表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

霊障事件解決人・伊田裕美 衣服霊ベロ子

東京の街には、目に見えぬ影が潜んでいる。人々が日常の中で忘れ去ったもの、欲望や執着の残滓は、時に形を変えて現れる。衣服霊ベロ子の物語は、その一端を描いたものである。

主人公・伊田裕美は、麻布の古刹に住む若き女性。半額弁当を糧にしながらも、霊障事件の解決に奔走する彼女の姿は、現代に生きる「霊障探偵」としての象徴である。黒梵衣、たむならの剣、鏡、勾玉――古代の力を受け継ぎながらも、彼女の戦いは常に現代社会の矛盾や人間の弱さと向き合うものだ。

この物語は、ただの怪談ではない。衣服に執着し、破産し、孤独に死んだ女の怨念が、現代の街に姿を現す。そこには「消費社会の影」「人間の欲望の果て」が映し出されている。読者の皆様には、この物語を通して、日常の裏側に潜む不気味な気配を感じ取っていただきたい。

序章:麻布の寺に住む女

東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。

ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美いだ ひろみ。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。

彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。

• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。

• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。

• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。

戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。

裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だった。

彼女を支える人々は三人。

• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。

• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。

• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。今回は登場しない。


第一章:世田谷区から葛飾区へ

石井ベロ子という女がいた。

本名は石井のり子。昭和十九年、戦火の影を引きずる東京に生まれた。下唇が異様に垂れ下がり、まるで重みに耐えかねているかのようにベローンと揺れる。その姿から、誰もが彼女を「ベロ子」と呼んだ。

彼女の趣味は衣服を集めることだった。流行のドレス、派手なスカーフ、安物のコートに至るまで、布地の匂いに取り憑かれたように買い漁った。口癖は「こいてないわよ……」。その言葉は、まるで自分の行為を正当化する呪文のように繰り返された。

かつては世田谷に住み、華やかな暮らしを夢見ていた。だが時は流れ、彼女の姿はうらびれ、今では葛飾区新小岩の都営住宅に身を寄せている。宗教政党に取り入り、巧みにその庇護を受けて転がり込んだのだ。

しかし、衣服への執着は止まらなかった。部屋は次第に布の山に埋もれ、やがてゴミ屋敷と化した。玄関を開ければ、色褪せたワンピースや古びたジャケットが雪崩のように押し寄せる。近所の住民は眉をひそめ、

「臭いがひどい」「火事になったらどうするんだ」

と文句を言った。ベロ子は唇を震わせながらも、ただ「こいてないわよ……」と呟くばかりだった。

衣服購入のために二度も破産した。借金は雪だるま式に膨らみ、最後には生活保護を求めて区役所に足を運んだ。しかし、窓口の職員は冷ややかに書類を突き返し、彼女の訴えに耳を貸さなかった。

食べ物が尽きると、ベロ子は布にすがった。飢えを紛らわすように、ドレスの裾を噛み、古びたコートの袖をかじった。布の繊維が口の中でほつれ、乾いた味が広がる。彼女にとって衣服は最後の糧であり、同時に自らを滅ぼす象徴でもあった。

失意のうちに、ベロ子は静かに餓死した。

布に埋もれた部屋の片隅で、彼女の下唇は最後まで垂れ下がり、まるで時代の残酷さを嘲笑うかのように揺れていた。

ベロ子の死体は、すぐには見つからなかった。

都営住宅の一室から漂う異臭に、近隣住民たちは次第にざわめき始めた。

「腐ったような匂いがする」「何か死んでいるんじゃないか」

その声が積もり、やがて警察官が部屋へ踏み込んだとき、そこには干からびた女の亡骸が横たわっていた。

生前は身長170センチの大柄な女であったが、死後の姿は小さくしぼみ、まるで布切れのように縮んでいた。皮膚は乾ききり、唇はなおも垂れ下がり、異様な影を落としていた。こうして都営住宅の一室は「事故物件」となり、誰も近づこうとしなくなった。

