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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
銀鱗の守護者

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第4話:骨の髄まで、父として

第4話:骨の髄まで、父として

1. 牙を抜かれた戦士

ハルが白血病を宣告されてから、健一の日常は一変した。

あれほど執着していたプロジェクトの資料は、今や病室の隅にあるパイプ椅子の上で埃を被っている。会社には「家族の急病」を理由に無期限の休職を願い出た。上司は困惑し、同僚たちは同情の眼差しを向けたが、健一の耳には何も届かなかった。

「……ハル、今日の気分はどうだ?」

無菌室のガラス越しに、インターホンで声をかける。

ハルの髪は、強力な抗がん剤の副作用で少しずつ抜け落ち、眉毛も薄くなっていた。肌は土気色を帯び、かつて図鑑を抱えて走り回っていた頃の面影は、日に日に削り取られていく。

「パパ、お仕事……行かなくていいの?」

ハルが弱々しく問う。

「ああ。今は、ハルの隣にいるのがパパの仕事だ」

そう答える健一の胸には、鋭い痛みが走る。かつて佳織が求めていた「時間」と「体温」。それを、ハルが死の淵に立たされてからようやく差し出している自分。

だが、抗がん剤治療だけでは限界があった。医師から告げられたのは、造血幹細胞移植――いわゆる骨髄移植の必要性だった。

「ハル君の病型は、非常に再発のリスクが高い。寛解かんかいを維持している間に、健康な血液を作る『工場』そのものを入れ替える必要があります」

医師の説明は、どこか遠い国の出来事のように聞こえた。

「まずは血縁者の中から、白血球の型(HLA型)が合うドナーを探します。親子であれば、五〇パーセントの確率で半分は一致しますが、移植には不十分な場合が多い。それでも、まずは検査をしましょう」

2. 祈りの針

数日後、健一はドナー適格性を確認するための検査室にいた。

「針を刺しますね」

看護師が、健一の腕に太い針を突き刺す。

自分の血管から、鮮やかな紅い血が吸い上げられていくのを、健一は凝視していた。

(もっと、抜いてくれ……)

心の底からそう願った。

これまでハルのために流せなかった涙の代わりに、この血がすべてハルの身体を巡り、あの忌まわしい病魔を焼き尽くしてくれればいい。

健一は、かつてハルに読み聞かせたアイナメの物語を思い出していた。

『お父さんは、外敵を追い払い、常に胸ビレを動かして卵に新鮮な水を送り続ける』

今、自分が動かそうとしているのは、胸ビレではなく、この自身の骨の中にある「命の源」だ。

結果が出るまでの数日間、健一は病院のロビーで、あるいはハルの病室の前のベンチで、祈るように過ごした。

信仰心など持たずに生きてきた男が、生まれて初めて、神という名の不確かな存在に頭を下げた。

自分のキャリア、家、貯金――そんなものはすべて差し出す。だから、せめて自分の骨が、息子の器に適合するように。

3. 奇跡の適合

「健一さん、結果が出ました」

主治医に呼ばれた診察室。そこには、何枚かのデータシートが並んでいた。

医師の顔には、この数週間で初めて見る、微かな笑みが浮かんでいた。

「……奇跡的と言っていいでしょう。通常、親子で完全一致フルマッチすることは稀なのですが、ハル君とあなたのHLA型は、移植に必要な六座すべてが一致しました。ハピセット(半分一致)ではなく、完全一致です。これなら、移植後の拒絶反応のリスクも最小限に抑えられます」

健一の耳の中で、轟音が鳴り響いた。

「……適合、したんですか?」

「ええ。あなたが、ハル君を救うドナーになれます」

健一は、思わず膝から崩れ落ちそうになった。

喜びというよりも、深い安堵が全身を駆け巡った。

ようやく、手に入れられた。

金でも、肩書きでもない、ハルという「卵」を本当に守り抜くための、たった一つのカードを。

「お願いします。すぐに始めてください」

健一は医師の手を掴むようにして言った。

「僕の身体から、いくらでも抜き取ってください。ハルが助かるなら、僕の命なんて、どうなっても構わない」

「落ち着いてください、お父さん。移植は、提供するあなたにとっても負担がかかります。全身麻酔下での骨髄採取、その後の痛み……そして何より、移植を受けるハル君にとっては、今以上の地獄のような日々が始まります。移植の前に、彼の免疫を一度ゼロにするための、過酷な前処置が必要です」

「わかっています。僕たちは二人で一人の魚なんだ」

健一の言葉に、医師は少し驚いたような顔をしたが、すぐに深く頷いた。

4. 準備の始まり:二人の決意

「ハル。パパの血が、ハルの身体に合うことが分かったよ」

無菌室の窓越しに、健一はハルに報告した。

ハルの顔に、パッと明かりが灯ったような輝きが戻った。

「パパの……お水が、僕に来るの?」

「ああ。パパの骨の中にある『種』を、ハルに分けるんだ。そうすれば、ハルの身体の中で、また元気な血が作り出されるようになる」

ハルは、細い指をガラスに当てた。健一もまた、その反対側から自分の指を重ねる。

ガラス越しに伝わる微かな温もり。

それは、かつて図鑑を読み聞かせていた頃の、あの「黄金色の夜」の体温に似ていた。

「ねえ、パパ。アイナメのお父さんみたいだね」

ハルが、静かに笑った。

「お父さんは、自分の身体がボロボロになっても、卵を守るんでしょ? パパも、僕にそれをくれるんだね」

健一は、込み上げる涙を堪えきれなかった。

「ああ。パパはアイナメになる。ハルがまた、あの海を泳げるようになるまで、絶対に離れない」

この一年の冷え切った関係。仕事に逃げ、家庭を顧みなかった愚かな自分。

そのすべてを贖うための、最後の戦いが始まろうとしていた。

ハルの身体を一度空っぽにし、そこに健一の生命を流し込む。

それは、二人の命が本当の意味で「一つ」になる儀式でもあった。

移植の準備は、翌週から始まる。

ハルは、さらに強い抗がん剤と放射線で、自分の血液を一度死滅させる工程に入る。

健一は、自身の骨髄を採取するための検査と調整に入る。

「パパ、怖くないよ」

ハルが言った。

「パパの一部が僕の中に入るなら、僕は一人じゃないもん」

その言葉を胸に、健一は病室を後にした。

廊下の窓からは、すっかり緑色になった桜の葉が、力強く風に揺れているのが見えた。

かつての銀鱗の輝きを失い、泥にまみれ、それでも卵を守り抜くあの魚のように。

健一の足取りには、迷いはなかった。

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