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名もなき愛の博物誌 ―剥落する鱗の記憶―  作者: 水前寺鯉太郎
銀鱗の守護者

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第1話:硝子の水槽、銀の鱗

「※本作には医学的な描写が含まれますが、あくまで物語上の演出であり、実在の症例、治療法、医療機関を推奨・否定するものではありません。専門的な判断については必ず医師の診察を仰いでください。」

第1話:硝子の水槽、銀の鱗

1. 澱んだ帰宅

深夜二時。

重い鉄の扉を開けると、そこには「停滞」という名の空気が凝固していた。

佐藤健一さとう けんいちは、解きかけたネクタイを首にぶら下げたまま、玄関の上がり框に腰を下ろした。革靴を脱ぐ気力さえ、今の彼には贅沢なエネルギーの浪費に思えた。

暗い廊下の奥から、規則的な、しかしどこか頼りない音が聞こえてくる。

――シュコー、シュコー。

加湿器が吐き出す白い蒸気の音だ。それはまるで、この家という巨大な生物が、虫の息でついている溜息のようだった。

「……ただいま」

返ってくる言葉はない。

三年前、妻の佳織が家を出て行ってから、この家から「声」という暖かな振動は消え失せた。残されたのは、精密機械のような静寂と、微かに漂う消毒液の匂い。そして、寝室のベッドで微熱に浮かされる息子・ハルの存在だけだ。

健一は、大手精密機器メーカーのプロジェクトリーダーだ。

新製品の不具合、部下の不始末、上司からの叱責。それらすべてを「鱗」のように身に纏い、彼は社会という濁流の中を泳ぎ続けている。泥を飲み込み、エラを赤く腫らしながらも、止まることは許されない。彼が止まれば、ハルの高い治療費も、この静かな生活も、一瞬で瓦解してしまうからだ。

「守っているんだ」

健一は自分に言い聞かせるように呟いた。

泥を掬うような日々も、家族を顧みず働き続けることも、すべてはハルという「卵」を孵すための献身なのだと。

2. 枕元の沈黙

寝室のドアを、音を立てないよう慎重に開ける。

常夜灯の淡いオレンジ色の光の中に、ハルの細い身体が浮かび上がっていた。同年代の子供たちよりも二回りほど小さく、シーツの海に溺れているように見えた。

健一は、冷え切った自分の手をズボンのポケットで温めてから、ハルの額にそっと触れた。

「……熱いな」

指先に伝わる拍動は速く、危うい。ハルは生まれつき免疫系が弱く、少しの環境変化で熱を出す。そのたびに健一は、自分自身の無力さを突きつけられる思いだった。金で薬は買える。清潔な環境も整えられる。だが、この熱を自分の身体に移すことだけは、どうしてもできなかった。

その時、ハルの枕元に一冊の本が開かれているのが目に留まった。

数日前、仕事帰りの駅ビルで、せめてもの手土産にと買い求めた『世界の海洋生物図鑑』だ。

開かれたページには、一匹の魚のイラストが描かれていた。

銀色の身体に、不釣り合いなほど鋭い眼光。その魚は、岩陰に産み付けられた無数の卵を、抱き抱えるようにして見守っていた。

健一は目を細めて、その解説文を追った。

【アイナメの仲間:献身的な父性】

メスが産卵を終えると、オスはその場所を死守する。卵が孵化するまでの約一ヶ月間、オスは一切の餌を摂らず、外敵を追い払い、常に胸ビレを動かして卵に新鮮な水を送り続ける。

稚魚たちが一斉に旅立つその日、役目を終えた父魚の身体はボロボロになり、その生涯を終える。

「馬鹿げている」

健一は不意に、腹の底から突き上げてくるような、形容しがたい苛立ちを覚えた。

飲まず食わずで、命を投げ出して子供を守る?

