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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
収容所からの手紙

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エピローグ:魂の共鳴(レクイエム)

エピローグ:魂の共鳴レクイエム

それは、紙にも、布にも、どこにも書かれていなかった。

ただ、三人の男たちの「血の通った記憶」の中にだけ刻まれ、舞鶴の海を越えてきた、世界で最も重い言葉の束。

高木家の小さな座敷で、工藤、今井、吉村の三人は、まるで冬馬がそこに座っているかのように、背筋を伸ばし、震える声でその「声」を解き放った。

序:愛するよし子、そして私の光・ハルへ

よし子。そしてハル。

この言葉が君たちの耳に届くとき、私の肉体は、もうこの世界のどこにもないだろう。シベリアの凍土に埋もれ、名もなき土に還っているはずだ。

けれど、悲しまないでほしい。私は今、かつてないほどに満たされている。

なぜなら、私の「言葉」を運んでくれる、これほどまでに気高く、優しい友人たちが、私の傍らにいてくれるからだ。

よし子。君と結婚したあの日、信州の山々に咲いていたレンゲソウの匂いを、私は今も覚えている。

ハル。君を初めて抱き上げたときの、あの壊れそうなほど柔らかい重みを、私の腕は今も忘れていない。

極限の飢えと、マイナス四十度の静静寂の中で、私を正気でいさせてくれたのは、君たちの面影という名の、たった一点の灯火だった。

私は国語教師として、多くの言葉を教えてきた。

けれど、本当の言葉の意味を知ったのは、この地獄においてだった。

言葉とは、単なる記号ではない。それは、自分の命を削り取って、誰かの心を温めるための「まき」なのだ。

破:白銀のダイヤモンドと、人間の証

かつて私たちは、この凍てつく広場で野球をした。

ボロ布を丸めた球、スコップの柄のバット。

看守たちは笑った。「死に損ないのネズミたちが、何をしている」と。

だが、あの瞬間、私たちはネズミではなかった。

打球が空を舞ったとき、私たちはかつて日本で、愛する家族と笑い合っていた「人間」の顔を取り戻したのだ。

よし子、私はあの時、君に伝えたかった。

人間は、パンだけで生きるのではない。思い出と、誇りと、そして「遊び」という名の自由で生きるのだと。

私たちは、飢えに魂を売り渡さなかった。

私たちは、最期まで高木冬馬であり、工藤であり、今井であり、吉村であった。

管理番号ではなく、名前を持った人間として、私たちはこの凍土に足跡を刻んだのだ。

承:アイナメの父として(ハルへの最後の授業)

ハル。パパの愛しい娘よ。

これが、パパが君に教える「最後の授業」だ。

北の海には、アイナメという魚がいる。

お父さんのアイナメはね、卵が産まれると、そこから一歩も動かずに守り続けるんだ。

敵が来れば身体を張って追い払い、何も食べず、ひれを動かし続けて、卵に新鮮な水を送り続ける。

やがて卵がかえり、何千もの子供たちが光り輝く海へ泳ぎ出すのを見届けて、お父さんはボロボロになって死んでいく。

ハル。今のパパは、あのアイナメだ。

パパの鰭はもう動かない。パパの鱗はもう剥げ落ちてしまった。

けれど、パパはね、とても幸せなんだよ。

パパがここで耐えた苦しみの一つ一つが、君が日本で浴びる温かな日差しに変わっていると信じているから。

パパの命という「水」が、君という「稚魚」を、広い広い未来の海へと押し出していると知っているから。

だからハル、パパがいなくなったあと、どうか泣かないでおくれ。

君が笑うとき、パパの魂も一緒に笑っている。

君が誰かを愛するとき、その愛の半分は、パパが君に遺した心なんだよ。

パパは、君の人生という物語の、行間ぎょうかんにずっと住み続ける。

君がページをめくるたび、パパはそこにいる。ずっと、ずっとだ。

結:よし子、新しい太陽の方へ

よし子。

私の時間は、もうすぐ終わる。

窓の外には、粉雪が舞っている。それはまるで、君と出会った日に降っていた雪のように美しい。

よし子。私を許してほしい。

君を独りにし、苦労をかけ、添い遂げられなかった不甲斐ない夫を。

けれど、これだけは信じてほしい。

私の心臓の最後の一打ちまで、そこには君の名前が刻まれていた。

君に、最後のわがままを言わせてください。

私を想って泣くのは、今日で最後にしてほしい。

明日からは、新しい太陽の方を向いて、笑って生きてほしい。

君の笑顔こそが、私がこの地獄で生き抜いた「意味」なのだから。

今、私の枕元で、戦友たちが私の言葉を必死に覚えようとしてくれている。

彼らの目を見てほしい。彼らは、私の命の欠片を運んできた、私の分身だ。

彼らが語る一言一言は、私が君の耳元で囁きたかった、本当の愛の告白なのだ。

ありがとう、よし子。

愛している、ハル。

私は今、銀色の鱗を輝かせて、あの日約束した信州の、ひまわりが揺れる庭へと帰る。

さようなら。

いや、いってきます。

一九五六年、冬。

高木冬馬。

エピローグの終焉

吉村が最後の一句を語り終えたとき、高木家の座敷は、静かな、しかし耐えがたいほどの情愛に満たされていた。

語り手である三人の男たちの頬には、幾筋もの涙が伝っていた。それは冬馬の無念を悼む涙ではなく、一つの巨大な「愛」を運びきったという、魂の浄化の涙だった。

よし子は、震える手で、空中に残る夫の残響を抱きしめるように胸を合わせた。

「……おかえりなさい、あなた。……本当によく、帰ってきてくれました」

娘のハルは、庭に面した縁側へ出た。

そこには、冬馬が夢に見続けたひまわりはまだ咲いていない。けれど、冬の冷たい土の下では、次の春を待つ命が、確かに鼓動を始めていた。

三人の男たちは、冬馬の言葉を家族に返したことで、自分たちの肩に載っていた重い荷物をようやく下ろした。

彼らは知っていた。

これから自分たちが生きていく日々の中で、辛いことがあれば、いつでもあの「アイナメの物語」を思い出すだろう。

自分たちの命は、誰かの犠牲の上にあり、そして誰かのために捧げられるためにあるのだということを。

空には、一点の曇りもない冬の星が輝いていた。

その光は、かつて冬馬が極寒の地で見上げたものと同じだったが、今、日本の空で見上げる星は、どこまでも優しく、彼らを祝福するように瞬いていた。

名もなき愛の博物誌。

その物語は、こうして「記憶」という名の最も美しい墓標に刻まれ、永遠の調べとなった。

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