霊障事件解決人・伊田裕美:能面市長の正体
兵庫県知事の姿を眺めているうちに、ふと脳裏に浮かんだのが「能面知事」という奇妙なイメージでした。そこから物語の糸口が生まれ、筆を進めることになったのです。能面のように無表情な知事が、実は悪魔の仮面をまとっている――そんな幻想が、現実と虚構の境を揺らすきっかけとなりました。
物語の結末は、日本の昔話のような趣を持たせました。悪しきものを退治し、静かな余韻の中で日常へと戻っていく。その古風なリズムを、現代の怪奇譚に重ね合わせてみたのです。
■ 伊田裕美
東京・麻布の臨済宗寺院「湯川寺」に住む伊田裕美、22歳。怪奇・超常現象専門誌の記者として働きながら、霊障事件の解決に奔走する日々を送っている。
■ 裕美の武器と装備
邪霊退治に用いるのは、伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。
• たむならの剣
この世の邪悪を討つ使命を託され、司馬徽水鏡先生より授かった霊剣。
• たむならの鏡
普段は湯川寺に安置されているが、危機の際には鏡を通じて住職・村田蔵六和尚に念を送ることができる。
• たむならの勾玉
魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして装着されている。
さらに、戦闘時には梵字が刻まれた密着型の黒い法衣「黒梵衣」を身にまとう。邪霊を寄せ付けないこの衣は、禿鬼との初戦の際に村田蔵六和尚から授けられたものである。
■ 裕美の日常
• 食生活
麻布の「ビッグA」で半額になった弁当をよく購入し、湯川寺の「半額弁当の間」で食べるのが日課。特にひれかつ弁当がお気に入り。
• 飲み物のこだわり
スターバックスでは一年を通して熱いラテを注文。冷たい飲み物は好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを好む。身体を冷やすと邪霊に付け込まれるという信念を持っている。
■ 裕美を支える人々
• 村田蔵六
50代の陰陽師であり、湯川寺の住職。裕美とは同居しているが、男女の関係ではなく、父親のような存在として彼女を見守っている。
• 田野倉伝兵衛
怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の編集長。裕美の取材活動が雑誌の柱となっており、彼女の活躍に大きく依存している。
• 高橋霊光
自称・怪奇現象解決人。だが実際は役立たずで、裕美に迷惑ばかりかける存在。今回は登場しない。
第一章:悲劇の始まり
茨城県知事選挙は、まるで時代の分岐点を告げる鐘の音のように始まった。
候補者は二人――斎藤龍興と田北義昭。
「多文化共存」を掲げる斎藤と、「保守」を旗印とする田北。
選挙戦。
秋の風が吹き抜ける街頭に、選挙カーの上で斎藤龍興が立っていた。
その横で応援演説に立った橘ひとみがマイクを握りしめ、声を張り上げる。
「人間に第一も第二もないんです!彼らは何者ですか?移民を追い出せと叫び、国外へ追いやれ!彼らは本国に帰れば見せしめの斬首です。対立候補・田北義昭は、人の仮面をかぶった鬼にすぎません!」
群衆は熱狂し、口々に「斎藤!斎藤!」と叫び、拍手と歓声が渦を巻いた。
橘はさらに声を高める。
「原子力にいつまでも頼ってはいけません!中国製の太陽パネルを使い、再生可能エネルギーを推進するのです!」
その言葉に群衆はさらに燃え上がり、熱気は夜祭のように街を覆った。
しかし、選挙カーの上に立つ斎藤龍興は、ただ群衆を見下ろし、眉一つ動かさず、能面のような顔で静かに立ち続けていた。
その対立は、県民の心を二分するかに見えたが、結果はあまりにも鮮烈だった。結果は明白だった。斎藤龍興の圧勝。
*
選挙後、斎藤は定例会見で三つの政策を淡々と語った。
①宗教的施設としてモスクを設立する。
②イスラム教徒などのために土葬墓地を建設する。
③公共施設にはハラール食を用意する。
