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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
さよなら、またな

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第1話:スポットライトと紫煙の行方

第五章:さよなら、またな

第1話:スポットライトと紫煙の行方

1. 鳴り止まないアンコール

大阪、なんば。熱気に膨れ上がったライブハウス。

「最高やったで、拓郎たくろう!」

「歌って! もう一曲だけ!」

割れんばかりの声援の中、ステージ中央でギターを抱えた男、浅田拓郎は不敵に笑った。首筋に光る汗、歪むアンプの音、そして五〇〇人の観客が放つ熱狂。

三十代後半にして掴み取った「売れっ子」の座。インディーズ時代の泥水を啜るような生活が嘘のように、今の彼は大阪の音楽シーンの頂点にいた。

「おおきに。ラスト、魂込めていくわ!」

拓郎のハスキーで伸びやかな歌声が、天井を突き抜ける。その声は、多くの孤独な夜を救い、誰かの背中を押し、そして彼自身をスターへと押し上げた「魔法の楽器」だった。

ライブが終わり、楽屋へ戻ると、拓郎は真っ先にポケットから一本のタバコを取り出した。

ジッポの火が、暗い楽屋で揺れる。

肺の奥まで紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。これが彼にとって、昂ぶった神経を鎮める唯一の儀式だった。

「拓郎さん、次のレコーディングの打ち合わせですが……」

マネージャーの言葉を遮るように、スマホが震える。

画面には、七歳になる娘・**陽葵ひまり**からのメッセージ。

『パパ、今日はおやすみのチュウしてくれる?』

拓郎は短く「ごめん、今日も遅なる」とだけ打ち込み、タバコを灰皿に押し付けた。

今の彼には、立ち止まる余裕なんてなかった。娘の寝顔を見る時間よりも、新しい曲を書き、喉を震わせる時間の方が、彼という「歌手」を形作っていたからだ。

2. 乾いた咳と、影の侵入

異変は、三日間の連続公演の最終日に起きた。

最高潮のサビで声を張り上げようとした瞬間、喉の奥でカチリと何かが噛み合わないような違和感が走った。

(……乾燥してるんか?)

強引に声を捻り出したが、終演後の楽屋で、拓郎は激しい咳に見舞われた。

吐き出した痰に、微かな赤が混じっている。

「拓郎さん、顔色悪いですよ。ちょっと休みましょう」

マネージャーの心配を「タバコの吸いすぎや」と笑い飛ばしたが、胸の奥には、冷たい氷の粒を飲み込んだような、説明のつかない不安が居座っていた。

数日後。多忙なスケジュールの合間を縫って訪れた病院で、拓郎は信じられない言葉を突きつけられた。

「肺腺がんです。ステージは……かなり進んでいます」

医師の言葉が、耳の奥でハウリングを起こす。

肺腺がん。タバコを吸わない人でもなる病気だが、ヘビースモーカーだった彼にとって、それは「因果」という残酷な言葉で迫ってきた。

「先生……俺、歌わなあかんのです。来月にはツアーも、娘との約束も……」

医師は静かに首を振った。

「まずは入院です。歌うどころか、普通の生活さえ、これからは……」

3. 空っぽの灰皿

入院が決まった夜、拓郎は数週間ぶりに早く家に帰った。

リビングでは、陽葵がソファで丸まって寝ていた。テーブルの上には、冷めきった夕食と、陽葵が描いたらしい絵が置かれている。

『パパ、うたってる。かっこいい』

クレヨンで描かれた、ステージの上で大きく口を開けて歌う自分の姿。

拓郎は、その絵を震える手で手に取った。

これまで自分は何を守り、何を歌ってきたのだろうか。

ファンの拍手を浴びるために、目の前の小さな娘が求めていた「パパ」の時間を、どれだけ犠牲にしてきたのか。

拓郎はベランダに出た。

癖でタバコに手が伸びるが、ライターの火を点けることはできなかった。

暗い街並みを見下ろしながら、彼は初めて、自分の「肺」が泣いているのを感じた。

声を、歌を、命を育んできたその場所が、今は自分を内側から蝕む病巣になっている。

「……さよなら、か」

誰に向けた言葉か自分でもわからなかった。

タバコに向けたのか。歌手としての輝かしい日々に向けたのか。

それとも、このままでは守れなくなる、娘の未来に向けたのか。

4. 最後のわがまま

翌朝、拓郎は陽葵を学校へ送る道すがら、彼女の手をぎゅっと握った。

「陽葵。パパな、ちょっと長いライブツアーに行くことになったんや」

「また? いつ帰ってくるの?」

陽葵の不安げな瞳。拓郎は胸が張り裂けそうになるのを堪え、最高の笑顔を作った。

「すぐや。その代わり、ツアーの最後には、陽葵のためだけに歌う特別席、用意しとくから。約束やで」

陽葵は「指切りやで!」とはしゃいだ。

その小さな指のぬくもりが、今の拓郎にとって唯一の「生」の証だった。

入院を前に、拓郎はマネージャーに一本の電話を入れた。

「引退ライブとか、しん気臭いのは無しや。……でもな、一回だけ、最後の一曲だけ、俺のわがまま聞いてくれ」

拓郎の脳裏には、第一章から第四章まで、名もなき愛を捧げてきた者たちの姿が、不思議と浮かんでは消えた。

卵を守る魚。声を捧げた青年。心臓を埋めた機械。言葉を託した教師。

(俺も、あいつらみたいに……カッコよく幕、引けるかな)

拓郎は空っぽになった灰皿をゴミ箱に捨てた。

歌手、浅田拓郎。

残された時間は短かった。だが、彼にはまだ、残された「肺」のすべてを使って、一輪のひまわりのように咲かせなければならない歌があった。

「さよなら」の代わりに、彼は新しい楽譜を開いた。

タイトルはまだない。

ただ、その最初の一小節には、娘への溢れるほどの「ごめん」と「大好き」が詰め込まれていた。

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