それは生存本能に反した、あまりにも非効率な「愛」の形だ。

自分が死んでしまえば、その後に続く子供たちの未来はどうなる。生きて、糧を稼ぎ、長く守り続けることこそが親の責務ではないのか。

「……パパ?」

不意に、掠れた声が部屋に響いた。

ハルが、重い瞼をゆっくりと持ち上げていた。その瞳は、熱のせいで潤み、常夜灯の光を反射して銀色に輝いている。

「ああ、起こしたか。ごめんな、ハル」

「ううん。パパ、お仕事お疲れさま」

ハルは力なく笑った。その笑顔が、健一の胸をナイフのように切り裂く。

佳織が出て行ったあの日、彼女は泣きながら叫んだ。

『あなたは、ハルが何を欲しがっているか一度でも考えたことがあるの!? お金じゃない、あなたの時間よ、あなたの体温よ!』

健一はそれを「女の感情論」だと切り捨てた。

だが、今こうして自分を見つめるハルの瞳には、金銭的な豊かさへの感謝など一欠片もなかった。ただ、暗闇の中で自分を見つけてくれたことへの、純粋で、切実な安らぎだけが宿っていた。

3. 鏡の魚

「パパ、あのね」

ハルが、細い指で図鑑の魚を指差した。

「このお魚さん……すごくかっこいいんだよ」

健一は、ハルの頭を撫でながら、努めて冷静な声を出す。

「そうか。でも、ハル。この魚は少しやりすぎだ。死んでしまったら、次の子供たちを助けることもできないんだから」

ハルは首を横に振った。

「違うよ。このお魚さんはね、死ぬのが怖くないんだと思う」

「どうして?」

「だって……卵の中に、自分の続きがいるって分かってるから。お腹が空いても、身体がボロボロになっても、子供たちが動くのを見たら、きっと『ああ、よかった』って思うんだよ」

ハルの言葉は、熱にうなされた子供の妄想に過ぎない。

しかし、健一はその瞬間、言葉を失った。

自分はどうだ。

毎日、胃に穴が開くような思いで働き、取引先に頭を下げ、部下の失態を飲み込む。その過程で、心は少しずつ壊死し、かつて持っていた情熱や、佳織への愛情さえも摩耗して消えた。

自分もまた、この魚と同じではないか。

「生活」という卵を守るために、自分自身の「生」を削り取っている。

ただ、決定的な違いが一つだけあった。

図鑑の魚は、卵を見守っている。

しかし健一は、ハルの顔さえ見ずに、背中を向けたまま、遠くの戦場で血を流している。

ハルにとっての自分は、守護者ではなく、いつの間にか「不在の存在」になってしまっていた。

「……もう寝なさい、ハル。明日も仕事が早いんだ」

健一は逃げるように立ち上がった。

ハルの寂しそうな視線が、背中に刺さるのを感じながら。

4. 灰色の海へ

翌朝。

午前六時のアラームが、枕元で無機質な悲鳴を上げる。

健一は重い身体を引きずり起こし、アイロンの効いた白いシャツに袖を通した。

鏡の中の自分は、ひどく土気色をしていた。頬はこけ、目は落ち窪み、まるで長い絶食を続けた後の魚のようだ。

台所でハルのためのゼリー飲料と薬を準備し、メモを残す。

『お昼にはヘルパーさんが来る。無理をしないで。パパは夜には帰る。』

「夜には帰る」

その言葉が、空虚に響く。実際には、トラブルが起きれば帰宅はまた深夜になるだろう。

玄関を出る直前、健一はもう一度、ハルの寝室を覗いた。

ハルは図鑑を抱きしめたまま、眠っていた。

その指が、昨夜なぞっていた魚のページを、今もしっかりと押さえている。

健一はドアを閉め、鍵をかけた。

カチリ、という硬質な音が、現実への引き金となる。

エレベーターを降りると、そこには駅へと向かう通勤客の群れがあった。

皆、同じような色のスーツを着て、同じような疲れを顔に張り付け、無言で駅へと吸い込まれていく。

その光景は、産卵のために川を遡上する魚の群れのようにも、あるいは、死に場所を求めて彷徨う回遊魚のようにも見えた。

健一は、その群れの中に身を投じる。

スマホに届く、数件の督促メール。

昨夜の「献身的な魚」の話は、朝の冷たい空気の中に霧散していく。

それでも、健一の心には小さな棘が刺さったままだった。

「もし……」

もし、この物語の結末と同じように、自分が役目を終えて倒れる日が来たら。

その時、ハルは無事に「孵化」しているのだろうか。

自分という抜け殻を栄養にして、この灰色の海を泳いでいけるようになるのだろうか。

満員電車の窓に映る自分の顔は、もはや人間のそれには見えなかった。

ただ、何かを守るためだけに呼吸を続ける、哀れな魚の影がそこにあるだけだった。

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