だが、死は終わりではなかった。ベロ子は衣服に取り憑き、衣服霊となったのだ。

夜ごと、部屋の中で布がざわめき、袖口が勝手に揺れ、スカーフが蛇のように床を這った。やがてその中心に、異形の姿が現れた。

復活したベロ子の頭には、まるでカッパの皿のような禿げがぽっかりと広がっていた。鋭い目は闇を裂き、歯はガタガタと鳴り響く。サーカスで使う火の輪のように、真ん中に顔だけが浮かび上がり、衣服の山から覗き込む。

「ふふふ、こいてないのよ~」

その声は湿った布の間から響き、聞く者の背筋を凍らせた。「こいてないのよ」とは、破産していないという意味。しかし現実には二度も破産している。気位の高いベロ子には、その事実を受け入れることができなかった。だからこそ、霊となってなお、虚勢を張り続けるのだ。

衣服霊となったベロ子は、やがて赤坂へ飛んでいった。夜の街を漂うその姿は、布をまとった亡霊のようであり、風に乗って衣擦れの音を響かせた。赤坂の一角に、いつのまにか高級ブティックが開業された。看板には「アシさんの家」と記され、煌びやかな衣服が並ぶ。しかしその奥には、火の輪のような顔を浮かべるベロ子の霊が潜んでいる。

客がドレスを手に取るたび、背後からかすかな囁きが聞こえる。

「ふふふ……こいてないのよ……」


第二章:ベロ子の被害者

赤坂の深夜は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ビルの谷間を抜ける風が、どこか湿った匂いを運んでくる。ネオンの残光は遠くに揺れ、街灯の下だけがぽつりと明るい。

その光の中に、中垣宏が立っていた。シンヒルテックという名のブラック企業に勤める男。今日もまた、最終電車を逃した。疲労で重くなった足を引きずりながら、赤坂の坂道を登る。

ふと、電信柱の下に女が一人。灯りは彼女だけを照らし、周囲の闇を拒むように輪郭を浮かび上がらせていた。ハットにコート、首には赤いスカーフ。よく見れば熟女で、皺の刻まれた顔は妙に艶めいている。中垣なら普段、目もくれないはずの女だった。

女――ベロ子が歩き出す。

その背に、なぜか抗えぬ引力を感じ、中垣はついて行った。

暗闇へと足を踏み入れた瞬間、異変が起こる。スーツ、ワイシャツ、ネクタイが生き物のように蠢き、彼の体を締め付ける。

「う、動けない……誰か……助けて……」

声は夜に吸い込まれ、返事はない。次の瞬間、女の姿が火の輪となり、顔だけが中央に浮かび上がった。

「か……っ……ぱ」

がちゃぼこの歯が、中垣の首筋に食い込む。

悲鳴は一度だけ。

そして男の体から水分が一瞬にして吸い尽くされ、残されたのは乾いた殻――個体のみだった。

赤坂の片隅に、奇妙な店がひっそりと開業していた。看板には「アシさんの家」と記されているが、誰が店主なのか、どこから仕入れているのか、詳しいことを知る者はいない。表向きは高級ブティックを名乗っているが、実際の店舗は六坪ほどの狭い空間にすぎず、煌びやかなショーウィンドウと場違いなシャンデリアが、かえって異様な雰囲気を漂わせていた。

その店を根城にしているのは、衣服霊と化した石井ベロ子である。彼女は客が訪れると、まるで長年の友人を迎えるかのように愛想よく微笑み、低く湿った声で囁いた。

「似合いますわ……本当に、この服はAさんのために生まれたようなものですわ」

その言葉に酔わされた女性は、値札の安さに目を輝かせ、ためらいもなく服を購入する。だが、家に帰り鏡の前で袖を通した瞬間、異変は起こる。顔つきが変わり、瞳は虚ろに濁り、口元は不気味な笑みに歪む。次の瞬間、彼女は踊り狂うように家を飛び出し、夜の街へと疾走していくのだ。

その様子は偶然にもSNSに記録され、断片的な映像が拡散された。裸足で笑いながら走る女、スカーフを振り回し泣きながら踊る女、スマホを掲げ「こいてないのよ」と叫び続ける女――。映像は途中で途切れ、彼女たちの行方は誰も知らない。東京の街では、四十代前後の女性が次々と失踪する怪事件が話題となり、SNS上では「衣服に取り憑かれた霊の仕業ではないか」と囁かれるようになった。

