第1話:凍土に消える黒板の文字
第4章:収容所からの手紙
第1話:凍土に消える黒板の文字
1. 茜色の記憶
一九四〇年。満州の空は、どこまでも高く、残酷なほどに澄み渡っていた。
かつて信州の寒村で国語を教えていた**高木冬馬**は、新天地への希望を抱き、妻と幼い娘を連れて大陸へと渡った。
教え子たちに別れを告げるとき、彼は黒板に一言だけ書いた。
『言葉を大切にしなさい。それは、暗闇の中であなたを導く灯りになるから』
しかし、満州の現実は、彼が夢見た「五族協和」の理想郷ではなかった。
教鞭を執るはずの手には軍銃が握らされ、三十歳を過ぎた彼は、関東軍の将校として情報の整理や通訳を任されるようになった。元教師という経歴が、皮肉にも彼を「言葉を武器にする軍人」へと変えてしまったのだ。
「冬馬さん、いつかまた、子供たちに物語を読んであげられる日が来るわよね」
妻の言葉に、彼は静かに頷くしかなかった。夕陽に染まる満州の平原を見つめながら、彼は心の中で、まだ幼い娘に読み聞かせるための自作の物語を綴り続けていた。それが、彼の唯一の正気を保つ手段だった。
2. 八月の崩壊、凍れる絶望
一九四五年、八月。
すべてが瓦解した。
国境を越えて押し寄せるソ連軍の戦車隊、響き渡る爆音、そして逃げ惑う開拓民たちの悲鳴。
冬馬は家族を避難列車に乗せるため、駅のホームで自ら囮となった。
「行きなさい。必ず後から追いつく。日本で、あのひまわりが咲く庭で会おう」
それが、愛する者たちと交わした最期の言葉となった。
冬馬はソ連軍に拘束され、貨物列車に詰め込まれた。行き先も告げられぬまま、列車は北へ、北へと向かう。隙間風が吹き抜ける凍てつく車両の中で、冬馬は震える指で、家族に宛てた「届くはずのない手紙」を空中に書き続けた。
辿り着いたのは、シベリア。
見渡す限りの白銀の世界、マイナス四十度の静寂が支配する「死の収容所」だった。
3. 言葉という名の罪状
ラーゲリでの生活は、まさに地獄を煮詰めたようなものだった。
夜明けとともに凍土の採掘に駆り出され、粗末な黒パン一つで重労働を強いられる。仲間たちが一人、また一人と栄養失調や寒さで倒れていく中、冬馬を最も苦しめたのは、不条理な「裁判」だった。
「お前は元教師でありながら、関東軍の将校をしていた。日本語、中国語、ロシア語を解する。……立派なスパイの経歴だな」
通訳を介した冷徹な取調官の言葉。
冬馬は何度も否定した。自分はただ、言葉を愛し、平和を望んだ一人の教師に過ぎないと。だが、ソ連側にとって、知性を持つ日本軍人は「潜在的な脅威」でしかなかった。
裁判の結果、冬馬には「スパイ容疑」という汚名とともに、二十五年の強制労働という、事実上の死刑宣告が下された。
(私は、言葉を教えていたはずだ。人を守るための、言葉を。それがなぜ、私を縛る鎖になるのか)
絶望の淵で、冬馬は自らに問い続けた。
だが、そんな彼を救ったのは、同じ班の仲間たちだった。
「先生、あんたの語る『物語』が、俺たちの唯一の楽しみなんだ。今夜も、続きを聞かせてくれよ」
冬馬は、零下の中で感覚を失った喉を震わせ、かつて教壇で語った童話や、家族に宛てた詩を仲間たちに聞かせた。彼の言葉は、凍てつくラーゲリの中で、小さな、しかし消えることのない火を灯し続けた。
4. 十年目の「帰国」
一九五五年。
抑留から十年が過ぎた。
かつての若々しかった冬馬の顔には、刻み込まれた深い皺と、霜焼けの跡が残っていた。
ある朝、ラーゲリに朗報が届いた。
「日ソ共同宣言により、生存者の一部を日本へ帰国させる」
冬馬の名前も、そのリストに載っていた。
彼は震える手で、大切に隠し持っていた家族の写真を取り出した。
十年。娘はもう中学生になっているだろうか。妻は自分を待っていてくれているだろうか。
「ようやく……ようやく帰れる」
冬馬は、ボロボロになった仲間たちと肩を組み、帰国船が出るというナホトカの港を目指す汽車に乗り込んだ。車窓から見えるシベリアの景色さえ、今は希望の色に見えた。
汽車の音に合わせて、冬馬の心臓は高鳴った。
「日本へ、日本へ」
そのリズムだけが、彼を支えていた。
5. 裏切られた終着駅
汽車は数日間、走り続けた。
「もうすぐ海が見えるはずだ」「港の匂いがしてきた気がする」
仲間たちが希望に満ちた声を上げる。
やがて、汽車がゆっくりと速度を落とした。
ブレーキの軋む音が響き、重い扉が開かれる。
冬馬は真っ先にホームへ飛び出そうとした。だが、彼の目に飛び込んできたのは、潮の香る青い海ではなかった。
そこは、見覚えのある「高刺し線」と、灰色の監視塔が立ち並ぶ場所だった。
「……ここは、どこだ」
冬馬の隣にいた男が、絶望に満ちた声を漏らした。
駅名標には、ナホトカではなく、さらに北の地名が記されていた。
ソ連兵が、冷たい銃口を彼らに向けて叫ぶ。
「降ろせ! ここがお前たちの新しい『家』だ!」
彼らが着いた場所は、港ではなかった。
政治犯を収容するための、さらに過酷な「中央アジアの特別収容所」だったのだ。
日本への帰国という甘い罠は、ソ連政府が「反抗的な抑留者」を選別し、別の収容所へ移送するための残忍な嘘だった。
冬馬は、足元から崩れ落ちた。
手の中に握りしめていた写真は、風に煽られ、灰色の雪の中に落ちた。
故郷は、家族は、日本は。
あんなに近くに見えていた希望が、一瞬にして凍土の霧の向こうへと消えていった。
(ああ、神様。私はまだ、言葉を信じろというのですか)
冬馬の口から漏れたのは、言葉にならない、乾いた慟哭だった。




