第2話:黒パンの秤(はかり)と、白銀のダイヤモンド
第2話:黒パンの秤と、白銀のダイヤモンド
1. 聖なる三〇〇グラム
中央アジアの特別収容所。そこにあるのは、シベリアの「凍土」とはまた違う、乾燥した「絶望」だった。
冬馬たちが毎日与えられるのは、たった三〇〇グラムの黒パンと、具材が一切見当たらない、お湯に泥を混ぜたような薄いスープだけだった。
「いいか、目を離すな」
朝の配給時間、収容棟には剣呑な空気が漂う。
黒パンを切り分けるのは、その日ごとに交代で決まる「当番」の役目だが、それは収容所内で最も名誉であり、同時に最も命の危険を伴う職務だった。
一斤のパンが、六人の男たちに分けられる。
切り分ける者は、定規で測るかのように慎重にナイフを動かす。パンの屑一つ、数ミリの厚みの差が、ここでは「生」と「死」の境界線になるからだ。
周りを取り囲む男たちの眼光は、もはや人間のそれではない。獲物を狙う狼のような、剥き出しの飢餓がそこにはあった。
「……よし。引け」
切り分けられた六つの破片。どれを取るかは、くじ引きか、あるいは端から順に選ぶ。
もし一人でも「不公平だ」と声を上げれば、そこから血で血を洗う暴動が起きる。冬馬は、かつて教え子たちに「平等」という言葉を辞書で引かせたことを思い出し、喉の奥で皮肉な笑いが込み上げた。
(言葉を教えていた私が、今は数ミリのパンの切れ端に魂を売ろうとしている)
冬馬の身体は、この数ヶ月で骸骨のように痩せこけていた。肋骨は浮き出し、かつて言葉を紡いだ唇はひび割れて血が滲んでいる。
だが、そんな地獄のような日々の中で、冬馬は一つの「物語」を守り続けていた。
それは、娘に読み聞かせるはずだった、未完の童話の続きだ。彼は寝床の壁に、爪で密かにその物語を刻み込んでいた。
2. 瓦礫の中の「遊び」
絶望が頂点に達し、自殺者が相次いだある休日のことだった。
作業が休みとなり、男たちが死んだ魚のような目で広場に座り込んでいた時、班長だった元職業軍人の今井が、布を丸めた「塊」を持って現れた。
「……先生、野球をやろう」
冬馬は耳を疑った。
「野球……? 今井さん、冗談を言っている余裕はないはずだ。みんな、立つ力さえ残っていない」
今井は、無骨な手でその塊を差し出した。
それは、ボロ布を幾重にも重ね、収容所の塀に絡まっていた有刺鉄線を芯にして、古い軍靴の紐で固く縛り上げた「ボール」だった。
バットは、作業現場からくすねてきた、折れかけのスコップの柄だ。
「このままじゃ、みんなパンの重さを測るだけの機械になっちまう。……俺たちは、まだ人間だ。そうだろう?」
今井の目は、かつての戦場で見せた鋭いものではなく、どこか子供のような熱を帯びていた。
冬馬は、ふと、満州へ行く前に校庭で泥まみれになって白球を追っていた教え子たちの姿を思い出した。
「……わかった。やりましょう。ルールを忘れている奴らには、私が教えます」
元国語教師の冬馬が、審判と解説役を引き受けた。
それは、飢え死にするのを待つだけの集団に投じられた、一石の波紋だった。
3. 雪原のダイヤモンド
収容所の広場に、石灰の代わりに、燃え残りの灰でラインが引かれた。
グローブはない。素手で受ける。
審判の冬馬が、ひび割れた声で叫んだ。
「プレー、ボール!」
最初の一球が投げられたとき、ソ連軍の看守たちも呆気に取られて監視塔から身を乗り出した。
「あいつらは狂ったのか」「明日をも知れぬ命で、何をしている」
ロシア語の嘲笑が飛ぶが、選手たちの耳には届かない。
打席に立ったのは、かつてパンの配分で一番揉めていた、荒くれ者の工藤だった。
彼は骨張った腕でスコップの柄を構えた。
ピッチャーが放った「布の塊」が、不格好な弧を描いて飛んでくる。
――カツッ。
乾いた音が響いた。
芯を外した鈍い音。それでも、ボールは灰色の空へと舞い上がった。
工藤は、ふらつく足で一塁へと走り出した。
「走れ! 工藤! 走れ!」
周りの男たちが、枯れ果てた喉を震わせて叫ぶ。
その瞬間、そこにあったのは「収容者」でも「スパイ容疑者」でもなかった。
ただ一人の走者であり、それを応援する仲間だった。
黒パンの重さに呪われていた彼らの心が、ボールの軌道とともに空へと解き放たれていた。
4. 黒い雪と、白い息
試合は三イニングで終わった。
全員が体力の限界だった。工藤は一塁ベース代わりの瓦礫の上で倒れ込み、激しく咳き込んでいた。
だが、その顔には、ここ数年一度も見られなかった「生気」が宿っていた。
「……先生、俺、思い出したよ」
工藤が地面に這いつくばったまま、冬馬を見上げて言った。
「小学校の時、初めてヒットを打ったあの日……親父が、今夜は贅沢に飯を食おうって笑ってくれたんだ。……黒パンなんかじゃねえ、炊きたての、白い飯だ」
冬馬は工藤の肩を抱き寄せた。
涙は出なかった。身体の水分は、すべて冷たい汗となって流れ落ちていたからだ。
だが、冬馬の胸の奥には、確かな熱が戻っていた。
「言葉」だけでは救えなかった心を、「野球」という遊びが繋ぎ止めた。
無意味に見えることが、極限状態においては、最も深い意味を持つ。
それが、人間が人間であるための、最後の抵抗なのだ。
看守たちが「戻れ!」と銃床を地面に叩きつけ、強制的に試合は終わらされた。
男たちは、再び静かな、死の重圧が漂う宿舎へと戻っていく。
しかし、その足取りは、先ほどまでとは違っていた。
彼らの心の中には、灰色の空を切り裂いて飛んでいった、あの「布の塊」の軌道が、消えない残像として刻まれていた。
5. 闇の中のペン
その夜。
冬馬は、配給された黒パンを口に運ぶ前に、それをじっと見つめた。
三〇〇グラム。いつもと同じ、不公平の種。
だが、今の彼には、それがただの炭水化物の塊には見えなかった。
明日もまた、あのボールを追いかけるための「燃料」だ。
冬馬は、隠し持っていた鉛筆の芯を、唾液で湿らせた。
そして、ぼろぼろになった自分のシャツの裏地に、密かに文字を書き始めた。
『今日、凍土の上で野球をした。三イニングだけの、名もなき試合。
私たちは、飢えに負けなかった。私たちは、まだ、人間だ――』
冬馬は、自分の肉体を「手紙」にすることを決意した。
いつか、自分が死んで骨になっても、このシャツに刻まれた「言葉」が、誰かの手に渡り、海を越えることを信じて。
それは、アイナメが卵に水を送るように、冬馬が日本の家族へ、そして未来の子供たちへ送る、魂の「換気」だった。
その夜、シベリアの空からは、黒い雪が静かに降り積もっていた。




