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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
銀鱗の守護者

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第3話:綻び(ほころび)の春

第3話:綻び(ほころび)の春

1. 借り物の晴れ姿

四月。桜の木々が、薄桃色の雪を歩道に散らしている。

世の中のすべてが「始まり」を祝福しているかのような陽光の中で、ハルは七歳になった。

その日、ハルは少し大きすぎる紺色のスーツに身を包んでいた。

入学式。健一は数ヶ月前から根回しをし、この日だけは午前中の休暇をもぎ取った。それは「父親」としての義務を果たすための、彼なりの精一杯の工作だった。

「ハル、ネクタイが曲がっているぞ」

玄関の鏡の前で、健一はハルの襟元を直す。

ハルの顔色は、相変わらず白い。いや、白を通り越して、透き通った硝子のような危うさがあった。一年前に比べ、頬の肉はさらに落ち、ランドセルの重さに細い肩が今にも折れてしまいそうだった。

「パパ、かっこいい?」

ハルが、少し照れくさそうに笑う。

「ああ、かっこいいさ。今日から小学生だな」

健一はハルの頭を撫でたが、その手のひらに伝わる温度は、春の陽気とは裏腹に、じっとりと湿った熱を帯びていた。微熱。この一年、ハルの平熱は常に境界線の上にあった。健一はそれを「体質だから」という言葉で、自分自身の不安と一緒に心の奥底へ押し込めてきた。

式典の間、健一は講堂のパイプ椅子に座りながら、何度もスマートフォンの通知をチェックしていた。

画面には、会社からの緊急連絡が絶え間なく流れてくる。

(……早く終わってくれ。午後からは会議だ。クライアントが待っている)

晴れやかな校歌の斉唱も、校長先生の祝辞も、健一の耳を素通りしていく。彼にとってこの場所は、大切な息子の門出の場ではなく、一刻も早く脱出すべき「停滞の場」に過ぎなかった。

