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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
さよなら、またな

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第4話(最終話):ひまわりの譜面

第4話(最終話):ひまわりの譜面

1. 静止した時間

葬儀から七日。初七日の法要を終えた浅田家は、祭壇に供えられた無数の花々の香りに包まれていた。

賑やかだった親戚たちも帰り、家の中には、かつてないほどの静寂が横たわっている。

「……整理、しよか」

妻のよし子は、そう言って拓郎の書斎のドアを開けた。

そこは、拓郎が最後まで入ることを禁じていた、彼にとっての聖域だった。

大量の譜面、古いカセットテープ、そして吸い殻の残っていない灰皿。主を失った部屋は、ひどく寒々しく感じられた。

陽葵ひまりは、パパの匂いが残るソファに座り、じっと母の背中を見ていた。

よし子がクローゼットの奥から、使い古されたギターケースを取り出したとき、その下から一通の茶封筒が滑り落ちた。

封筒には、拓郎の乱暴な字でこう書かれていた。

『よし子へ、陽葵へ。 ――開けるのは、俺の歌を聴いた後にしろ。』

2. 紙に刻まれた、もう一つの絶唱

二人は寄り添うようにして、封筒を開けた。

中から出てきたのは、数枚の便箋と、一冊の古いノートだった。

それは、拓郎が病室で、震える手で書き綴った「最後の手紙」だった。

『よし子。

勝手なことばっかりして、最後まで苦労かけてごめん。

病院を抜け出してレコーディングに行ったこと、怒ってるやろうな。でも、あれをせな、俺は俺のまま死ぬことができんかった。

俺は、ずっと怖かった。

ステージの光を浴びれば浴びるほど、本当の自分が空っぽになっていく気がして、タバコの煙でその不安を隠してきた。

でもな、病気になって、声が出んくなって、初めて気づいたんや。

俺の本当の「光」は、スポットライトやなくて、食卓で笑ってるお前ら二人やったんやなって。』

よし子の目から、堪えていた涙が溢れ出した。拓郎は不器用で、生きている間は一度もこんな言葉を口にしたことはなかった。

『陽葵。

パパの歌、聴いてくれたか?

あの歌の中に、パパの魂を全部入れといた。

パパはな、病院で不思議な夢を何度も見たんや。

自分の身体をボロボロにして卵に水を送り続ける魚。

声を失っても愛する人を守り抜いた島の男。

誰かのために、自分をバラバラにして花を咲かせた機械。

そして、凍える大地で、仲間の心に希望を書き込んだ先生。

そいつらがみんな、俺に言うたんや。

「お前も、その喉を使い切れ」って。

陽葵、パパはあいつらみたいに立派やないけど、最後だけは、お前のための「アイナメ」になれた気がする。

パパがいなくなっても、お前の中にパパが遺した「水」がある。

悲しくなったら歌え。苦しくなったら叫べ。

お前の声の中に、パパはいつでもおる。』

3. 受け継がれる「博物誌」

手紙の最後には、一小節だけの譜面と、一つの言葉が記されていた。

『名もなき愛の博物誌。

これが、パパが最後に読んだ本のタイトルや。

愛っていうのはな、自分が消えたあとに、誰かの中で咲き続ける花のことなんや。

陽葵、お前という花を、これからもパパは見守ってる。

さよならは言わん。

またな。

最高のファンへ。 浅田拓郎』

陽葵は、パパの手紙を胸に抱きしめた。

そこには、タバコの匂いではなく、陽だまりのような温かな匂いがした。

パパは死んだのではない。

パパは「歌」になり、「風」になり、自分を支える「記憶」という名の強い背骨になったのだ。

4. 結び:名もなき愛の博物誌

十年後の大阪。

かつて拓郎が立ったあのライブハウスのステージに、一人の若い女性が立っていた。

彼女はギターを抱え、マイクに向かって真っ直ぐに視線を向ける。

「ラスト、魂込めていくわ!」

そのハスキーで伸びやかな歌声が響いた瞬間、観客席には不思議なほど温かい潮風が吹き抜けた。

それは、第一章の海から、第四章のシベリアから、そして拓郎の病室から吹き続けてきた、愛の風だった。

客席の最前列では、少し年老いたよし子が、誇らしげに娘の姿を見つめている。

陽葵の歌声の中に、確かに拓郎が生きている。

アイナメが繋いだ水が、今、大河となって世界を潤している。

この世界には、図鑑に載らない愛がたくさんある。

自分の終わりを、誰かの始まりに変えてきた、不器用な者たちの記録。

『名もなき愛の博物誌』。

そのページは、今この瞬間も、誰かの献身によって新しく書き加えられている。

あなたが誰かを想い、自分を少しだけ削って微笑みを贈るとき。

そのとき、あなたの物語もまた、この美しい博物誌の一部となるのだ。

空の上で、一人の男がタバコを吹かす代わりに、満足そうにギターを鳴らした。

その音は、風に乗って、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。

「さよなら、またな」

その言葉を合図に、世界には、また新しいひまわりが咲き始めた。

(『名もなき愛の博物誌』 全編完結)

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