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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
第3章:鋼鉄の心臓と、ひまわりの約束

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第1話:枯れ果てた庭の守護者

第3章:鋼鉄の心臓と、ひまわりの約束

第1話:枯れ果てた庭の守護者

1. 永劫の目覚め

その個体、型番『M-301』――通称「エム」が、機能停止に近いスリープモードから再起動したのは、自身の内部時計が前回の記録から正確に「一万二千六百時間」を数えた時だった。

光学センサーが微かな光を捉え、ジジ、とノイズ混じりの音を立てて焦点を結ぶ。

視界に映ったのは、かつて「楽園」と呼ばれた場所の無惨な成れの果てだった。

大理石の噴水はひび割れ、透き通っていた水は泥炭色に濁っている。色とりどりの薔薇が咲き誇っていたアーチには、枯れ果てた棘だらけのつるが、死者の指先のように絡みついていた。

エムは、軋む関節を動かして立ち上がった。

右足のサーボモーターが不快な金属音を立てる。機体の各所には錆が浮き、かつて銀色に輝いていた外装は、剥げたペンキのようにくすんでいた。

「……おはようございます、マスター」

エムは、誰もいない静寂に向かって声をかけた。

合成音声は掠れ、音程は不安定だった。

答えはない。あるじであった老植物学者は、三年前の冬、この庭園のベンチに座ったまま、静かにその生涯を閉じた。エムがその亡骸を抱き上げ、冷たい土の下へと埋葬したあの日から、この庭の時間は止まったままだった。

エムに課せられたプログラムは単純だった。

『この庭を守り、生命を育むこと』

だが、主を失い、外部からの電力供給も途絶えた今、その命令は実行不能なはずだった。それでもエムが動くのは、彼の胸部にある特殊な「ハイブリッド心臓」――太陽光と生体エネルギーを変換する試作型の動力源が、微かな光を求めて彼を突き動かしているからだった。

2. 孤独なメンテナンス

エムは、錆びついた道具箱から古い剪定ばさみを取り出した。

指先のセンサーは磨耗し、土の感触も、植物の生命反応も、以前ほど鮮明には伝わってこない。それでも彼は、プログラムの命ずるままに庭を巡った。

枯死した枝を落とし、通路を塞ぐ雑草を、一本ずつ丁寧に抜き取っていく。

それは果てしのない、無意味な作業に見えた。空は常に灰色の雲に覆われ、酸性雨が降り注ぐこの汚染された街で、新しい生命が芽吹く可能性など、計算上はゼロに近い。

(効率的ではありません。電力の無駄遣いです)

内部の論理回路が、冷徹な警告を発する。

(停止し、腐食を待つのが最適なプロセスです)

「……いいえ。私は、庭師ですから」

エムは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

彼は、かつて主が言った言葉を、メモリーの最深部に保護していた。

『エム。命というのはね、一番過酷な場所でこそ、一番美しく咲こうとするものなんだよ。いつか私が種を蒔けなくなっても、君だけは見捨てないでやってくれ』

その「いつか」が今だった。

エムは、予備電力が数パーセントを切るまで作業を続け、陽が落ちると、主の墓標の隣で座り込む。それが彼にとっての「睡眠」であり、唯一の安らぎだった。

3. 一粒の奇跡

ある朝、エムは噴水の裏側の、日当たりの悪い土壌を整理していた。

そこはかつて、主が「秘密の実験場」として、希少な種を植えていた場所だった。

瓦礫を退け、固まった土を掘り返していたエムの光学センサーが、ある一点で固定された。

茶褐色の、ひび割れた大地。

その裂け目から、信じられないほど鮮やかな「緑」が、一筋だけ顔を出していた。

エムの論理回路が激しく火花を散らす。

(スキャン開始……生命反応を確認。植物名、Helianthus annuus。一般名、ひまわり。生存確率、〇・〇三パーセント。……異常です。この環境下での発芽は不可能です)