その口調は、まるで機械が読み上げる声明のようだった。
眉一つ動かさず、瞬きもせず、声の抑揚もない。
記者たちは次第にざわめき、彼を「静止画知事」「能面知事」と呼び始めた。
――翌朝。
県庁の駐車場に、異様な静けさが漂っていた。
早朝清掃の担当者が、スーツ姿の若い女性の倒れた姿を見つけた瞬間、腰を抜かし、その場から動けなくなった。
女性の顔は噛み砕かれ、胸も腕も下半身も不自然に変形していた。
喉笛は鋭く斬り裂かれ、血を吸われた痕跡が残る。
しかし、地面には血の海が広がっていない。
まるで血そのものが消え失せたかのようだった。
警察が駆けつけ、遺体は鑑識へと運ばれた。
身元はすぐに判明した。岩崎郁子、二十二歳。斎藤龍興知事の秘書であり、就任したばかりの若き女性だった。
近くには、レンズにヒビの入った眼鏡が転がっていた。
この惨殺事件は瞬く間に日本中を駆け巡った。
SNSは炎上し、憶測が飛び交う。
「熊に襲われたのではないか」
「現代版の吸血鬼だ!」
「地球外生物の仕業だ!」
だが、その日を境に、なぜか若い女性ばかりが次々と襲われるようになった。
定例会見で斎藤知事は、秘書が犠牲になったにもかかわらず、表情一つ変えずに淡々と語った。
「個別の案件に関しましては……警察におまかせしています……」
その無機質な言葉に記者たちは激昂した。
「すでに三人もの女性が犠牲になっているんですよ!」
「ひとりはあなたの秘書だというのに、よくもあんな顔でいられるね」
記者たちは口々に不満を漏らし、会見場を後にした。
やがて茨城県全域に「夜は出歩かないように」という警告が発せられた。
街は不安に包まれ、人々は夜の闇を恐れるようになった。
能面のように無表情な知事の姿は、ますます不気味な影を落としていった。
第二章:梵字の疼き、西日暮里から茨城へ
西日暮里の街は、夕暮れの光に包まれていた。駅前の雑踏、焼き鳥屋の煙、古びた商店街の看板――そのすべてが橙色の光に染まり、都会のざわめきと下町の温もりが交錯する。
光明社の編集室は、紙の匂いと熱気に満ちていた。雑誌『あなたの見えない世界』の編集長・田野倉伝兵衛は、机の上に散らばる新聞記事を指で叩きながら切り出した。
「裕美、どう思う?今回の茨城県の不審死事件……通り魔事件だと報じられているが」
伊田裕美は、少し考えるように目を伏せた。彼女の身体には、生まれたときから全身に梵字が刻まれていた。首下から背中、腕、脚に至るまで、左右対称に浮かび上がるその文字は観音を表すものに似ており、時折疼くように存在を主張する。まるで彼女を守る護符であり、同時に「ここは私が治す」と囁くかのように、彼女の運命を導いていた。
「そうですね……」と裕美は静かに答えた。
「記事にできるかい?」
「やってみましょうか」
こうして、伊田裕美の茨城出張は決まった。
その晩、麻布の湯川寺では、住職の村田蔵六と裕美が並んで半額弁当を広げていた。今日の弁当はチキン南蛮。半額弁当は選べない不自由さがあるが、裕美は好き嫌いがなく、むしろ同じ弁当が続かないことを楽しんでいた。
「ねえ、いったい、この襲われた人たちの共通点はなんなの?」裕美は被害者の写真を見ながら問いかける。
「共通点って?通り魔じゃないのか?」蔵六は眉をひそめる。
「一つ言えることは……若い女性。あたしくらいの年齢、二十代前半ですね」
蔵六は黙って立ち上がり、奥から一着のウェットスーツを持ってきた。全身に梵字が縫い込まれている。
「これを持っていってくれ。なにがあるかわからないからね」
裕美は苦笑しながら受け取った。
「今日はなめこのインスタント味噌汁、ごうかね」
「裕美は安上がりでいいよ」蔵六は笑った。
*
茨城の旅館は事件の影響で一般客は減っていたが、記者や調査員で満員だった。唯一、東京の大学に通う女子大生が泊まっていた。彼女の名は子安則子。民俗学を専攻し、卒論の資料を集めるために来ていた。翌日には東京へ戻る予定だった。
裕美が夜、旅館に到着した後のことだった。湯上がりに旅館の周りを散歩していた則子が襲われた。茨城県では注意勧告が出されていたが、旅館のすぐ近くという安心感が油断を生んだのだろう。
