第6話:言葉の帰郷
第6話:言葉の帰郷
1. 舞鶴の潮騒
一九五六年、十二月。
京都府、舞鶴港。
「岸壁の母」が流れる中、ついに最後のリパトリエーション(引揚船)が接岸した。
ボロボロの復員服を身に纏い、タラップを降りてくる男たちの群れ。その中に、工藤、今井、そして吉村の姿があった。
彼らは、日本の土を踏んだ瞬間、誰に言われるでもなく、互いの顔を見合わせた。
十年以上の月日が流れたが、彼らの瞳には、あの凍土の夜に冬馬から託された「言葉」が、今も鮮明に燃え続けていた。
「行こう。先生の、家に」
2. ひまわりのない冬
長野県の山あいの村。
高木冬馬の自宅を訪れた三人は、質素な家を前にして立ちすくんだ。
出迎えたのは、白髪の混じった妻・よし子と、かつて写真で見た面影を残す、美しい娘だった。
「主人は……冬馬さんは、どうなりましたか」
よし子の問いに、三人は帽子を取り、深く頭を下げた。
「……先生は、あちらで亡くなりました。ですが、先生は手紙を遺されました」
「手紙? でも、何も届いていませんが……」
吉村が、一歩前に出た。
「紙はありません。先生は、私たちにそれを『預けて』くれたんです」
3. 合唱される遺言
居間に座った三人は、静かに、しかし力強く、言葉を紡ぎ始めた。
工藤が、深く息を吸い、第一章を朗読し始める。
「『よし子、十年の沈黙を許してほしい。私の心は、一瞬たりとも信州の空を忘れたことはなかった……』」
次に今井が、軍人らしい厳かな声で引き継ぐ。
「『……私たちは泥を啜り、雪を食べた。だが、私たちは野球をした。あの日、灰色の空へ飛んでいった白球は、私の希望そのものだった……』」
よし子と娘は、息を呑んで聞き入った。
それは、録音された声よりも、紙に書かれた文字よりも、はるかに生々しく「冬馬の声」を伝えていた。
語り手たちの声の震え、表情、そしてその言葉を覚えるために費やされた過酷な歳月。そのすべてが、冬馬の愛の重みを証明していた。
最後の一節を、吉村が担当した。
「『……ハル、立派な大人になりなさい。アイナメの父親が、ボロボロになっても子供を守るように、パパもまた、君たちの未来を守るために、この凍土の一部になることを選んだ。……悲しまないでほしい。パパの言葉は、今、これを語っている戦友たちの心の中に、永遠に生きているのだから』」
吉村が語り終えたとき、部屋には沈黙だけが流れた。
よし子は、冬馬の「声」を届けてくれた三人の男たちの手を、代わる代わる握りしめ、嗚咽を漏らした。
4. 博物誌の完成
冬馬の言葉は、三人の男たちの人生をも変えた。
彼らはその後、それぞれの場所で、冬馬から預かった言葉を紙に書き記し、本にし、あるいは語り部として子供たちに伝えていった。
一人の男が命を削って遺した言葉は、検閲を越え、海を越え、ついには数万人の日本人の心に火を灯す「歴史」となったのだ。
……それから数十年後。
短編集『名もなき愛の博物誌』の最終章に、この物語は収録された。
第一章のアイナメの父。
第二章の声を失った青年。
第三章の鋼鉄の庭師。
第四章の国語教師、高木冬馬。
彼らは皆、一つの同じ結論へと辿り着いていた。
**「自分の終わりは、誰かの始まりである」**と。
冬馬の家の庭には、今、季節外れのひまわりが、一輪だけ誇らしく咲いている。
それは、彼がシベリアの闇の中で描き続けた、黄金色の希望の形そのものだった。
風が吹く。
ひまわりが揺れる。
その音は、今もどこかで誰かが、大切な人のために紡いでいる「献身の言葉」のように、優しく、力強く、響き続けていた。