ハルは、時折振り返っては、父親がそこに座っていることを確認し、安心したように小さく頷いていた。

その健気な視線に、健一は最後まで気づくことはなかった。

2. 暗転の朝

異変は、入学式の翌朝に起きた。

「ハル、起きろ。学校だぞ」

健一はキッチンでトーストを焼きながら声をかけた。

返事はない。いつもなら、どんなに身体が重くても「おはよう」と弱々しく返ってくるはずの声が、今朝は完全に途絶えていた。

不審に思った健一が寝室のドアを開けると、そこには、布団から半身を乗り出した状態で動かなくなっているハルの姿があった。

「ハル!?」

駆け寄り、その身体を抱き起こした瞬間、健一は自分の心臓が凍りつくのを感じた。

ハルのパジャマの襟元には、鮮やかな紅い染みが広がっていた。鼻血だ。それも、容易には止まりそうにない量の血が、シーツに黒ずんだ花を咲かせている。

「パパ……苦しい……」

ハルの声は、水底から響くような掠れた音だった。

見ると、ハルの腕や足には、ぶつけた記憶もないはずの、不気味な紫色の斑点がいくつも浮かび上がっていた。

健一は震える手で救急車を呼んだ。

救急隊員が到着し、ハルがストレッチャーで運ばれていく間、健一の脳裏には昨夜のハルの姿が蘇っていた。

『パパ、足が痛いよ。ランドセル、重かったのかな』

そう言ったハルに対し、自分は何と答えたか。

『慣れないことをしたからだ。早く寝れば治る』

突き放すような、無関心な言葉。

救急車のサイレンが、静かな住宅街を切り裂いていく。

健一は助手席に座り、ただ、握りしめた自分の拳を見つめていた。その拳は、ハルを救うための力など何一つ持っていないように思えた。

3. 宣告:白い水槽の底で

病院の長い廊下は、消毒液の匂いと、無機質な静寂に支配されていた。

検査の結果が出るまでの数時間は、健一の人生で最も長く、恐ろしい時間だった。

ようやく呼ばれた診察室。

医師は、いくつかのグラフと数値が並んだモニターを指差し、淡々と、しかし重い事実を告げた。

「……急性リンパ性白血病です」

健一の頭の中で、パチン、と何かが弾ける音がした。

「……はくけつ、びょう……?」

「血液の癌です。白血球が異常に増殖し、正常な造血機能が失われています。ハル君の身体は今、深刻な貧血と、感染症、そして出血が止まりにくい状態にあります」

医師の言葉は、まるで外国語のように遠く響いた。

「治療は、すぐに始めなければなりません。抗がん剤、そして将来的には骨髄移植も視野に入れる必要があります。……お父さん、聞いていますか?」

「……あ、ああ。聞いています」

健一は、乾いた喉で答えた。

「治るんですか。いくら、かかりますか。最新の治療を受けさせてください。お金なら、いくらでも出します。だから――」

「お父さん」

医師が、健一の言葉を遮った。

「お金や設備の問題だけではありません。これからの治療は、ハル君にとって非常に過酷なものになります。体力的にも、精神的にもです。彼に必要なのは、最高の医療と同時に、寄り添ってくれる家族の支えです。……お一人で育てていらっしゃると伺いましたが、仕事の調整はつきますか?」

仕事。

その言葉が出た瞬間、健一のポケットの中でスマートフォンが振動した。

重要なプロジェクトの、最終プレゼンの確認。

数千人の社員の生活がかかっている、数億円規模の契約。

それを、今、投げ出すことができるのか。

健一は、何も答えられなかった。

医師の眼差しが、まるで「アイナメの話」を聞いた時の佳織の視線のように、鋭く、哀しく健一を射抜いた。

4. 孤独な魚の、沈黙の叫び

無菌室への入院が決まり、ハルは幾本ものチューブに繋がれた。

白いベッドに横たわるハルは、まるで標本のように動かず、ただ天井を見つめている。

「ハル……」

健一が声をかけると、ハルはゆっくりと視線を動かした。その瞳の奥には、恐怖よりも、どこか冷めたような悟りの色が混じっていた。

「パパ。僕……あの魚みたいになるの?」

「え……?」

「アイナメのお父さん。卵を守って、ボロボロになって……最後は動かなくなるやつ。僕の病気って、そういうこと?」

「違う! 違うんだ、ハル」

健一はハルの細い手を握りしめた。

「お前は卵じゃないし、俺もお前を死なせたりしない。絶対にだ」

ハルは、微かに微笑んだ。

「パパ……嘘だよ。パパ、今もお仕事のこと考えてるでしょ? お手々、冷たいもん。パパは、僕を守るために、またどこか遠くへ泳いで行っちゃうんでしょ」

健一は息を呑んだ。

ハルにはすべて見えていたのだ。

自分が「ハルのため」と言い訳をしながら、実際には自分を追い詰め、家庭から逃げ出していたことを。

自分がアイナメのように不眠不休で働いているのは、ハルに酸素を届けるためではなく、自分という「有能な社会人」の自尊心を守るためだったのではないか。

「パパはね、ハル。パパは……」

言葉が続かなかった。

謝罪も、誓いも、すべてが薄っぺらな嘘に聞こえてしまう。

その夜、健一は病院のロビーで、電源を切ったままのスマートフォンを握りしめていた。

窓の外では、春の嵐が吹き荒れている。

せっかく咲いた桜の花びらが、無惨に叩きつけられ、泥にまみれていく。

健一は思い出した。

アイナメのオスは、卵が孵るまで飲まず食わずで守り抜く。

だが、もし。

もし、守るべき「卵」そのものが、内側から壊れていこうとしているのだとしたら。

その時、魚はどうすればいいのだろうか。

健一の頬を、一筋の熱い液体が伝った。

それは、彼が「父親」になってから初めて流した、血よりも濃い後悔の涙だった。

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