その頃、麻布の湯川寺では、いつものように「半額弁当の間」で夕食が始まっていた。黒い法衣を脱ぎ、質素な食卓に座る伊田裕美と住職・村田蔵六。

「半額弁当は揚げ物が多いから、太るわね。刺し身定食が食べたいわ」

裕美がぼやくと、蔵六は笑いながら答える。

「それは無理だね。刺し身を買ってきて、家でご飯を炊いて食べるのが一番安いよ」

「弁当は半額で買えるのに、高いお金を出すのはバカバカしい。でも、刺し身だけは仕方がないわね」

ふと、蔵六が箸を止めて言った。

「そういえば、中年の女性がどんどん疾走している話、どう思う?」

裕美の瞳が鋭く光る。

「調査をしなくてはいけないわね」

裕美はすぐにスマホを取り出し、怪奇専門誌『あなたの見えない世界』の編集長・田野倉伝兵衛にSNSで許可依頼を送った。

「ええよ」――返事は即座に届いた。

「ふふ、伝兵衛さんは金儲けには話が早いわね」裕美は皮肉めいた笑みを浮かべた。

翌日から、裕美の調査が始まった。失踪者のリストを作り、一軒一軒を丁寧に訪ね歩く。まるで刑事のように、家族や近隣住民から事情を聞き取り、失踪直前の行動を丹念に記録していく。

やがて、ある共通点が浮かび上がった。失踪者はすべて四十代前後の女性で、生活は比較的裕福。だが彼女たちは必ず「アシさんの家」で服を購入した直後に、狂ったように踊りながら疾走しているのだ。

裕美は赤坂へ向かった。夕暮れの街に、異様な気配が漂っている。アシさんの家の営業時間は夜六時から十時まで。その頃、ベロ子に取り憑かれた人間たちは赤坂の更地に勝手に家を建て、そこを「ベロ子の館」として弟子たちの拠点にしていた。ベロ子は大量の弟子を作り出す一方で、夜ごと電信柱の下に現れ、男の魂を食い続けていた。

店の前に立った瞬間、裕美は胸を締め付けるような邪悪の気配を感じた。冷たい風が吹き抜け、ガラスに映る自分の姿が一瞬、ベロ子の顔に変わったように見えた。

裕美は急いで湯川寺に戻り、本堂に安置された「たむならの鏡」の前に座した。司馬徽――水鏡先生から授かった真実を映す鏡。これまで裕美は、この鏡を通じて蔵六と念を交わしてきた。

「たむならの鏡よ。アシさんの家に感じる邪悪は何?映し出して!」

鏡面が淡く光り、やがてうっすらと浮かび上がったのは、下唇を垂れ下げた女の顔――ベロ子であった。

「こいつが……邪悪の本性ね」

裕美の声は低く、しかし確かな決意を帯びていた。


第三章:裕美対衣服霊

深夜の赤坂。街の灯りはすでに消えかけ、ビルの谷間には湿った闇が沈んでいた。伊田裕美は自らハンドルを握り、車を飛ばしてその中心へと向かっていた。目指すは――衣服霊ベロ子の城。人々が「衣服霊城」と呼ぶ、異様な空間である。

車を降りた裕美は、黒梵衣をまとっていた。まるでウェットスーツのように身体に密着し、黒地に金色の梵字が全身を覆っている。その一文字一文字が魔除けの力を宿し、邪悪を寄せ付けぬはずだった。だが今夜は、その衣が試される夜となる。

