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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
収容所からの手紙

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第4話:銀鱗の遺言

第4話:銀鱗の遺言

1. 奇跡の陽光

シベリアの長い冬が、ほんの少しだけその牙を収めたある午後のことだった。

厚い雲の切れ間から、弱々しい、しかし確かな陽光が医務室の汚れた窓を透かして差し込んだ。

高熱のピークを越えた冬馬は、真っ白な光の中で目を覚ました。

「……先生! 気がついたんですか!」

枕元にいたのは、あの時、大豆を盗んだ罪を被ってもらった青年の吉村だった。彼は毎日、自分の眠る時間を削って冬馬の看病を続けていた。

冬馬の身体は、以前にも増して薄く、脆くなっていた。声帯も病に侵され、声を出すことさえ重労働だった。しかし、彼の瞳だけは、深い知性の光を取り戻していた。

「吉村君……。少し、話をしようか」

「喋っちゃダメだ、先生。まだ胸の音がひどいんだから」

「いいんだ。聞いてほしい……物語がある」

冬馬は、ゆっくりと、途切れ途切れに話し始めた。それは彼が国語教師だった頃、一番好きだった自然界の物語。そして、この収容所で彼を支え続けた「献身」の象徴だった。

2. アイナメの父

「北の海に……アイナメという魚がいるんだ」

冬馬の声は、枯れ葉が擦れ合うような小さな音だったが、吉村は一言も漏らさぬよう身を乗り出した。

「メスのアイナメは、岩の隙間に卵を産むと、すぐにどこかへ行ってしまう。あとに残されるのは……オスの父親だけだ。彼は、そこから一歩も動かなくなる。卵を狙う敵を追い払い、自分の大きな鰭を……一日中動かして、卵に新鮮な海水を送り続けるんだ」

冬馬は一度、激しく咳き込んだ。吉村が慌てて背中をさする。冬馬は少し落ち着くと、再び話を繋いだ。

「卵が孵るまで、一ヶ月近くかかることもある。その間……父親は何も食べない。自分の身体がボロボロになり、鱗が剥げ落ち、鰭が擦り切れても……ただ、卵を守り、酸素を送り続ける。……そしてね、吉村君。稚魚たちが無事に海へ泳ぎ出すのを見届けたあと、父親は……力尽きて、そのまま死んでしまうんだ」

吉村は、言葉を失った。

その魚の姿が、目の前で骨と皮ばかりになり、自分を救ってくれた冬馬の姿と重なり、視界が涙で滲んだ。

3. 命のバトン

「先生……それじゃ、お父さんは報われない。自分だけ死んじゃうなんて、悲しすぎます」

冬馬は、震える手で吉村の腕を優しく叩いた。

「違うんだよ。アイナメのお父さんは……ちっとも悲しくないんだ。自分の身体は滅びても、自分の命の欠片かけらが、何千もの子供たちとなって……広い海へ泳ぎ出していく。それは……自分が生き続けることよりも、ずっとずっと誇らしいことなんだよ」

冬馬は、自分の胸元を指差した。

そこには、十年間肌身離さず着古し、裏地に家族への手紙を書き連ねたボロボロのシャツがある。

「吉村君。君は、若い。君には、帰るべき場所がある。……君が海へ戻る『稚魚』なんだ。私は、そのための水を送る……ただの親魚でいい」

冬馬は、シャツのボタンを一つずつ、おぼつかない手つきで外そうとした。

「先生、何をしてるんですか!」

「いいから……これを。これが私の、最後の教材だ。……君に、託したい」

冬馬のシャツの裏側には、細かく、びっしりと鉛筆で文字が書かれていた。家族への愛、日本への想い、そしてこの収容所で見た「野球」の輝きや、人間の尊厳についての思索。

それは、一人の男が極限状態で綴り続けた、魂の博物誌だった。

4. 約束の重み

その日の夕方、収容所に衝撃的な発表があった。

ソ連当局による、さらなる帰国者の追加リストが読み上げられたのだ。

冬馬の名前は、そこにはなかった。

しかし、吉村の名前が、一番最後に呼ばれた。

吉村は、冬馬のベッドに泣き崩れた。

「嫌だ! 先生を残してなんて行けない! 先生の代わりに僕がここに残ります。先生が帰るべきだ!」

冬馬は、これまでにないほど強く、吉村の手を握り返した。

「……馬鹿なことを言うな。君が帰ることに意味があるんだ。君が日本に帰り、温かいご飯を食べ、ひまわりが咲く庭を歩く。……その時、君の身体の中に、私の一部も一緒に帰るんだよ。……それが、私の『勝ち』なんだ」

冬馬は、脱ぎ捨てたシャツを丸め、吉村の防寒着の奥深くにねじ込んだ。

「これを……私の家族に。そして、日本の人たちに伝えてくれ。私たちは、最後まで人間として生きたと。……それだけでいい」

冬馬の顔には、もう死の影に怯える色はなかった。

彼は、自分が送り続けてきた「酸素」が、ついに一人の若者を外の世界へ押し出す力になったことを、心の底から祝福していた。

5. 銀鱗の別れ

翌朝、帰国者を運ぶトラックが宿舎の前に止まった。

吉村は何度も振り返りながら、冬馬の眠る医務室の窓を見上げた。

冬馬は、ベッドから這うようにして窓辺に寄り、痩せこけた右手を、ゆっくりと、力強く振った。

その手は、まるで海水を送るアイナメの鰭のように、静かに揺れていた。

トラックが走り出し、雪煙の向こうに消えていく。

冬馬は、その光景を見届けると、深い、深い溜息をついた。

喉の奥の痛みは消え、心臓の鼓動は凪のように穏やかになっていた。

(ああ……これでいい……)

冬馬は、そのままゆっくりと目を閉じた。

彼の脳裏には、満州の夕陽でも、シベリアの雪原でもなく、かつての日本の教室で、子供たちが一斉に教科書を音読する、あの輝かしい「言葉の海」が広がっていた。

彼は今、その海を自由に泳ぎ回る、一匹の銀色の魚になっていた。

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