第5話:不滅の記憶(暗誦)
第5話:不滅の記憶(暗誦)
1. 赤い雪
一九五六年、冬。冬馬を襲ったのは、不治の病、結核だった。
懲罰房での衰弱が引き金となり、彼の肺は内側から崩れ始めていた。夜通し響く重く湿った咳は、吐血とともに彼を削っていく。
「先生に治療を受けさせてくれ!」
「医薬品を、せめて熱冷ましを回してくれ!」
今井や工藤、そして冬馬に救われた若者たちは、看守に土下座せんばかりに懇願した。だが、ソ連側の対応は冷淡だった。
「スパイ容疑の政治犯に割く薬はない。死ぬのを待て」
それが、彼らが突きつけられた現実だった。
冬馬は、自分の命の灯火が、今まさに尽きようとしているのを冷静に感じ取っていた。
(……書かなければ。最後に、家族へ。そしてこの国の真実を)
しかし、大きな障壁があった。ソ連の検閲だ。
収容所から出す手紙に、過酷な実態や軍事的な恨みを書けば、即座に没収され、書いた本人も、届ける者も抹殺される。物理的な「紙」に想いを託すことは、もはや不可能だった。
2. 人間の本
「みんな、聞いてくれ……」
冬馬は、血を吐くような思いで仲間を呼び寄せた。
「紙は奪われる。布も焼かれる。……だが、君たちの『記憶』だけは、奴らも検閲できない」
冬馬の提案は、あまりにも無謀で、しかし唯一の希望だった。
彼は、自分が最後に遺したい手紙の内容を数章に分け、それを仲間一人一人に「暗誦」させることにしたのだ。
「工藤さんは、第一章。家族への挨拶と、感謝を。……今井さんは、第二章。シベリアでの日々と、野球の思い出を。……吉村君は、最後の一節を。……いいかい、一文字も、句読点一つも忘れないでくれ。君たち自身が、私の『手紙』になるんだ」
3. 深夜の合唱
それからの数日間、死の床にある冬馬を中心に、奇妙な光景が繰り広げられた。
看守の目を盗み、男たちは冬馬の枕元で、小声で言葉を繰り返し、脳裏に刻み込んだ。
「『よし子、庭のひまわりが咲く頃、私の魂は風になって帰るだろう……』」
「よし、工藤さん。次は今井さんだ。『我々は飢えたが、尊厳は捨てなかった。泥の中に咲く蓮のように……』」
冬馬は高熱に浮かされながらも、国語教師として、一音一音を正し続けた。
男たちは、自分の名前さえ忘れそうな飢餓の中で、冬馬が紡ぐ美しい日本語を、必死に、必死に飲み込んでいった。
「……先生、覚えたよ。全部、ここに入れた」
吉村が涙ながらに自分の胸を叩いた。
冬馬は満足げに、静かに微笑んだ。
もはや、冬馬に遺された時間はなかった。彼の肺は完全に白く濁り、酸素を求める喘ぎだけが、最期の「言葉」を絞り出そうとしていた。
その夜。
冬馬は、かつて語ったアイナメの話を思い出しながら、ゆっくりと目を閉じた。
自分の身体という鰭を動かす力はもうない。だが、彼の言葉は、仲間という「稚魚」たちの心の中に、完璧に写し取られていた。
高木冬馬、享年四十六。
凍土に眠るその死顔は、すべての義務を果たした者のように、驚くほど穏やかだった。