ベロ子はすでに裕美の来訪を察していた。衣服霊城の奥から、湿った布のざわめきとともに姿を現す。下唇を垂れ下げ、火の輪のような顔を浮かべ、弟子たちを従えて。

「邪霊!疾走した人たちを返しなさい!」裕美の声は夜気を裂いた。

「それはできないね。あれは私の弟子たちだからね」ベロ子の声は湿った布の間から響き、冷たく笑った。

「じゃあ、腕尽くで取り返すわ!――たむならの剣!」

瞬間、裕美の右手に光が宿り、伝説の霊剣が姿を現した。刃は青白く輝き、周囲の闇を切り裂く。ベロ子は目を剥き、驚愕の声を漏らす。

「弟子たちを出ておいで!」

衣服霊城の奥から、女たちが次々と現れた。彼女たちは「アシさんの家」で購入した服を身にまとい、狂ったように踊りながら棒を振り回す。

「こいつを血祭りにあげなさい!」ベロ子の命令に従い、弟子たちは一斉に裕美へ襲いかかった。

裕美は剣を構えながらも躊躇した。彼女たちは人間だ。斬れば命を奪ってしまう。――殺すことになってしまう。心が揺れ、剣を振るうことができない。逃げるのが精一杯だった。

そのとき、たむならの剣が強烈な光を放った。稲妻のような閃光が走り、弟子たちは次々と倒れ、意識を失った。

「弟子たちはもういないわ……いくわよ!」裕美は叫び、ベロ子へと突進する。

だが次の瞬間、全身に強烈な痛みが走った。黒梵衣が彼女を守るどころか、蛇のように締め付け始めたのだ。

「ふふふ……衣服はすべて、あたしの言いなりよ」ベロ子の声が響く。

裕美は息を詰まらせ、苦しみに呻いた。黒梵衣は彼女の胸を圧迫し、呼吸を奪う。弟子たちの狂気の踊りが再び広がり、裕美は孤立無援の戦いに追い込まれた。

「苦しい……!」

そのときだった。空からぽつり、ぽつりと雨が落ちてきた。冷たい滴が肌を打ち、夜の空気を凍らせる。

「雨……体が凍える……」裕美は呟いた。

雨が黒梵衣を濡らすと同時に、衣服霊ベロ子の姿が揺らぎ始めた。布のざわめきは次第に弱まり、火の輪のような顔は霧のように薄れていく。やがて、ベロ子は闇の中へと消え去った。

黒梵衣の締め付けも止み、裕美は地面に膝をついた。荒い息を吐きながら、彼女は夜空を見上げた。赤坂の街は再び静寂を取り戻し、ただ雨音だけが響いていた。


第四章:麻布の夜、決断の湯川寺

深夜。赤坂での戦いを終えた伊田裕美は、重い足取りで麻布の湯川寺へ戻ってきた。境内はしんと静まり返り、冬の夜気が石畳を冷たく包んでいる。鐘楼の影が長く伸び、風が吹くたびに木々の枝がざわめいた。

本堂の灯りの下で待っていたのは、住職・村田蔵六である。彼はいつものように落ち着いた眼差しで裕美を迎えたが、その瞳にはわずかな不安の色が宿っていた。

「裕美、衣服霊はどうなった?」

問いかけに、裕美は静かに首を振った。疲労で頬は青ざめ、唇はかすかに震えている。

「蔵六さん……この黒梵衣を、ベロ子が自由に操るのよ。ベロ子の前では衣服はすべて彼女の言いなり。とてもではないが、戦えないわ」

言葉を聞いた蔵六は、深く眉を寄せ、しばらく沈黙した。寺の空気は重く、蝋燭の炎が揺れるたびに影が壁を這う。やがて彼は目を閉じ、長い思索の末に突如として閃いたように口を開いた。

「裕美!――全裸で戦へ」

その言葉は、夜の静寂を破る雷鳴のように響いた。裕美は目を見開き、思わず息を呑んだ。だが次の瞬間、彼女は苦笑を浮かべ、肩をすくめた。

「場合によっては仕方がないわね……でも、想像しないでね」

蔵六は何も答えず、ただ静かに頷いた。

裕美はそのまま寺の奥へと歩みを進めた。長い戦いで疲れ切った体を休めるため、湯殿へ向かう。湯気が立ちのぼる浴室に入ると、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。彼女は衣を脱ぎ、湯船に身を沈めた。熱い湯が肌を包み、戦いの痛みを和らげる。

水面に映る自分の顔は、どこか険しく、そして決意に満ちていた。衣服霊ベロ子との戦いはまだ終わっていない。だが、蔵六の言葉が示す通り、次なる戦いはこれまでとは全く異なる覚悟を必要とするだろう。

