表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
収容所からの手紙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/26

第6話:言葉の帰郷

第6話:言葉の帰郷

1. 舞鶴の潮騒

一九五六年、十二月。

京都府、舞鶴港。

「岸壁の母」が流れる中、ついに最後のリパトリエーション(引揚船)が接岸した。

ボロボロの復員服を身に纏い、タラップを降りてくる男たちの群れ。その中に、工藤、今井、そして吉村の姿があった。

彼らは、日本の土を踏んだ瞬間、誰に言われるでもなく、互いの顔を見合わせた。

十年以上の月日が流れたが、彼らの瞳には、あの凍土の夜に冬馬から託された「言葉」が、今も鮮明に燃え続けていた。

「行こう。先生の、家に」

2. ひまわりのない冬

長野県の山あいの村。

高木冬馬の自宅を訪れた三人は、質素な家を前にして立ちすくんだ。

出迎えたのは、白髪の混じった妻・よし子と、かつて写真で見た面影を残す、美しい娘だった。

「主人は……冬馬さんは、どうなりましたか」

よし子の問いに、三人は帽子を取り、深く頭を下げた。

「……先生は、あちらで亡くなりました。ですが、先生は手紙を遺されました」

「手紙? でも、何も届いていませんが……」

吉村が、一歩前に出た。

「紙はありません。先生は、私たちにそれを『預けて』くれたんです」

3. 合唱される遺言

居間に座った三人は、静かに、しかし力強く、言葉を紡ぎ始めた。

工藤が、深く息を吸い、第一章を朗読し始める。

「『よし子、十年の沈黙を許してほしい。私の心は、一瞬たりとも信州の空を忘れたことはなかった……』」

次に今井が、軍人らしい厳かな声で引き継ぐ。

「『……私たちは泥を啜り、雪を食べた。だが、私たちは野球をした。あの日、灰色の空へ飛んでいった白球は、私の希望そのものだった……』」

よし子と娘は、息を呑んで聞き入った。

それは、録音された声よりも、紙に書かれた文字よりも、はるかに生々しく「冬馬の声」を伝えていた。

語り手たちの声の震え、表情、そしてその言葉を覚えるために費やされた過酷な歳月。そのすべてが、冬馬の愛の重みを証明していた。

最後の一節を、吉村が担当した。

「『……ハル、立派な大人になりなさい。アイナメの父親が、ボロボロになっても子供を守るように、パパもまた、君たちの未来を守るために、この凍土の一部になることを選んだ。……悲しまないでほしい。パパの言葉は、今、これを語っている戦友たちの心の中に、永遠に生きているのだから』」

吉村が語り終えたとき、部屋には沈黙だけが流れた。

よし子は、冬馬の「声」を届けてくれた三人の男たちの手を、代わる代わる握りしめ、嗚咽を漏らした。

4. 博物誌の完成

冬馬の言葉は、三人の男たちの人生をも変えた。

彼らはその後、それぞれの場所で、冬馬から預かった言葉を紙に書き記し、本にし、あるいは語り部として子供たちに伝えていった。

一人の男が命を削って遺した言葉は、検閲を越え、海を越え、ついには数万人の日本人の心に火を灯す「歴史」となったのだ。

……それから数十年後。

短編集『名もなき愛の博物誌』の最終章に、この物語は収録された。

第一章のアイナメの父。

第二章の声を失った青年。

第三章の鋼鉄の庭師。

第四章の国語教師、高木冬馬。

彼らは皆、一つの同じ結論へと辿り着いていた。

**「自分の終わりは、誰かの始まりである」**と。

冬馬の家の庭には、今、季節外れのひまわりが、一輪だけ誇らしく咲いている。

それは、彼がシベリアの闇の中で描き続けた、黄金色の希望の形そのものだった。

風が吹く。

ひまわりが揺れる。

その音は、今もどこかで誰かが、大切な人のために紡いでいる「献身の言葉」のように、優しく、力強く、響き続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