第2話:鱗の記憶、父の告白
第2話:鱗の記憶、父の告白
1. 無機質な部屋の闖入者
病院の廊下に、不釣り合いなほど元気な足音が響く。
病室のドアが勢いよく開くと、春の光を連れてきたような明るい声が、消毒液の匂いに満ちた部屋を支配した。
「パパ! 今日ね、学校で図工があったんだよ!」
陽葵が抱えてきたのは、色画用紙で作られた不格好な王冠だった。拓郎は、ベッドの上に上体を起こし、力なく笑った。わずか数週間の入院で、彼の頬はこけ、ステージでギターをかき鳴らしていたあの逞しい腕は、点滴のチューブに繋がれた細い枝のようになっていた。
「おっ、ええやんか。陽葵、お姫様になったんか?」
「違うよ、パパにあげるの。パパは歌の王様でしょ?」
陽葵が差し出した王冠を、拓郎は自分の頭に載せた。サイズが合わず、斜めにずり落ちそうになる。それを陽葵が笑いながら直す。その無邪気な笑顔が、今の拓郎には直視できないほど眩しかった。
「陽葵……ごめんな。パパ、ずっとライブばっかりで。こんなとこで寝てて、遊んでやれんで」
「いいよ。パパ、お仕事頑張ってたもん。でもね……」
陽葵は少しだけ俯いて、シーツの端をいじった。
「パパの声、ちょっと変だよ。ガラガラしてる」
拓郎は喉の奥に、鉄の味を感じた。肺腺がんは、彼の歌声の源である呼吸を確実に蝕んでいた。深い息を吸おうとすれば激しい咳が込み上げ、かつて五〇〇人を酔わせたあのハスキーボイスは、今や風に削られた枯れ木のような音しか出せなかった。
2. アイナメのパパの話
「陽葵。パパが昔、よく話してやった魚のこと、覚えてるか?」
拓郎は、陽葵をベッドの脇の椅子に座らせ、ゆっくりと語り始めた。
「アイナメ……だっけ?」
「そうや。北の冷たい海に住んでる、不器用な魚や。パパな、最近よくあいつのことを考えるんや」
拓郎は、遠い海に思いを馳せるように、窓の外の青空を見つめた。
「アイナメのお父さんはな、お母さんが卵を産むと、そこから一歩も動かなくなるんや。卵を狙ってくる悪い魚を追い払って、自分の大きなヒレをずっと動かして、卵に綺麗な水を送り続ける。……ずっと、ずっとや。ご飯も食べんと、自分の身体がボロボロになってもな」
陽葵は、大きな瞳を潤ませて聞き入っていた。
「どうしてお父さんは、自分もご飯食べないの? お腹空いちゃうよ」
「それはな、陽葵。自分がお腹空くことよりも、卵の中にいる赤ちゃんが元気に産まれてくることの方が、お父さんにとっては大事やからや。……やがて赤ちゃんたちが『パパ、ありがとう』って海へ泳ぎ出していくのを見届けて、お父さんは静かに眠るんや。それはな、ちっとも悲しいことやない。自分の命が、全部赤ちゃんの中に移っただけなんやから」
拓郎は陽葵の頭を、骨張った手でそっと撫でた。
「パパもな……あのアイナメみたいになりたいって、ずっと思ってたんや」
3. ステージの裏側の真実
拓郎は、少しだけ言い淀んだ後、決意したように言葉を継いだ。
「陽葵。パパな、タバコいっぱい吸うてたやろ。……あれな、パパが弱かったんや。歌うのが怖くて、寂しくて、煙に巻いて逃げてたんかもしれん。そのせいで、パパの肺は今、ちょっとお休みせなあかんようになった」
「パパ……」
「かっこ悪いパパで、ほんまにごめんな。陽葵との時間より、ステージ選んで、タバコ選んで。……でもな、陽葵。パパが歌ってきた歌は、全部、陽葵のために歌ってたんや。陽葵が大人になって、もし何かに躓いた時、パパの歌が陽葵の心を守るヒレになればええなって……そう思いながら、肺を削って声を出し続けてきたんや」
拓郎は、無理に咳を飲み込み、陽葵の小さな手を握った。
「パパな、もうすぐ大きなライブに行く。アイナメのお父さんみたいに、最後の一振りまで、陽葵に綺麗な水を送るためのライブや。それが終わったら……パパ、ちょっと遠くへ行くかもしれん。でもな、陽葵」
拓郎の声が、微かに震えた。
「パパは、陽葵の中にずっとおる。陽葵が歌を歌う時、陽葵が誰かを好きになる時、陽葵が勇気を出して一歩踏み出す時。……パパは陽葵の心の中で、ずっとギター弾いて歌ってるからな。だから、寂しくなったら、いつでも空の下でパパの歌、思い出してな」
4. 命のバトン、約束の重み
陽葵は、拓郎の手を両手で包み込み、自分の頬に当てた。
「パパ……。私、パパの歌、大好き。パパのタバコの匂いも、ホントはちょっと嫌いだったけど……でも、パパが歌ってるのが一番かっこいいよ」
陽葵の涙が、拓郎の甲に落ちた。その熱さは、どんな点滴よりも、どんな高価な薬よりも、拓郎の心に深く浸透した。
「パパ。ライブ、絶対行くからね。私、一番前で見てるから」
「おう……。最高の特等席、用意しとくわ」
拓郎は、陽葵がくれた紙の王冠を、もう一度深く被り直した。
今の自分は、スポットライトの下に立つスターではない。
ただ一人の、肺を病んだ、愚かな父親だ。
けれど、この小さな娘のために、命という最後の「楽器」を鳴らし切る権利だけは、神様も奪い去ることはできないはずだ。
「さよなら」の代わりに、拓郎は心の中で「またな」と呟いた。
陽葵が病室を出ていく時、彼女の背中は、かつてないほど誇らしく、力強く見えた。
その背中を見送りながら、拓郎は点滴台を支えに立ち上がった。
喉は痛い。呼吸は苦しい。
だが、彼の中には、まだ燃え尽きていないメロディが、轟々と音を立てて渦巻いていた。
「よし……。録音、始めよか」
拓郎は、マネージャーがこっそり持ち込んだ小型のレコーダーを手に取った。
病院の消灯時間が近づく。
暗闇の中で、一人の歌手が、一人の父親として、永遠に刻まれるべき「最後の一節」を紡ぎ出し始めた。
それは、第一章から続く『名もなき愛の博物誌』の、最も優しく、最も激しい絶唱の始まりだった。