湯川寺の夜は深まり、外では風が木々を揺らしていた。裕美は湯船の中で静かに目を閉じ、次なる戦いに備えて心を整えていった。

翌日、深夜二時。

境内の鐘楼は闇に沈み、街の灯りも遠く霞んでいた。湯川寺の専用駐車場は、夜露に濡れたアスファルトが鈍く光り、ひと気のない空間に冷たい風が吹き抜けている。

「今日こそ、決着をつけなくては」

伊田裕美は低く呟き、黒梵衣を身にまとった。黒地に金色の梵字が全身を覆い、まるで鎧のように彼女を守っている。ここなら、ベロ子に取り憑かれた人間はいない。誰にも迷惑をかけず、ただ霊と霊の戦いを繰り広げることができる。

駐車場の中央に立ち、裕美は両耳に輝く「たむならの勾玉」に念を込めた。ピアスとなった勾玉が淡く光を放ち、空気が震える。やがて、暗闇の奥から湿った布のざわめきが響き、衣擦れの音とともに姿が現れる。

「今回は敵地……いいだろう。勝負をつけてあげるよ」

下唇を垂れ下げ、火の輪のような顔を浮かべた衣服霊ベロ子が、夜気を裂いて現れた。

裕美はたむならの剣を抜き放つ。刃は青白い光を放ち、闇を切り裂いた。

「忘れたのかい?衣服はすべて、あたしの言いなりよ」

ベロ子の声は湿った布の奥から響く。

しかし裕美は怯まない。剣を構え、次々と斬撃を繰り出す。

「私の体には霊墨と霊筆で梵字が刻まれている。黒梵衣も、これではあなたの言うことは聞かないわ」

ベロ子は目を細め、唇を震わせた。

「そういうことか……対策を練ってきたんだね」

その瞬間、ベロ子は頬に手を当て、地蔵へと息を吹きかけた。白い貫頭衣が地蔵像に覆いかぶさり、衣の中央に穴が開いて首が突き出る。顔つきは変わり、石の瞳に邪悪な光が宿った。

「動け……我が衣の眷属よ」

地蔵は杖を振りかざし、次々と裕美に飛びかかる。石の体が重く、動きは鈍いはずなのに、衣服に操られた地蔵は異様な速さで迫ってくる。

「地蔵なら……安心して斬り裂けるわ!」

裕美は叫び、たむならの剣を振り下ろした。刃は石を裂き、衣を断ち切り、地蔵は次々と粉砕されていく。だが倒れても倒れても、ベロ子の息が新たな衣を吹き込み、地蔵は再び立ち上がる。

戦いは長く続いた。杖が夜空を唸り、剣が火花を散らす。裕美は汗に濡れ、息を荒げながらも一体一体を斬り裂いていった。やがて、最後の地蔵が崩れ落ちると同時に、裕美は跳躍し、ベロ子へと刃を振り下ろした。

「これで終わりよ!」

たむならの剣が閃光を放ち、ベロ子の首を刎ねた。首と胴体は生き別れとなり、胴体からは黒い煙が立ちのぼり、やがて霧散していった。刎ねられた首も、いつしか夜の闇に溶けて消えた。

湯川寺に戻った裕美を、蔵六が待っていた。

「裕美、衣服霊ベロ子は退治したか?」

裕美は静かに首を振った。

「いいえ……まだ残っているわ。霊だから、気体だから……扱いが難しいの」

蔵六は深く息を吐いた。

「それじゃあ、ベロ子はまだ生きているのか」

「多分ね」

夜の湯川寺は静まり返り、ただ風が木々を揺らしていた。戦いは終わったように見えて、まだ終わってはいなかった。


第五章:封印の儀

日曜日の午後。湯川寺の門を叩いたのは、一人の女性だった。黒いスーツに身を包み、手には生命保険のパンフレットを抱えている。名は――石井のり子。

その姿を目にした瞬間、伊田裕美の背中に刻まれた梵字の痣が、じりじりと疼き始めた。まるで霊が近づいていることを告げる警鐘のように。裕美は眉をひそめ、静かに言った。

「こちらへどうぞ。本堂にお通しします」

石井のり子を本堂へ導いた裕美は、奥から一枚の平石を持ってきた。三〇センチほどの大きさで、表面は滑らかに磨かれ、光を受けて鈍く輝いている。彼女は筆を手にし、石の上に墨を落とす準備を整えた。

