせていた。

次に訪れたのは、食欲の減退と、背中に刺さるような鈍い痛みだった。

(ハルの食事を作るのに夢中で、自分のことは後回しにしていたせいだ)

だが、ある朝。

洗面所で顔を洗おうとした健一は、鏡に映る自分の顔を見て、数年前の自分を思い出した。

土気色の肌、落ち窪んだ目。

それは、ハルを救うために必死に泳いでいた頃の自分ではなく、役目を終えて泥に還ろうとする、あの図鑑の魚の顔をしていた。

「……パパ、大丈夫?」

背後で、ハルが不安そうな声を出す。

「ああ、ちょっと寝不足なだけだ。さあ、学校の準備をしなさい」

健一は努めて明るく振る舞ったが、手にした歯ブラシを握る力さえ、指先から逃げていくのを感じていた。

3. 宣告:アイナメの宿命

数日後、ハルを学校へ送り出した健一は、かつてハルが通っていた病院を訪れた。

検査の結果を待つ間、健一は不思議と落ち着いていた。

自分がハルに命を分けたとき、心のどこかで覚悟していたのかもしれない。命というものは、無尽蔵に湧き出る泉ではなく、限られた器の中の水を、誰かに分け与えるようなものなのだと。

「……健一さん。落ち着いて聞いてください」

かつてハルを救ってくれた主治医が、今度は健一に向かって、厳しい表情で告げた。

膵臓すいぞうがんです。それも、かなり進行しています。周囲の臓器への浸潤も見られ……手術は、今の段階では困難です」

健一は、静かに頷いた。

「……そうですか」

「以前の骨髄採取による衰弱が、発見を遅らせた可能性もあります。……もっと早く検査に来ていれば」

医師の言葉を、健一は遮った。

「先生、私は後悔していません。ハルが今、笑って学校に通えている。それだけで、私の人生の目的は、百二十パーセント達成されたんです。……私に残された時間は、どのくらいですか」

「……半年、持てば良い方です。化学療法で時間を稼ぐことはできますが、根治は難しいでしょう」

半年。

短いようで、ハルに何かを残すには十分な時間だ。

健一は病院を出て、真っ青な空を見上げた。

太陽の光が目に染みる。

アイナメのお父さんは、卵が孵るまで飲まず食わずで守り抜き、子供たちが海へ泳ぎ出すのを見届けて、その生涯を終える。

(俺も、アイナメになれたのかな)

健一の口元に、微かな、しかし満足げな微笑みが浮かんだ。

4. 最後の読み聞かせ

その日の夜、健一は久しぶりに、あのボロボロになった図鑑を本棚から取り出した。

ハルの寝室へ行き、ベッドの端に腰を下ろす。

「パパ、今日はお魚のお話、してくれるの?」

ハルが嬉しそうに布団に入り直す。

「ああ。ハルが大好きな、アイナメのお話だ」

健一は、掠れがちな声を整え、ゆっくりとページをめくった。

何度も読み聞かせた、あの物語。

「……お父さんはね、ハル。卵が無事に生まれてくるのを、ずっと見守っていた。悪い魚を追い払って、自分の身体がどれだけボロボロになっても、鰭を動かし続けたんだ。そして……」

健一は言葉を切った。

図鑑の最後には、死んだ魚の姿は描かれていない。ただ、新しい海へと泳ぎ出す稚魚たちの輝きだけが描かれている。

「そしてね、ハル。お父さんは、すごく幸せだったんだ。お腹が空いたことも、身体が痛いことも、全部忘れちゃうくらいにね。自分の大切な子供たちが、広い海を自分の力で泳いでいくのを見て、『ああ、これでいいんだ』って。そう思って、静かに目を閉じたんだよ」

ハルは、じっと健一の顔を見つめていた。

その瞳には、かつての幼い恐怖ではなく、深い理解と、愛おしさが宿っていた。

「……パパ」

「なんだい、ハル」

「パパも、アイナメさんみたいに幸せ?」

健一はハルの頭を、愛おしそうに撫でた。

「ああ。パパは、今が人生で一番幸せだよ、ハル」

ハルを救うために使った、健一の骨髄。

そこから生まれた血が、今、ハルの身体を温かく巡っている。

自分の肉体の一部が、自分がいなくなった後の世界で、息子の命として生き続ける。

これ以上の救いはない。

5. 旅立ちの朝

三ヶ月後。

健一は、自宅のベッドで、窓から差し込む朝の光を浴びていた。

傍らには、離婚後、連絡を取り続けていた佳織が座っている。

彼女は、健一の病を知り、ハルの将来のために再びこの家に戻ってきていた。

「ハルは……?」

「今、学校に行く準備をしてるわ。……健一さん、ハルを呼んでくる?」

佳織が涙を堪えながら問う。

「……いい。あいつの、元気な『行ってきます』が聞ければ、それでいいんだ」

玄関で、元気な足音が響いた。

「パパ! ママ! 学校行ってくるね!」

ドアが閉まる音が、健一の耳に心地よく届いた。

ハルは、もう自分の足で、外の世界へと歩き出している。

健一はゆっくりと目を閉じた。

意識の底で、清らかな水の流れを感じる。

自分は今、冷たくも優しい水の中に横たわっている。

目の前を、小さな、銀色に輝く魚たちが、ダンスを踊るように泳ぎ去っていく。

その中の一匹が、こちらを振り返って笑ったような気がした。

(さあ……泳いでいけ。広い、広い海へ)

健一の胸ビレが、静かに動きを止めた。

部屋を流れる空気は穏やかで、一縷の悔いもなかった。

役目を終えた守護者の顔には、朝日のような安らかな微笑みが、いつまでも刻まれていた。

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