翌朝、裕美は旅館の表で異様な光景を目にした。則子の遺体が横たわっていた。頭、顔、体の至る所が食い尽くされている。まるで熊に襲われたかのような損壊。しかし奇妙なことに、血がほとんど流れていなかった。
裕美は震える手でスマホを取り出し、警察に電話をかけた。近づくと、血の匂いではない、何か別の生臭さが漂っているのを感じた。
「……何かしら?」
その瞬間、旅館に滞在していた記者たちが押し寄せ、現場は騒然となった。カメラのシャッター音、怒号、質問が飛び交い、混乱の渦が広がっていく。裕美はただ、全身に疼く梵字の熱を背負いながら、事件の深い闇を直感していた。
第三章:能面知事に興味を持つ女性記者
桃谷晴美――三十代半ばに差しかかった女性記者。彼女が通りを歩けば、独特の女の匂いが漂い、男たちの視線を引き寄せる。艶やかな笑みと軽やかな足取りは、記者仲間の中でも異彩を放っていた。茨城で続発する怪事件に多くの記者が群がる中、晴美の関心は別の方向へ向かっていた。
彼女が追いかけたのは、茨城県知事・斎藤義龍。能面のように無表情で、県政への情熱をまるで感じさせない男。
「知事!」
晴美は慌てて背中を追った。斎藤は振り向いたが、顔には一片の感情も浮かばない。
「斎藤知事、個別にインタビューさせていただけませんか」
「通り魔事件なら警察に行きなさい」眉一つ動かさず、冷たく答える。
晴美は首を振り、名刺を両手で差し出した。
「いいえ、それじゃないんです。知事の政策に興味があるんです。私は週刊誌◯◯の記者です」
斎藤が名刺を受け取る瞬間、彼の鼻孔がわずかに震えた。匂い――それは彼にとって特別な意味を持つ。処女の匂いを嗅ぎ分ける異様な能力。斎藤は確信した。
「いいでしょう。弓張月館で十九時にお待ちしています」
そう言い残すと、能面のような顔で知事室へ戻っていった。
晴美は唇を吊り上げた。
「ふふ、あたしの魅力勝ちね」
*
夜。茨城県の華族・佐竹氏の別邸を改造した旅館「弓張月館」。豪奢な調度品と歴史の影が漂うその場所で、斎藤と晴美は向かい合った。
「桃谷さん」
「モモキャンって呼んでくださいね」晴美は軽やかに笑った。
卓上には豪華な料理が並ぶ。刺身の盛り合わせ、常陸牛の陶板焼き、地酒の盃。晴美は質問を投げかけた。
「まずは、イスラム教のモスク建設についてお伺いします」
斎藤は能面のような顔で淡々と答える。会話は盛り上がらず、ただ時間だけが過ぎていった。やがて二人は駐車場で別れた。それが、生きている晴美の最後の姿だった。
翌朝、宿泊先の前で彼女の惨殺死体が発見された。強烈な匂いが漂うが、他の記者には理解できない。血の少ない遺体は、むしろ不気味なほど整って見えた。
裕美は現場を離れ、被害者の家を訪ね歩いた。霊障探偵としての直感が働いていた。斎藤知事の秘書・岩崎郁子の家では、婚約者の小野衛と話をする。思い出を語るうちに小野は涙を流し、畳を叩いて泣き崩れた。
「郁子さんは……処女なのに……」
裕美は小野の涙が辛かった。そして、早々に切り上げ、二番目の被害者の家のを訪ねた。
裕美は静かに問いかけた。
「こんなことを聞いて申し訳ないのですが……お嬢さんは処女ではありませんでしたか」
予感は的中した。
帰り道、裕美は立ち止まる。
「待てよ……最後の桃谷さんはどう見ても処女じゃないよね」
考え込む。
「それに子安さん、桃谷さんの現場で感じたあの匂いって何?」
裕美はスマホを取り出し、香水店の情報を検索しながら東京へ向かった。
そのころ、斎藤知事は宿舎でのたうち回っていた。定例会見を休み、吐き気と苦痛に襲われていた。
「あの女……処女じゃないのか」
怒りと絶望に満ちた声が響く。
「俺を騙しやがって……あの匂いは香水だったのか」
しかし、どう見ても桃谷は経験豊富な女にしか見えない。斎藤は二日間、苦しみ抜いた。能面の下に隠された異形の本性が、少しずつ露わになろうとしていた。
第四章:能面知事の新人秘書採用
