霊障事件解決人・伊田裕美 SNSを操る流言鬼(りゅうげんき)
この物語は、古来より人々を惑わせてきた「流言」という怪異を、現代のSNS社会に重ね合わせて描いたものです。
江戸時代、風に乗って広まった噂は人を狂わせ、時に命を奪いました。今、私たちの身近にあるのは「拡散」という名の風。
クリックひとつ、投稿ひとつが、誰かの人生を石に変えてしまうかもしれない――。
霊障事件解決人・伊田裕美は、日常の中に潜む怪異を見抜き、立ち向かう若き女性です。
彼女の戦いを通して、読者の皆さまに「言葉の力」と「沈黙の重み」を感じていただければ幸いです。
序章 ― 麻布の寺に住む女
東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。
ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。
彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。
• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。
• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。
• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。
戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。
裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だ。
彼女を支える人々は三人。
• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。
• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。
• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。
第一章:祠の封印
千葉県・印旛沼。
水面は風にさざめき、波が囁くように寄せては返す。
この地に滞在する伊田裕美。黒い短髪、大きな瞳、両耳にはたむならの勾玉が光る。紺のスーツの下には黒梵衣――金の梵字が全身に刻まれた衣が隠されている。袖の隙間から時折覗くその文様は、邪悪を呼び寄せる力を封じる。
天気は穏やかで、邪霊の気配はない。裕美はドトール・コーヒーでハニーカフェオレをすする。
その隣に座ったのは、頭を真ん中から分けた中年男。出っ歯で太り、金のカフスボタンを光らせている。高橋霊光――自称・怪奇現象解決人。口臭が強烈で、裕美は耐えかねたが表情には出さない。
「ねえちゃんは新聞記者かい」
「いいえ、超常現象雑誌の記者です」
裕美はこの印旛沼に伝わる「流言鬼」の伝説を追っていた。江戸時代、風に乗せて人々にデマを吹聴した鬼。旅の僧が洞窟に祠を建て、御札で封じ込めたという。
霊光は心の中で呟く――「これは商売になるかもしれない」。
「それはどこにあるの」
裕美から祠と封印の話を聞き出すと、霊光は印旛沼へ向かった。
沼の囁きと波の音が響く。古びた洞窟を見つけた霊光は中へ入る。そこには三十センチほどの小さな祠。観音開きの戸に御札が貼られている。
「うむ、なんじゃこれ」
霊光はぺろりと御札を剥がした。
突如、白い煙が勢いよく噴き出す。煙の中心に姿を現したのは――流言鬼。
頭は禿げ、長い口ひげと顎ひげ。鋭い目、大きな耳。
「わしを出してくれたのはお前か」
「お前かとはなんだ、ご主人さまと呼べ」
「何を言ってるんだ、シャバに出してやったんだぞ」
「うるさい」
流言鬼の息が霊光の足にかかる。みるみるうちに腰から下が石に変わった。
「ひっ……助けてくれ!」
「助けてやるよ。ただし、わしの言うことを聞くんだ」
霊光の足は元に戻る。
「ところで、お前はYouTubeアカウントを持っているか?」