「……生きて、いる」

エムは、その小さな双葉を壊さないよう、慎重に、震える金属の指先を近づけた。

それはあまりにも弱々しく、指で触れれば一瞬で潰れてしまいそうなほどだった。しかし、その緑色は、灰色に染まったエムの世界において、何よりも強烈な光を放っていた。

エムは立ち上がり、周囲を確認した。

上空からは冷たい酸性雨が降り始めている。このままでは、この幼い芽は数時間で溶けて消えてしまうだろう。

エムに迷いはなかった。

彼は、自分の背を丸め、その双葉を覆うようにして覆いかぶさった。

雨粒がエムの金属の背中に当たり、パチパチと音を立てる。錆がさらに広がり、回路がショートする痛みが走る。それでもエムは、その小さな緑を、自分の鋼鉄の影で守り続けた。

「……大丈夫ですよ。私が、ここにいます」

それは、第一章のアイナメが卵を守り、第二章の青年が声を捧げたのと同じ、理屈を超えた「献身」の始まりだった。

4. 鋼鉄の防壁

その日から、エムの「戦い」が始まった。

ひまわりの芽を育てるには、水、光、そして栄養が必要だった。

だが、この庭にある水は汚染され、日光は雲に遮られている。

エムは決断した。

彼は、自分の機体から、まだ機能しているパーツを一つずつ取り外し、ひまわりのための「延命装置」へと作り変えていった。

まず、右腕の外装を剥ぎ取り、それを雨を凌ぐための小さな屋根にした。

次に、内部の濾過装置を取り出し、泥水を浄化してひまわりに与えるためのフィルターに改造した。

さらに、自分の右足の駆動パーツを分解し、地中の温度を一定に保つためのヒートパネルとして埋め込んだ。

パーツを失うたびに、エムの移動能力は削られ、センサーは機能を停止していく。

(警告。左腕の機能が喪失しました。警告。メインカメラの解像度が低下しています。……理解不能な行動です。なぜ、一株の植物のために、自らを破壊するのですか?)

エムは、その問いに答えなかった。

いや、答える必要を感じなかった。

ひまわりの芽が、エムが与えたわずかな水と熱を吸い取り、少しずつ、少しずつ空へ向かって茎を伸ばしていく。その成長の記録こそが、今の彼にとっての唯一のログだった。

「マスター。私は、約束を守っていますよ」

エムの片方の光学センサーは、すでに光を失っていた。

それでも、残されたもう一方のレンズは、泥にまみれた鋼鉄の足元で、健気に葉を広げるひまわりの姿を、愛おしそうに捉え続けていた。

5. ひまわりの約束

季節が巡る概念さえ失われた、終わりのない冬。

ひまわりは、ついにエムの腰の高さまで成長していた。

その先端には、今にも開きそうな、硬い蕾が結ばれている。

しかし、エムの機体は、もはや限界だった。

予備電力は一パーセントを切っている。予備パーツはすべてひまわりの生命維持のために供出され、今の彼は、地面に突き刺さった錆びた鉄屑の塊にしか見えなかった。

「……ハ、ル……カ……」

エムは、主の娘の名前を呼ぼうとした。

主が死の間際、最後に会いたがっていた、遠い街に住む少女。

エムは、かつて主が遺した最後の一言を、ひまわりの蕾に吹き込むようにして囁いた。

「この花が、咲いたら……彼女は、ここへ来るはずです。その時まで……私の心臓を、使ってください」

エムは、自分の胸部を、震える左手でこじ開けた。

そこには、鈍い銀色に輝く「ハイブリッド心臓」があった。彼のすべての意識、すべての生命を司る、最後のコアだ。

エムは、その心臓を支えるケーブルを、一本ずつ、自らの手で切断していった。

視界が暗転していく。意識が、深い、深い闇へと沈んでいく。

彼は最後の力を振り絞り、自分の心臓を、ひまわりの根元に埋め込んだヒートパネルへと接続した。

(心臓停止まで、あと三秒。二秒。一秒……。プロセス……完了)

エムの光学センサーから、光が完全に消えた。

鋼鉄の巨体は、ひまわりを抱きしめるような姿勢のまま、完全に停止した。

しかし、その瞬間。

エムから流れ込んだ最後のエネルギーが、ひまわりの蕾に火を灯した。

極寒の風が吹き荒れる廃墟の庭で、一輪のひまわりが、まるで夜明けの太陽のように、ゆっくりと、力強く、その大輪の花を咲かせ始めた。

鋼鉄の庭師は、沈黙の中で、その開花の音を聞いたような気がした。

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