裕美は、まるで霊障探偵のような面持ちで、桃谷が勤めていた雑誌社を訪ねた。
東京・飯田橋。駅前には古い橋の名残を思わせる石造りの欄干が残り、川面に映るビル群が昼の光を反射してきらめいている。周囲には出版社が幾つも肩を並べ、近代的なガラス張りのビルが空を切り裂くように立ち並んでいた。その一角に、桃谷の所属する出版社が入っている。
受付を抜け、編集部の一室に通された裕美は、緊張を隠さぬまま口を開いた。
「へんなことを聞いてすみませんが……桃谷さんの男性関係、噂などはどうでしょうか?」
編集者の一人が眉をひそめ、苦笑を浮かべた。
「この会社だけでも十人はいるんじゃないかな」
裕美はさらに踏み込む。
「処女って……ありえますか?」
その言葉に、相手の手に持っていた珈琲カップが小さく揺れ、黒い液体が危うくこぼれそうになった。
「それはないですよ。何人もいます、彼女と寝た男なんて。しかし、どうしてそんなことを聞くんです?」
裕美は声を低め、真剣な眼差しで答えた。
「茨城で起きている惨殺事件……処女が狙われているようなんです」
その瞬間、別の同僚が会話に割り込んできた。
「随分前のことだがね、彼女が使っている香水は“処女の匂い”がするだと自慢していたことがある。そんな話を耳にしたことがあるよ」
裕美はその同僚から、桃谷が通っている香水店の名を聞き出した。
赤坂にある老舗『小島香水店』。
古い木製の扉を押して入ると、ほのかに甘い香りが漂い、時代を超えて残る香水瓶が棚に整然と並んでいた。かつては男性客も多かったが、近年は香水をつける人が減り、来店者もまばらだと店員は語る。
しかし桃谷の名は、この店ではよく知られていた。
「ああ、桃谷さんが使用している香水ですね」
店員は両手で大切そうに小瓶を持ち出し、慎重に差し出した。
「これは“処女の涙”と呼ばれているものです」
裕美は一瞬の躊躇もなく購入した。瓶の重みを手に感じながら店を出ると、思わずため息を漏らす。
「すごい値段ね……これ、取材の経費で落ちるかしら?」
次に向かう場所は、すでに決まっていた。茨城。事件の現場へ。
一方その頃――。
斎藤知事は病床から徐々に回復しつつあった。能面のように無表情な顔に、わずかな血色が戻り始めている。しかし、長年仕えていた秘書・岩崎が死んだため、新しい秘書を探さねばならなかった。候補者は何人かいたが、その中に知事の目に留まった女性がいた。
高橋恵子、二十二歳。
美貌というほどではないが、どこか田舎臭さを漂わせ、周囲からは「田舎者ちゃん」とあだ名されていた。だが斎藤知事にとって容姿は問題ではない。彼にとって重要なのは、肉体の奥底に潜む“資質”だった。
斎藤知事は、処女の肉と血を喰らわなければ体力が極端に落ちる。妖術もまた、その供給を失えば力を失う。だからこそ、彼にとって秘書の選定は単なる事務職の採用ではなく、己の生存と術の維持に直結する重大な儀式だったのだ。
能面のような顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
新しい秘書――その血肉が、彼の力を再び満たすことになるだろう。
*
夜九時。
田舎の町はすでに眠りについたように静まり返り、街灯の下には人影もまばらだった。時折吹き抜ける北風が冷たく、舗道に落ちた枯葉を巻き上げては、闇の奥へと消えていく。
高橋惠子はコートの襟を立て、家路を急いでいた。
「早く帰って、おばあちゃんの田舎汁でもいただこう」
心の中でそう呟き、寒さに耐えるように歩を速める。
その時、不意に背後から声が響いた。
「高橋くん」
振り向いた瞬間、闇を裂くように影が跳躍した。少なくとも五メートルは離れていたはずの距離を一息に詰め、高橋の首へと牙を剥き出しに迫る。恐怖に支配された彼女は、悲鳴を上げる間もなく意識を失い、その場に崩れ落ちた。
だが、黒い影がその獲物に食らいつこうとした刹那――。
紺のスーツ姿の伊田裕美が、闇を切り裂くように現れた。
「やはり、斎藤知事……あなたが犯人だったのですね」