「いいえ」
「じゃあ、今すぐ作れ。タイトルは『多夢庵和尚の人生相談室』だ」
「何に使うんだ」
「YouTubeで人生相談をする。それをSNSで拡散するんだ」
「えっ、風に乗せて流すんじゃないんですか?」
「それは昔のことよ。今は今のやり方がある」
第二章:多夢庵和尚の人生相談室
深夜。
画面の向こうで「多夢庵和尚の人生相談室」が始まった。YouTubeの配信画面には、僧衣をまとった男――流言鬼が人間に化けた姿が映し出されている。
最初の相談者は、公務員の大塚誠。彼の隣には、介護師の渡辺晴美、二十代。
和尚は穏やかな声で言う。
「最初に申しておきますが、個人情報はすべて伏せます。安心して話してください」
誠が口を開いた。
「彼女と結婚を考えているのですが、同棲中に放屁をして……なんだか嫌になってしまった。別れるべきか、結婚すべきか迷っています」
流言鬼は僧侶の顔を保ったまま、口元に笑みを浮かべる。
「うむ、どうでもいいような相談だね。あなたは彼女を愛しているのか?愛しているなら放屁など取るに足らぬこと。嫌なら放屁をしない女性を探せばよい。結局はあなた次第だ」
次の相談者は、新日本薬品製薬の社長夫人、吉田律子。
「夫が下品で……食事の後に爪楊枝でヒーヒー言い、お茶で口を濯ぐ。毎日ストレスが溜まります。しかも夜のお勤めの最中に放屁をしても平気なんです。私はホストに通い、別れたいと思っています」
和尚は目を細めた。
「そのホストはあなたを本当に愛しているのか?違うだろう。旦那誠一郎殿も呆れるが、まずは話し合うことだ。下品さは直せるかもしれぬ」
的を射たように見える助言。だがその裏で、流言鬼は相談者の言葉を拾い、歪め、拡散する準備をしていた。
配信は瞬く間に人気を集め、フォロワーは十万人を超えた。
【晴美の失墜】
一週間後。文字中心のSNS「Z」に渡辺晴美の名が晒された。画像が拡散され、介護中の老人に馬乗りになり、尻を顔に押し付けて放屁する動画まで流れた。
「なによ、こんなこと一度もしてない!」
晴美は青ざめ、スマホを握る手が震えた。
コメント欄には悪意が溢れる。
• 「あの女は人前で平気で放屁する下品な人間だ」
• 「病気で臭いを撒き散らしている」
• 「家族も同じだ」
• 「介護している老人は皆早死だ」
スーパーで買い物をしても「こきやの女」と笑われる。晴美は出社できず、安アパートに引きこもった。誠と暮らす部屋は薄暗く、彼女は涙を流しながら呟いた。
「デマを流すなって……」
その瞬間、足元から血の気が引き、石へと変わり始めた。
石像となった晴美を担ぎ上げたのは高橋霊光。流言鬼の命令で「石の回収」を行っている。
突き出た尻を見て霊光は下卑た笑みを浮かべた。
「いい尻だな。ここから屁が出るのか」
ぽんと叩き、担いで印旛沼へ運ぶ。
湖畔には石像が並び、流言鬼はそれを「庭園」と呼び、悦に入っていた。渡辺晴美はその日を境に失踪扱いとなった。
【律子の失墜】
次の被害者は吉田律子。
SNS「Z」に彼女の名が晒され、画像や動画が拡散された。
「大会社の社長なのに生活保護を受けている」
「近いうちに詐欺で捕まる」
「スーパーで万引き常習犯」
「ホスト代も踏み倒している」
「近いうち殺人の罪で捕まる」
律子は家から出られなくなった。夫も怒りを募らせたが、批判は夫にも及んだ。
そこへ霊光が訪ねてきた。インターフォンを鳴らし、にやりと笑う。
「奥さん、外に出られないでしょう。代わりに食品を買ってきましたよ」
家に入り込むと霊光は囁いた。
「SNSのデマはひどいですね。私が解決してあげましょうか?」
「えっ……犯人はあなた?」
「いいえ。犯人は流言鬼です。私は霊障事件解決人。1千万円で退治してあげます」
律子は抵抗できず「はい」と答えた。霊光は金を受け取ると印旛沼へ戻った。だが律子夫婦に救いは訪れなかった。足元から石化が始まり、二人は沈黙の像となった。
【印旛沼の寺】
印旛沼近くの廃れた寺。風は湿り気を帯び、木々はざわめく。ここが流言鬼の寝蔵である。
