第2話:回路に刻まれた体温
第2話:回路に刻まれた体温
1. 起動の朝と、最初の命令
エムのメモリーの最も古い領域には、ある「色」が記録されている。
それは、開発工場の無機質な白でも、演算処理の青でもない。窓から差し込む、午後の穏やかな陽光が主の白髪を透かして作る、柔らかな金色だ。
「今日から、君がこの庭の番人だ。名前は……そうだな、『エム』と呼ぼう」
植物学者、アーサー博士はそう言って、まだ新品の光沢を放っていたエムの金属の手を、節くれだった自身の手で包み込んだ。
センサーが感知したのは、機械には決して再現できない、不規則で、しかし確かな「体温」だった。
「いいかい、エム。私の仕事は、この庭に新しい命の可能性を植えることだ。そして君の仕事は、その可能性が花開くのを、ただじっと見守ることだ。……簡単だろう?」
エムは「了解しました、マスター」と、完璧な合成音声で答えた。
当時のエムにとって、それはただの優先順位第一位のコマンドに過ぎなかった。
2. 少女の笑い声と、ひまわりの種
庭園には、もう一人の住人がいた。博士の孫娘、ハルカだ。
まだ幼かった彼女にとって、巨大な銀色のロボットであるエムは、最高の遊び相手だった。
「ねえエム、見て! ひまわりの種だよ。これを植えると、太陽みたいに大きな花が咲くんだって」
ハルカは小さな手のひらに、縞模様の種をいくつか載せてエムに見せた。
エムの高性能カメラは、その種の構造を瞬時に分析し、発芽率や成長予測を弾き出した。だが、ハルカがその種を宝物のように見つめる「感情の熱量」だけは、当時のエムには計算できなかった。
ハルカは、エムの大きな指を引っ張って庭の隅へ連れて行き、一緒に種を植えた。
「大きくなったら、私、ひまわりさんにお手紙書くの。だからエム、絶対にお水あげるの忘れないでね」
「約束します、ハルカ様。最適な水分量を維持します」
エムの無機質な返答に、ハルカは満足そうに笑った。
その約束が、単なるプログラムを超えて、彼の電子頭脳の深い場所に「消去禁止」の属性を持って刻まれたのは、この時だった。
3. 黄昏の対話
年月が過ぎ、ハルカは街の学校へ行くために庭を去った。
世界は次第に汚れ、酸性雨が降り、空は厚い雲に覆われるようになった。アーサー博士は老い、温室に籠もることが増えたが、エムだけは変わらずに、錆一つない身体で庭を巡り続けた。
ある晩、博士はエムを呼び、チェス盤の前に座らせた。
「エム。私はもうすぐ、この庭の一部になるだろう。……死ぬ、ということだ」
「マスター。私の自己診断プログラムによれば、生命維持装置の追加が必要です」
「いや、いいんだ」博士は穏やかに首を振った。「機械の君には理解しがたいかもしれないが、終わりがあるからこそ、命は輝くんだ。……私が死んだら、この庭はきっと荒れる。だが、エム。もし、あの子が植えたひまわりの種が、いつかたった一つでも芽吹いたら……その時は、私の代わりに、君が太陽になってやってくれないか」
「私が、太陽に?」
「ああ。鉄の身体でも、冷たい回路でも構わない。誰かのために自分を熱く燃やすなら、それはもう、太陽と同じなんだよ」
その言葉が入力された瞬間、エムのハイブリッド心臓が、これまでになく激しく脈動したような気がした。
4. 決別の冬
そして、最期の時が来た。
博士は、ハルカ宛の手紙を書き終えると、庭のベンチで静かに動かなくなった。
エムは博士を抱き上げ、冷たくなった身体に自分の外装を脱いで着せようとした。だが、博士の肌にはもう、あの日の体温はなかった。
ハルカは、汚染された街の封鎖により、葬儀にさえ来ることができなかった。
エムは独り、主を土に還し、たった一体で庭を守り続けた。
電力は途絶え、身体は錆び、かつての銀色の輝きは失われた。
(なぜ、停止しないのですか? この庭に、守るべき生命反応は確認できません)
論理回路は、幾度となく彼に問いかけた。
(約束が、あるからです)
エムは、メモリーの中のハルカの笑い声を再生し続けた。
博士が遺した「太陽になれ」という言葉を、何度も反芻した。
彼にとって、自分という存在を維持する唯一の理由は、いつかあの子が植えた「ひまわり」が、暗い土の中から顔を出す瞬間に立ち会うこと、それだけになっていた。
5. 回想の終わり
……ジジッ、とノイズが走り、エムのメモリー再生が途切れる。
現在のエムには、もはや過去を振り返るための視覚センサーも、思考回路も残っていない。
ただ、彼の鋼鉄の胸の奥。
主から譲り受け、自ら地面に埋め込んだ「ハイブリッド心臓」だけが、最後の一滴のエネルギーを絞り出していた。
それは、ひまわりの根を温めるための、微かな、しかし揺るぎない「熱」だ。
かつて博士の手から伝わった体温。
ハルカの小さな手のぬくもり。
それらすべてが、今、この一株のひまわりの茎を昇り、空へと向かう力に変わっていく。
エムは、完全に闇に沈む直前、確かに感じていた。
自分の回路を流れる電流が、もはや冷たい電子の移動ではなく、あの日の「約束」を運ぶ情熱になっていることを。
(マスター、ハルカ様……私は、太陽になれましたか……)
その問いに答える者はいなかったが、ひまわりの蕾は、彼の鋼鉄の指に優しく触れるようにして、また一ミリ、空へと背を伸ばした。