裕美の声は冷たく、しかし確信に満ちていた。
「能面と呼ばれるほど無表情な顔。そして最初の犠牲者は岩崎さん、あなたの秘書。ついこの間は桃谷さん。なぜか、あなたに近い人ばかりが犠牲になっている」
能面知事は嗤った。
「ふふふ……邪魔はさせない。今日は大量にいただくつもりだ」
裕美はすでに“処女の涙”を身にまとっていた。甘美な香りが夜気に漂い、知事の目をぎらつかせる。両手が裕美の肩を掴んだ瞬間――。
必殺鬼面割チョップが脳天に炸裂した。
乾いた音とともに能面がひび割れ、砕け散る。そこに現れたのは人間の顔ではなく、異形の仮面を剥いだ悪魔の貌だった。
「ふふふ……わしはパキスタンの移民と共に日本へ渡ってきた悪魔、マンヒルだ」
「なぜ処女ばかりを襲うの?」裕美が問い詰める。
「わしは処女の肉と血を喰らい、何百年も生きてきた。日本は処女が豊富だと聞いてやってきたのだ」
裕美のスーツの下には、梵字が刻まれた護身ウェットスーツが光を帯びていた。
「邪霊、悪魔、魔女退治――それはあたしの天命よ」
右手を高く掲げる。
「たむならの剣!」
一振りの剣が光を放ち、闇を裂いた。マンヒルは一瞬たじろぎ、目を細める。
「俺が嫌いな光だな……だが、行くぜ」
剣が空を斬り、火花が散る。マンヒルは左手から蛇を生み出し、裕美へと投げつけた。蛇は鋭い牙で裕美の右手に噛みつき、徐々に深く食い込んでいく。
裕美は苦痛に顔を歪めながらも叫んだ。
「裕美体電池!」
次の瞬間、彼女の体に電流が走り、蛇は悲鳴のような声を上げて離れた。裕美はすかさず剣を振り下ろし、蛇の首を斬り落とす。だが首を失っても蛇はなお蠢き続ける。裕美は怒りを込めて何度も剣を振るい、ずたずたに切り裂いた。
気がつくと、マンヒルの姿は闇の中に消えていた。
地面には気絶したままの高橋惠子が横たわり、裕美の右手は蛇の毒で焼けるような痛みに襲われていた。
裕美は苦しみながらも、東京・麻布の湯川寺にいる村田蔵六和尚へ呼びかけた。
その声は本堂の“たむならの鏡”に届き、鏡面に裕美の姿が映し出される。
蔵六は映し出された蛇の影を見て、顔を険しくした。
「これはただの毒蛇ではない……悪魔の従者、蛇チャプクルだ。裕美、待っていろ。薬を持って急ぎ茨城へ向かう」
和尚は必要と思われるものをすべて抱え、車に飛び乗った。
夜の東京を抜け、茨城へ――。
その車輪の音は、まるで運命を告げる鼓動のように闇を震わせていた。
第五章:霊障事件解決人・伊田裕美対悪魔マンヒル
裕美の宿泊しているホテルの窓を、冷たい雨粒が叩いていた。
あの日以来、空は泣き続けている。灰色の雲は重く垂れ込め、街の灯りを濁らせていた。
高橋恵子は無事に家へ送り届けたものの、斎藤知事の行方は依然として知れない。
「今後、茨城の県政はどうなるものか……」
裕美は深い溜息を漏らし、窓の外に広がる雨の帳を見つめた。
対面する形で、村田蔵六和尚が静かに包帯を解き、薬草を塗り込んでいた。
「裕美、それどころではないぞ。パキスタンの悪魔マンヒル、まだ生きている」
蔵六の声は低く重い。
「そうね……次こそ必ず退治します」
裕美の瞳には決意の光が宿っていた。
*
茨城県鋸山。
その山の奥深くに、マンヒルは潜んでいた。復讐の炎を胸に、第一の仕返しを始める。
発電所の屋上に姿を現したマンヒルは、両手を天に掲げ、咆哮を放った。
瞬間、システムは異常をきたし、発電は停止。東京へ送電されていた八割の電力が途絶え、首都は暗闇に包まれ、街は混乱に陥った。
さらにマンヒルはダムへと向かい、マンヒル汁なる体液毒を流し込む。水は濁り、飲めなくなり、茨城の人々は電気も水も失った。
*
茨城県庁、副知事室。
斎藤知事不在の今、県政は混乱の極みにあった。副知事が珈琲を口にしようとしたその時、窓ガラスに不気味な文字が浮かび上がった。
「明日の二十三時、処女を鋸山の日巫女神社によこせ」
副知事の手は震え、カップを落とし、黒い液体が床に広がった。すぐさま対策委員会が招集され、議論の末、ひとりの処女を神社に差し出すという決断が下された。
*
