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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
島唄に寄せて

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第4話:永遠に響く沈黙

第4話(終章):永遠に響く沈黙

1. 嵐のあとの静寂

嵐が過ぎ去ったあとの空は、何事もなかったかのように高く、透き通った藍色を湛えていた。

昨夜の狂乱を物語るように、浜辺には大量の海藻や流木が打ち上げられ、潮の匂いがいつもより濃く立ち込めている。島の人々は、恐る恐る雨戸を開け、互いの無事を確認し合うために外へと這い出してきた。

しかし、比嘉医師や村の若者たちが真っ先に向かったのは、いつもの岩陰だった。

そこには、一丁の三線が、砂に半ば埋もれるようにして置かれていた。

海星が肌身離さず持っていた、蛇皮を継ぎ当てしたあの古い楽器だ。不思議なことに、激しい風雨に晒されたはずのその三線は、まるで誰かが大切に守っていたかのように、一点の汚れもなく、朝日に照らされて艶やかに光っていた。

そして三線の周囲には、真珠のように白い、珊瑚の破片に似た石がいくつも散らばっていた。それは昨夜、海星の喉から砕け散った「愛の結晶」の残り香だ。

海星の姿は、どこにもなかった。

足跡さえも、寄せては返す波に攫われたのか、真っさらな砂浜が広がるばかりだ。島の人々は、言葉を失ってその光景を見つめた。誰かが嗚咽を漏らし、誰かが静かに膝をついた。

「海星は……海の神様に、お声を返しに行ったんだね」

一人の老女が呟いた。その言葉は、悲しみというよりも、一つの崇高な儀式を終えた者への敬意に満ちていた。彼は、一人の女性を救うために自分を使い切り、最後には形ある肉体さえも、島を囲む青い情景の中へと溶かしてしまったのだ。

2. 託された「声」の行方

美波は、その浜辺から少し離れた場所で、海を見つめて立っていた。

彼女の手の中には、海星が残した白い石が一つ、固く握りしめられていた。その石は、朝の光を浴びて微かに熱を持っており、まるでまだ彼の鼓動が続いているかのような錯覚を彼女に与えた。

彼女の喉は、今、不思議なほどに澄み渡っている。

海星から受け取った「声」という名のバトン。それは単なる歌唱技術ではなく、誰かを想い、誰かのために自分を削るという「愛の重み」そのものだった。

「海星……見てて。私、もう逃げないから」

美波は、静かに喉を開いた。

最初に出た音は、歌ですらなかった。ただの、深い祈りのような溜息。

だが、その一音が空気中に解き放たれた瞬間、島の森の鳥たちが一斉に飛び立ち、ざわついていた風がぴたりと止んだ。

彼女が歌い始めると、島中の人々が浜辺に集まってきた。

それは、海星がかつて歌っていたのと同じ「島唄」だった。しかし、美波の歌声には、かつてなかったほどの「深み」と、聴く者の魂を抱きしめるような「包容力」が宿っていた。

海星の声は、死んだのではない。美波という器を得て、より大きな、より力強い「希望の旋律」へと生まれ変わったのだ。

3. 世界を巡る潮風

それから数年後。

美波の名は、島を越え、海を越え、世界中に知れ渡るようになった。

彼女は「奇跡の歌姫」と呼ばれ、彼女が歌うコンサートホールには、心に傷を負った人々、人生に絶望した人々が、救いを求めて列をなした。

彼女のステージは、いつも不思議な演出から始まる。

豪華なオーケストラがいるわけではない。派手な照明があるわけでもない。

ただ、ステージの中央に一人の女性が立ち、胸元に下げた小さな白い石を、愛おしそうに指でなぞる。

すると、大都会の真ん中にある密閉されたホールの中に、どこからともなく、温かく湿った「南の島の潮風」が吹き抜けるのだ。

観客たちは目をつぶる。

そこには、自分たちを見守る「銀色の鱗を持つ魚」のような、透明な献身の気配がある。

誰かが自分のために、沈黙を選んでくれた。

誰かが自分のために、苦しみを引き受けてくれた。

その感覚が、凍てついた観客たちの心を、ゆっくりと溶かしていく。

彼女が歌い出すとき、その傍らには、いつも一人の青年の影が寄り添っていた。

三線を抱え、誇らしげに、しかし静かに微笑む海星の姿が。

美波の歌声が完璧な高音を奏でるとき、それは彼女の喉ではなく、海星の魂が共鳴している瞬間だった。

4. 継承される博物誌

島では、海星の物語が民話として語り継がれるようになった。

「愛する人のために声を失った青年」の話は、子供たちの寝かしつけの歌となり、恋人たちが永遠を誓う際の聖なる誓約となった。

比嘉医師は、自らの診察録の最後に、こう書き記した。

『人間という生き物は、時に、自らの生存本能を超越した選択をすることがある。アイナメがその身を犠牲にして卵を守るように、海星という青年は、自らのアイデンティティである「声」を捧げて、一人の命を繋ぎ止めた。これは生物学的な死ではなく、精神的な「孵化」である。彼の声は、もはや一つの喉に閉じ込められることはなく、風となり、海となり、彼女の歌声の一部となって、永遠の命を得たのだ』

美波が年に一度、島に帰ってくる日。

彼女は必ず、あの浜辺で一晩中、歌を捧げる。

観客は誰もいない。ただ、寄せては返す波と、満天の星空だけが彼女の聴衆だ。

「島唄よ、風に乗り……届けておくれ、私の涙……」

彼女が歌い終えると、水平線の向こう側で、一匹の大きな魚が跳ねる。

銀色の鱗が月光を跳ね返し、一瞬だけ世界を白く染める。

それは、役目を終えたあともなお、愛する者の行く末を見守り続ける守護者の合図。

沈黙という名の最強の献身は、こうして物語となり、歌となり、人々の心の中で鳴り止むことのない旋律となった。

5. 結び:名もなき愛の博物誌

この世界には、図鑑に載らない「生態」がまだたくさんある。

自分の血を分け与え、自分の声を捧げ、最後には名前さえも忘れ去られていくような、不器用で、一途な生き物たち。

第一章の父親、健一。

第二章の青年、海星。

彼らは皆、一つの共通した法則に従って生きていた。

「自分の終わりが、誰かの始まりになること」を、恐れずに受け入れたのだ。

短編集『名もなき愛の博物誌』のページをめくると、そこには常に、潮の香りと、小さな命が力強く羽ばたく音が満ちている。

次に語られるのは、どんな生き物の、どんな「献身」だろうか。

風が吹くたびに、新しい物語が、誰かの喉を、誰かの心を通して、また生まれようとしている。

(第二章:島唄に寄せて・完)

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