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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
さよなら、またな

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第3話:絶唱、あるいは命の転送

第3話:絶唱、あるいは命の転送

1. 真夜中の脱走

病院の廊下は、深夜の静寂に包まれていた。

ナースステーションの明かりを避け、影に潜むようにして歩く男がいる。浅田拓郎だ。パジャマの上に厚手のコートを羽織り、右手には点滴の針を抜いた跡を隠すための包帯が巻かれている。

一歩歩くたびに、肺が燃えるように熱い。酸素吸入器なしでの移動は、今の彼にとって、エベレストの頂上を目指すような無謀な挑戦だった。だが、彼の瞳には、かつてライブハウスを熱狂させたあの野生的な光が戻っていた。

「……待たせたな、相棒」

病院の裏門で待っていたのは、かつてのバンド仲間であり、今は小さなスタジオを経営しているケンジだった。ケンジは拓郎のあまりの痩せ細った姿に絶句し、ハンドルを握る手を震わせた。

「拓郎……ほんまにやるんか。お前、死ぬぞ」

「死ぬのはわかってる。でもな、このままベッドでくだ繋がれて『さよなら』言うのだけは、俺のガラやないんや。……音の中に、俺を閉じ込めてくれ」

車は夜の大阪を走り抜ける。ネオンの光が窓を流れ、拓郎の瞳をチカチカと刺激した。彼は助手席で激しく咳き込みながら、ポケットからボロボロになった歌詞カードを取り出した。そこには、陽葵ひまりへの想いと、これまでの人生のすべてが、血の混じったインクで綴られていた。

2. 命を削るマイク

スタジオの扉が開くと、懐かしい機材の匂いが拓郎を迎え入れた。

防音室の中、一本のマイクがスポットライトを浴びて立っている。それは、世界で最も孤独な、しかし最も神聖な戦場に見えた。

拓郎は、ふらつく足でマイクの前に立った。ヘッドフォンを耳に当てると、ケンジの弾くアコースティックギターの優しい旋律が流れ込んでくる。

(……吸え。もっと深く。最後の一滴まで)

拓郎は、自分の中に残されたわずかな酸素を、肺の奥の、まだ病に冒されていない細胞一つ一つに集めるイメージを描いた。

一度、大きく息を吐き出す。

そして、彼は喉を開いた。

「♪ さよなら、またな……。その笑顔を、忘れないで……」

最初の一声が出た瞬間、ケンジはミキサーの前で涙を堪えきれなかった。

そこにあるのは、かつての売れっ子歌手の煌びやかな歌声ではない。

一人の父親が、一人の娘のために、自らの寿命を音に変換して送り届けるような、凄まじいまでの「気魄」だった。

一節歌うごとに、拓郎の意識は遠のきかける。

肺からせり上がってくるのは、歌声ではなく、どす黒い血の塊だ。

彼はそれを無理やり飲み込み、声を絞り出す。

(まだや。まだ、一番伝えたいとこが残ってる……!)

3. アイナメの絶唱

曲のクライマックス。拓郎はギターの伴奏さえも止めるように手で合図した。

アカペラ。

静寂の中に、彼の呼吸音だけが響く。それは、アイナメの父親が卵に水を送るために、ボロボロのひれを必死に動かす音と同じだった。

「♪ 誇らしく、咲け……。お前の中に、パパは生きている……」

声が裏返り、掠れ、消えそうになる。

それでも、彼は歌うことを止めない。

自らの喉を、肺を、心臓を、すべて粉々にして、陽葵の未来を守るための「お守り」に変えていく。

録音ボタンが赤く光る。

その赤い光は、拓郎の命の灯火そのものだった。

最後の一音を歌い終えた瞬間、拓郎はマイクにしがみつくようにして、その場に崩れ落ちた。

「……録れたか、ケンジ」

「……ああ。完璧や。拓郎、お前、世界で一番かっこいい歌手やで」

ケンジの声は震えていた。

拓郎は、冷たい床の上で、満足そうに微笑んだ。

喉からはもう、音は出なかった。

だが、録音されたテープの中には、これから何十年、何百年と陽葵を守り続ける、永遠の父親の「体温」が刻まれていた。

4. 明け方の帰還

空が白み始める頃、拓郎は再び病院のベッドに戻っていた。

ナースコールを押す力さえも残っていなかったが、彼の右手には、ケンジが急いでダビングしてくれた一本のカセットテープが、宝物のように握りしめられていた。

窓の外では、朝の光が大阪の街を照らし始めている。

拓郎は、薄れゆく意識の中で、陽葵の笑顔を思い浮かべた。

(さよならは、言わへんで……)

彼は、テープを胸に抱いたまま、深い眠りに落ちていった。

それは、第一章から第四章まで、名もなき愛を捧げてきた者たちが、最後に辿り着いたのと同じ、静謐ななぎのような安らぎだった。

自分の終わりが、誰かの始まりになる。

その確信が、浅田拓郎という一人の男の物語を、最も美しい旋律で完結させようとしていた。

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