籠に入れられた女性が、廃墟と化した日巫女神社の境内に置かれた。
月光が瓦礫を照らし、風が緩やかに通り過ぎる。静けさは異様な緊張を孕んでいた。
そこへ、悪魔マンヒルが現れる。
禿げた頭、大きな耳、耳まで裂けた口。黒い貫頭衣をまとい、異形の姿をさらす。
「いい匂いだ……処女の匂い」
マンヒルが手招きすると、籠が開いた。
「お前は!」
現れた女性は能面をつけていた。
「ははは……あたしよ、マンヒルさん」
能面に“処女の涙”を纏った裕美だった。
「今日は逃さない」
裕美は全身に梵字が刻まれた護身ウェットスーツをまとい、両耳には“たむならの勾玉”のピアスが揺れていた。ゆっくりと立ち上がり、静かに言葉を放つ。
「たむならの剣」
司馬徽水鏡先生から授かったその剣が、邪悪を祓う光を放つ。
マンヒルは左手を抜き取り、ぐるぐると回すと長槍へと変化させた。
剣と槍――裕美とマンヒルの死闘が始まった。
幾度も武器がぶつかり合い、そのたびにこの世のものとは思えぬ音が響く。
しかし裕美は一瞬の隙を突かれ、剣を落としてしまった。
「容赦はしない……これで終わりだ!」
マンヒルが槍を振り下ろす。だが裕美は木の部分を掴み、叫んだ。
「必殺!飛燕回し蹴り!」
右足がマンヒルの首を捕らえ、悪魔はよろめき槍を手放す。
裕美は剣を拾い上げ、高く跳躍し、脳天へと斬りつけた。
「うぉぉぉぉ!」
マンヒルは両手で頭を押さえ、地に倒れ込む。
その体は徐々に風化し、砂のように崩れ去っていった。
戦いは終わった。
裕美は一人、山を降りていった。
夜風が冷たく、月光が道を照らす。
「半額弁当か……ここにはないわね」
その呟きは、戦いの余韻を静かに切り裂き、日常へと戻るための小さな祈りのように響いた。
エピローグ
後日――。
伊田裕美は、今回の悪魔マンヒル事件についての詳細なレポートをまとめ上げた。処女を食らう県知事という衝撃的な真相は、社会を震撼させるに十分だった。原稿を出版社に提出したとき、編集部の空気は張り詰めていたが、裕美の冷静な語り口と緻密な調査により、記事は一気に看板特集として扱われることになった。
原稿を出し終えた裕美は、出版社のある西日暮里の街を歩いていた。雨上がりの舗道はまだ濡れていて、街灯の光が水面に反射し、夜の街を淡く照らしている。人々の足取りは早く、事件の混乱がまだ世間をざわつかせていることを感じさせた。
そんな中、裕美はスターバックスの扉を押し開けた。店内は温かな灯りに包まれ、コーヒー豆の香りが漂っている。外の冷たい空気とは対照的に、ここだけは穏やかな時間が流れていた。
カウンターで「ラテを」と注文し、窓際の席に腰を下ろす。事件を解決したときには、少し豪華にラテを選ぶ――それが裕美のささやかなご褒美だった。
カップから立ち上る湯気を見つめながら、裕美は小さく笑った。
「半額弁当にラテか……あたしは安上がりな女ね」
その言葉には、戦いの緊張を乗り越えた安堵と、日常へ戻るためのユーモラスな余韻が込められていた。悪魔を斬り伏せた剣の記憶も、蛇の毒の痛みも、今はただ温かなラテの香りに溶けていく。
窓の外では、夜の街が静かに息づいていた。人々は事件の真相をまだ知らず、新聞や雑誌に記事が載るのを待っている。裕美はその光景を眺めながら、心の奥で次なる戦いを予感していた。
だが今は――。
ただ一杯のラテを味わい、庶民的な幸福に身を委ねる時間だった。
(完)
今回は、伊田裕美が「霊障事件解決人」となるきっかけは必要ありませんでしたので。その分、物語は簡潔にまとまり、能面知事の正体を描くことに集中できたと思います。
第一話を書き終えたときには、次は教会に住むハンガリーの魔女タムザベートを登場させようと考えていました。しかし、地上波やYouTubeで兵庫県の斎藤知事にまつわる話題が多く取り上げられていたこともあり、今回はその流れを汲んで「能面知事」の正体を描くことにしました。
物語はまだ始まったばかりです。次回は、異国の魔女がどのように日本の地で暗躍するのか――どうぞご期待ください。