「霊光、吉田律子の石像を回収してこい」
「はい」
「お前、わしに隠れて小遣い稼ぎをしているな」
「していません!」
「嘘をつくな。全身石になりたいのか?」
霊光は土下座し、震える声で叫んだ。
「もう二度としません。許してください」
「さっさと石を回収してこい」
流言鬼の声は風に混じり、寺の闇に響いた。
第三章:観音の痣と知事の失踪
東京・麻布。臨済宗の古刹、湯川寺。
夕暮れの「半額弁当の間」では、伊田裕美と住職・村田蔵六が対面で食事をしていた。
本日の戦利品は幕の内弁当。エビフライが一尾、卵焼き、煮物、そして白米。味噌汁には豆腐と刻みネギが浮かび、ラテは上島珈琲店のブランド。湯気が立ち上るその香りに、裕美は一瞬だけ戦いを忘れる。
「蔵六さん、どう思う?SNSで誹謗中傷された人が失踪した事件」
裕美が箸を止めて言った。
「邪霊の仕業というのかい?邪霊ってそんなに器用なのか?SNSを駆使してデマを流すなんて、時代に合わせすぎじゃないか」
「でも、蔵六さんにも何か手がかりはあるでしょう?」
裕美の背中――首の下、左右から交差するように刻まれた観音を表す梵字の痣が、じくじくと疼いていた。これは邪霊の接近を告げる兆し。
「流言鬼じゃないか?」
「えっ……この間、私が取材したあの流言鬼?」
「印旛沼の祠に封印されていたはずだ。誰かがそれを毟り取ったのじゃ」
裕美は立ち上がり、本堂の奥に据えられた「たむならの鏡」の前に座った。痣は痒みを増し、鏡の表面が白く曇る。
「SNSのデマと失踪事件について教えて」
鏡の中に浮かび上がったのは、印旛沼の廃寺。白い靄の中に、禿頭に長い髭をたくわえた流言鬼の姿が揺れていた。
「やはり、退治するしかないね」
裕美はスマホを取り出し、雑誌『あなたの見えない世界』の編集長・田野倉伝兵衛に電話をかけた。
「伝兵衛さん、この間書いた流言鬼の記事、続きが書けそうなの」
「ようし、わかった!とくダネを頼むぞ」
翌朝、裕美は印旛沼へ向かった。
*
その頃、流言鬼は相談者を次々と毒牙にかけていた。
彼の好物は下ネタ。人間の恥を拾い、誇張し、拡散する。
高橋霊光は隙を見て逃げ出そうとしていたが、流言鬼の目が光るたびに腰がすくみ、タイミングを掴めずにいた。
新たな相談者は、千賀子祝――某県の知事。
彼女は議会運営の悩みを打ち明けるつもりだった。だが、流言鬼はすぐに「個人的な相談」にすり替えた。
千賀子知事は、県庁職員とラブホテルを使用していた。
その事実が、SNS「Z」で拡散された。
運転席には職員、助手席には知事。笑顔が印象的な写真。
ホテルに車が入る瞬間、出てくる瞬間――すべてが動画で記録されていた。
さらにQRコードを読み込むと、市長と職員の性交動画が流れる。
千賀子は青ざめた。
「確かに、職員とは関係を持った。でも……こんな体位はしてない!」
だが、そこに映っているのは紛れもなく自分だった。
一歩外に出れば記者の質問攻め。
地上波でもSNSでも、千賀子知事の話題で持ちきりだった。
彼女は頭を抱えて座り込んだ。
ふと、窓ガラスに流言鬼の顔が映った。
石になるまで、時間はかからなかった。
霊光は言われるまま、知事の石像を回収していた。
その背中に汗を滲ませながら、ぼそりと呟いた。
「やれやれ……いつになったら金持ちになれるのやら。捕まるのも時間の問題かもしれん」
第四章:たむならの剣と鈴木隆一郎の日本刀
印旛沼に到着した伊田裕美は、かつて取材で訪れたときとはまるで違う空気を感じていた。
空は曇り、風は湿り気を帯び、沼の水面は黒いベールに覆われたように重々しい。
目指すは、たむならの鏡に映った廃寺。
その境内に、石像を背負って歩く中年男の姿があった。
「……あれは、この間のおじさん。あの人が流言鬼を解き放ったのね」
裕美はスーツを脱ぎ、黒梵衣のみとなる。
漆黒の布地に金の梵字が浮かび上がり、風に揺れるたびに邪霊を祓う力が滲む。
本堂へ向かうと、男――高橋霊光が振り返った。
「おじさんが犯人だったのね」
「違う!違う!俺は脅されて……流言鬼に……」