「その石は……何ですか?」石井が不思議そうに尋ねる。

「これは絵を描くキャンパスです」裕美は淡々と答えた。

そして、声を低めて続ける。

「保険屋のお姉さん、保険に入る前に七十二の質問をさせてください」

「えっ、七十二も?」石井は目を丸くした。

「すぐ終わります。あなたのお名前は? あなたの歳は?」

質問が始まった。裕美は一つ答えを聞くごとに、石の上へ小さな点を置いていく。点は次第に増え、石の表面は星座のように埋め尽くされていった。石井は戸惑いながらも、次々と答えを口にする。

やがて七十二の質問が終わると、裕美は筆を走らせた。全ての点を素早く結び、複雑な紋様が浮かび上がる。結び終えた瞬間、彼女は鋭く叫んだ。

「――衣服霊ベロ子!」

その声と同時に、石井の体が震え、目が虚ろに揺れた。次の瞬間、彼女は倒れ込み、肉体は霧のように崩れ、気体となって石へと吸い込まれていった。残されたのは静寂と、鈍く光る石だけ。女性の姿は完全に消えていた。

障子が音を立てて開き、村田蔵六が現れた。

「あれ、保険の勧誘員さんはどこに行った?」

裕美は石を差し出し、静かに答えた。

「この中よ。あの保険の勧誘員さんはベロ子だったの。ベロ子はこの石に封じ込めました」

蔵六は目を細め、深く頷いた。

「それなら安心だね」

裕美は石を見つめながら言った。

「蔵六さん、墓地のどこかに穴を掘って……埋めちゃってよ」

夜の風が境内を吹き抜け、石の表面に刻まれた紋様がかすかに光を放った。封印は果たされた。だが、土の下に眠るその石が、いつまで静かに留まっているのか――誰にも分からなかった。


エピローグ

赤坂の「衣服霊城」。そこに囚われていた人々は、いつしか正気を取り戻していた。虚ろな瞳は澄み、狂気の踊りは止み、彼らは我に返ったように静かに家路へと歩み去っていった。夜の街に漂っていた不気味なざわめきは消え、ただ風の音だけが残った。

その日の夕方。麻布の湯川寺から少し足を延ばし、裕美と蔵六は夢庵へ向かった。裕美にとって夢庵は特別な場所だった。普段は半額弁当で済ませる彼女に、蔵六は「今日は好きなものを食べさせてやりたい」と思ったのだ。父のような親心が、自然にそうさせていた。

席につくと、裕美は嬉しそうにメニューを眺めた。

「ここの天ぷらは美味しいのよね。……今回は本当に大変だった」

蔵六は頷き、低く答えた。

「大変だったな。まさか黒梵衣がお前の敵になるとは思わなかった」

裕美は箸を手に取り、少し笑みを浮かべる。

「でも、戦いはいつも大変よ。毎回、試練があるものだわ」

その言葉に蔵六はしばし黙り、やがて珍しく日本酒を注文した。湯気の立つ徳利が運ばれてくると、彼は杯を満たし、ゆっくりと口に含んだ。

「裕美も飲むかい」

裕美は首を振り、柔らかく微笑んだ。

「いいえ、あたしはラテ」

夢庵の灯りは温かく、二人の間に流れる空気は穏やかだった。長い戦いの果てに訪れた静かな時間。衣服霊ベロ子の影は消え、日常が戻ってきた。

(完)

衣服霊ベロ子の物語は、ひとまず幕を閉じた。赤坂の霊城は崩れ、人々は正気を取り戻し、日常へと帰っていった。だが、霊は完全に消えたわけではない。封じ込められた石の中で、今もなお衣擦れの音が響いているかもしれない。

伊田裕美の戦いは、これで終わりではない。黒梵衣が敵となり、霊墨の梵字が彼女を守るように、次なる試練は必ず訪れるだろう。霊障探偵としての彼女の歩みは、現代社会の闇を照らす旅であり、また人間の弱さと向き合う物語でもある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