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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
収容所からの手紙

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第3話:沈黙の懲罰房と、枯れ木の祈り

第3話:沈黙の懲罰房と、枯れ木の祈り

1. 聖職者の盾

野球という名の束の間の希望から数週間。収容所を襲ったのは、例年以上の猛吹雪と、それに伴う「理不尽な連帯責任」だった。

ある日の作業中、空腹に耐えかねた一人の若い抑留者が、看守の目を盗んで馬の餌である大豆を数粒、懐に隠した。それが発覚した瞬間、看守の怒号が響き渡り、班員全員が極寒の雪原に跪かされた。

「盗んだのは誰だ。名乗り出なければ、全員の今夜の配給を半分にする」

凍てつく風が、皮と骨ばかりになった男たちの身体を容赦なく叩く。犯人の青年は恐怖でガタガタと震え、雪の中に顔を埋めていた。彼が名乗り出れば、その場で半殺しにされるか、あるいは「独房送り」だ。

冬馬は、隣で震える青年の細い肩を見つめた。彼はまだ二十歳はたちそこそこで、日本に残した母親のために、どんなに辛くても「生きて帰る」と泣きながら語っていた少年だった。

(この子が今、罰を受ければ、もう二度と春を見ることはない)

冬馬は、感覚のなくなった膝を突き、ゆっくりと手を上げた。

「……私だ。私が、盗んだ」

冬馬の声は、風に掻き消されそうなほど弱々しかったが、その場にいた全員の耳に、重く、静かに響いた。

仲間たちが驚愕の目で見つめる中、冬馬は看守に引きずり出された。青年が泣きながら何かを言おうとしたが、冬馬は視線だけでそれを制した。

『言葉を大切にしなさい。それは、誰かを守るための盾にもなるのだから』

かつて黒板に書いた言葉が、今の冬馬の脳裏で光を放っていた。

2. 虫たちの聖域サンクチュアリ

冬馬が放り込まれたのは、通称「カルツェル」と呼ばれる懲罰房だった。

そこは、人間一人がようやく横になれるかどうかの狭い石造りの穴で、暖房はもちろん、窓さえもない。

最悪なのは、壁の隙間から這い出してくる無数の害虫だった。

衛生状態が劣悪なその部屋には、ナンキンムシや正体不明の羽虫が壁一面を覆い、飢えた彼らは、冬馬の痩せこけた皮膚を容赦なく噛み、吸い尽くそうとした。

「……う、うう……」

暗闇の中で、冬馬は自分の身体が食い荒らされる感覚に襲われた。激しい痒みと、そこから来る発熱。だが、彼は不思議と絶望していなかった。

虫たちが這いずる音。自分の心臓の音。

それだけが、この孤独な闇の中で自分がまだ「生きている」ことを証明する唯一の調べだった。

冬馬は、壁の僅かな凹凸を指でなぞった。

そこには、過去にこの房に入れられた名もなき人々が遺した「呪い」や「祈り」が刻まれていた。

冬馬は、自分の指先から流れる僅かな血をインク代わりにし、壁の余白に新しい言葉を綴り始めた。

『今日、私は闇の中にいる。だが、私の代わりに、あの子は今頃パンを食べているだろう。それでいい。それだけで、私の言葉には価値がある』

3. 崩れゆく身体

三日間の懲罰を終えて出てきた冬馬の姿は、もはや生者には見えなかった。

全身は虫刺されによる炎症で赤紫に腫れ上がり、高熱で焦点が定まっていない。仲間たちが駆け寄り、彼を抱きかかえたが、その身体は羽毛のように軽くなっていた。

「先生! どうして……どうしてあんな馬鹿な真似を!」

助けられた青年が、冬馬の枕元で号泣した。

冬馬は、ひび割れた唇を僅かに動かし、微かに笑った。

「……教え子が、お腹を空かせているのを……放っておける、教師はいないよ」

だが、無理が祟ったのは明らかだった。

懲罰房での衰弱と、もともとの栄養失調、そして虫が媒介した病。冬馬の意識は混濁し、激しい喘息のような咳が、狭い宿舎に響き渡るようになった。

収容所の医務室とは名ばかりの、冷たい木の板の上に横たわった冬馬は、うわ言のように家族の名前を呼び続けた。

「ハル……、よし子……、庭の……ひまわりは……」

それは、かつて彼が語った「アイナメ」が、自らの肉体をボロボロにして卵を守り抜いた後の姿そのものだった。

冬馬は、自分の「命」というパンを、仲間に分け与えてしまったのだ。

4. 枯れ木の誓い

冬馬の体調が悪化する一方で、収容所の仲間たちの間には、ある「沈黙の連帯」が生まれた。

冬馬を死なせてはならない。

男たちは、自分の乏しい配給のスープから、ほんの一匙さじずつの具を、冬馬の器に隠すようになった。

冬馬を一人にしてはならない。

夜、凍え死なないように、男たちは交代で冬馬の両脇に座り、自分たちの体温で彼を温めた。

ある夜、少しだけ意識が戻った冬馬は、自分を囲む仲間たちの顔を見た。

彼らの目は、かつて黒パンを奪い合っていた狼の目ではなかった。

悲しみと、祈りと、そして人間としての「慈しみ」を湛えた、優しい瞳だった。

「先生……あんたが教えてくれた言葉、忘れないよ」

かつての荒くれ者だった工藤が、冬馬の手を握りながら言った。

冬馬は、震える手で自分の胸元を探った。

そこには、シャツの裏地に書き綴った「手紙」がある。

「工藤さん……もし、私が……動かなくなったら……この布を、持ち帰って……。日本へ……家族へ……」

「何言ってんだ、先生! 自分で届けるんだよ! あんたが一番、帰らなきゃいけないんだ!」

冬馬は答えず、ただ静かに目を閉じた。

彼の呼吸は浅く、細くなっていたが、その表情はどこまでも穏やかだった。

(ああ、ようやく分かった。言葉を遺すというのは、紙に書くことだけではない。こうして、誰かの心の中に……自分を刻み込むことなのだ)

窓の外では、シベリアの風が、枯れ果てた白樺の木々を揺らしていた。

その音は、冬馬には故郷の教室で子供たちが一斉に教科書を開く、あの懐かしい音のように聞こえていた。

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