その瞬間、空間が歪み、白い靄の中から流言鬼が現れた。
禿頭に長い髭、鋭い目が霊光を射抜く。
「この豚野郎……役立たずなうえに、こそこそ小遣い稼ぎとはな」
睨まれた霊光の足元が石に変わり始めた。
「うぁぁ……!」
流言鬼の視線が裕美に移る。
「お前は誰だ」
「伊田裕美」
「知っているぞ。わしの仲間を“たむならの剣”で次々と葬ってきた女だな」
裕美は右手を高く掲げ、叫んだ。
「たむならの剣!」
光が走り、霊剣が右手に宿る。
「ならば、こちらは――狂人刀匠・鈴木隆一郎の日本刀で応じよう」
流言鬼の右手にも、蛇のようにうねる妖刀が現れた。
「鈴木はこの刀を打ったとき、過労で両腎臓が機能停止。今は人工透析の毎日だそうだ」
廃寺に、剣と刀の凄まじい斬り合いが響き渡る。
火花が散り、柱が裂け、空気が震える。
流言鬼が白い息を吐きかける。
その息が裕美の剣に触れた瞬間――
みるみるうちに剣が石に変わり、裕美の手から落ちた。
「……っ!」
裕美の心臓が凍りつくような感覚。
右手の重みが消え、希望が砕けた。
「たむならの剣も石になっては役に立つまい。いくぞ」
流言鬼が日本刀を振り下ろす。
裕美は咄嗟に真剣白刃取りで受け止めた。
「ふふ……わしに無刀取りはきかんぞ」
じしじりと押し倒される裕美。
背中が床に触れた瞬間、視界の端に古い祭壇が映った。
そこに――鉈があった。
詩音聖人が品川高志の首を一瞬でかち割ったという伝説の武器。
通称「ナタデココ」。
裕美は流言鬼を蹴り上げ、鉈を手にした。
一閃。
鉈が流言鬼の首筋をめがけて振り下ろされる。
爆音が廃寺を揺らし、流言鬼が前のめりに倒れ込んだ。
「ひ……ろ……み……頼みがある。死ぬ前に……ミルクティーが飲みたい」
かつて霊光から貰ったミルクティーを「うまい、うまい、江戸時代にはこんなのなかった」と喜んだ記憶が蘇る。
流言鬼は再生を試みようとしていた。
「残念ね。その手には乗らないわ。ミルクティーで再生するつもりね」
妖力が切れた今、たむならの剣が元に戻った。
「ここにミルクティーなんかあるわけないでしょう!」
裕美は剣を振り上げ、流言鬼の脳天に突き刺した。
叫び声が廃寺を貫き、流言鬼は煙となって消えた。
エピローグ:ミルクティーの午後
流言鬼が煙となって消えた瞬間、印旛沼の空気が一変した。
重く垂れ込めていた靄が晴れ、風が水面を撫でるように吹き抜ける。
石像となっていた人々の肌に、色が戻り始めた。
渡辺晴美は涙を流しながら膝を抱え、吉田律子は深く息を吐いた。
そして、霊光もまた、石の呪縛から解かれた。
律子は立ち上がると、霊光の胸ぐらを掴んだ。
「ちょっと、あなた。あの一千万、どういうつもり?」
霊光は顔を青ざめさせ、両手を合わせて頭を下げた。
「すいません!すいません!流言鬼に言われたんです……お返しします、全部!」
律子は鼻で笑い、背を向けた。
その背中には、かすかに誇りが戻っていた。
*
東京・西日暮里。午後のスターバックス。
窓際の席に、伊田裕美が腰を下ろす。
「今日はミルクティーにしましょう」
店員が微笑む。
「茶葉は何にしますか?」
「普段ならダージリンだけど……ミルクティーならアッサムがいいわね」
カップを受け取り、PCを開く。
画面には『あなたの見えない世界』の編集画面。
裕美は指を動かし、記事の最終稿を送信した。
件名は「流言鬼、SNSに潜む怪異」。
送信ボタンを押すと、カップを手に取った。
湯気の向こうに、静かな午後の光が差し込んでいた。
(完)
流言鬼は倒され、人々は元に戻りました。けれども、SNSに漂う囁きは消えません。
それは、私たち自身が生み出す影だからです。
伊田裕美の物語は、単なる怪談ではなく、現代社会への問いかけでもあります。
「噂を信じること」「拡散すること」「沈黙すること」――そのすべてが誰かの運命を左右する。
この作品を通じて、読者の皆さまが「言葉の責任」を改めて考えるきっかけとなれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




