第2話:遡上(そじょう)の記憶
第2話:遡上の記憶
1. 黄金色の儀式
それは、この家がまだ「家」としての体温を持っていた頃の、大切な記憶だ。
三年前。当時、まだ小学校に上がる前だったハルは、今よりも少しだけ顔色が良く、寝る前には必ず一冊の本を抱えて健一の元へ走ってきた。
健一もまた、今ほど仕事の泥沼に足を取られてはいなかった。プロジェクトの成功を夢見て、希望に燃えながらも、家族との時間を「義務」ではなく「救い」として感じていた時期だ。
「パパ、今日もお魚のお話して」
ハルが布団の中から目を輝かせて強請る。健一はハルの小さな、熱を帯びた手の手を握り、お気に入りの図鑑を開く。そこには、岩の隙間に産み付けられた卵を、銀色の身体で抱くアイナメの姿があった。
「いいかい、ハル。アイナメのお父さんは、世界で一番強いお父さんなんだ」
健一の低い声が、夜の寝室に心地よく響く。
「お母さんが卵を産むと、お父さんはそこから一歩も動かなくなる。ご飯も食べないし、眠りもしない。ただじっと、ハルの指先より小さな卵たちが、無事に生まれてくるのを待っているんだ」
ハルは息を呑んで聞き入る。
「……お腹、空かないの?」
「空くさ。でもね、卵を守るためなら、お父さんはお腹が空いていることさえ忘れてしまうんだよ。悪い魚が来たら追い払って、鰭でずっと新しいお水を送ってあげるんだ。そうして、卵が孵るころ……お父さんは、役目を終えたように、静かに眠りにつくんだよ」
その話をするときの健一は、まるで自分自身がその高潔な魚になったかのような誇らしさを感じていた。ハルにとって、健一はアイナメそのものだった。自分を守り、慈しみ、いかなる外敵からも守ってくれる、無敵の守護神。
ハルはその物語の結末にある「死」を、悲劇ではなく、究極の達成感として受け取っていた。
「パパも、アイナメさんみたいに僕を守ってくれる?」
「ああ、約束だ。パパが、ハルを立派な魚にしてあげるからね」
あの時、傍らで洗濯物を畳んでいた佳織は、ふと手を止めて、微かな不安を含んだ眼差しで二人を見ていた。健一は、その視線の意味に気づくことはなかった。
2. 崩壊への潮目
幸せな時間は、砂時計の砂が落ちるように、気づかぬうちに失われていった。
健一の仕事が、加速度的に過酷さを増していったのがその半年後だった。
昇進、責任、競合他社とのシェア争い。健一は「アイナメの話」を地で行くように、家族のために自分の時間を捧げ始めた。しかし、それはかつて語った「寄り添う献身」とは似て非なるものへと変質していった。
「すべては家族のためだ」
その言葉が、健一の頭の中で呪文のように繰り返される。
残業代でハルの治療費を稼ぎ、より良い医療環境を与え、将来の学費を貯める。それこそが、現代の父親が果たすべき「アイナメの役割」なのだと信じて疑わなかった。
しかし、その代償として、健一は物理的に家庭から消えた。
寝室で図鑑を開く時間はなくなり、ハルが熱を出しても、健一は電話口で「薬を飲ませて寝かせておけ、仕事が抜けられないんだ」と繰り返すようになった。
佳織との衝突は、避けることのできない嵐のようにやってきた。
「あなたは間違っているわ、健一さん」
ある夜、疲れ果てて帰宅した健一に、佳織は静かに、しかし断固とした口調で言った。
「ハルが求めているのは、高い薬でも個室の病室でもない。あなたが隣にいて、あのお話をしてくれることなの。あなたは守っているつもりかもしれないけど、今のあなたはただ、私たちを透明な水槽の中に閉じ込めて、外から眺めているだけよ」
「勝手なことを言うな!」
健一の怒号がリビングに響いた。
「俺がどれだけ外で泥水をすすっていると思っているんだ。誰の金でこの家が維持されていると思っている! 俺だって、本当はアイナメみたいに傍にいたい。でも、人間には食わなきゃいけない現実があるんだ!」
その言い合いを、寝室のドア越しに、震えながら聞いていたハルの心境を、当時の健一は想像だにしなかった。
ハルにとって、大好きな「アイナメのお父さん」は、いつの間にか、怒鳴り声を上げ、自分を見ようともしない「怖い大人」へと変わっていった。
3. 三ヶ月目の審判
離婚の話し合いは、泥沼化することなく、冷淡な事務処理のように進んだ。
佳織の心は、すでに氷のように冷え切っていた。
そして三ヶ月後。
都内の法律事務所の一室で、離婚届が受理され、二人の夫婦関係は法的に消滅した。
最大の焦点は、ハルの親権だった。
本来であれば、育児を主導してきた佳織が引き取るのが自然な流れだった。佳織自身も、ハルを連れて実家に戻り、そこで療養させることを強く望んでいた。
しかし、現実は残酷だった。
佳織の実家は高齢の両親が介護を必要としており、さらに佳織自身も、長年の心労から重度の適応障害を患っていた。経済的な自立の目処も立たない彼女には、難病を抱えるハルの高度な治療を継続させる能力がないと判断されたのだ。
「……申し訳ありません」
佳織は、絞り出すような声で言った。
彼女の指先は、親権を健一に譲る書類の上で、激しく震えていた。
「私が不甲斐ないばかりに、ハルを……。健一さん、お願い。あの子を、あの子のことだけは、絶対に……」
健一は無言で頷いた。
勝利感など微塵もなかった。あるのは、自分が守ろうとした「家族」を、自分の手でバラバラに解体してしまったという、皮肉な敗北感だけだ。
「わかっている。ハルのことは、俺が責任を持つ」
その言葉には、かつての「アイナメの物語」にあった温かみは、もう一滴も残っていなかった。それはただの「義務」であり、自分への「罰」としての誓いだった。
4. 二人きりの水槽
佳織が家を出ていく日。
彼女はハルをきつく抱きしめ、何度も何度も謝っていた。
「ごめんね、ハル。パパと仲良くね。ママ、必ず迎えに来るから」
ハルは泣かなかった。
ただ、感情の抜け落ちたような瞳で、母親の背中を見送っていた。
その夜から、広いアパートには健一とハルの二人だけが取り残された。
健一は、親権という名の「卵」を預かった。
だが、その守り方は歪んでいた。
佳織を失った穴を埋めるように、彼はさらに仕事に没頭した。皮肉なことに、独り身になったことで会社からの期待はさらに高まり、彼はもはや「父親」でいる時間さえ、分単位で削らなければならなくなった。
「パパ」
ある夜、久しぶりに早く帰宅した健一の袖を、ハルが弱々しく引いた。
「……また、あのお話、して」
健一は一瞬、ハルの顔を見た。
ハルの手には、あのボロボロになった図鑑が握られていた。
だが、健一のスマホが激しく振動した。部下からの緊急事態を知らせる通知だった。
「ごめん、ハル。明日、大事な会議があるんだ。資料を見なきゃいけない」
「……うん。わかった」
ハルは、差し出した図鑑をゆっくりと胸に抱き戻した。
その姿は、孵化する前に冷たい水の中に打ち捨てられた卵のように見えた。
健一は書斎に籠もり、パソコンの青白い光に照らされながら、キーボードを叩き続ける。
一方、ハルは一人、暗い寝室で図鑑を開く。
かつて父が語ってくれた、英雄のようなアイナメの姿を。
『お父さんは、役目を終えると、静かに眠りにつくんだよ』
ハルは、その一文を何度もなぞった。
今のパパは、まだ役目を終えていない。
だから、僕を見てくれない。
僕が「孵化」して、どこか遠くへ泳いでいかない限り、パパは僕を置いて、あの暗い社会という海から帰ってこないんだ。
ハルの中で、アイナメの物語は、悲しい「呪い」へと形を変えていった。




