霊障事件解決人・森林の魔女 エリザベート・タムラ
この物語は、日常の隙間から忍び込む「異界の影」を描いたものです。
人間が木になるという奇怪な現象、怨念に囚われた霊、大塚誠の悲劇、そして西洋から来た魔女エリザベート・タムラ。すべては「弱い心」に宿る邪霊の寓話でもあります。
読者の皆さんには、ただの怪談として楽しんでいただいても構いません。けれど、もし日常の中でふと背中が疼いたり、足首に冷たい風を感じたりしたなら――それは物語の続きが、あなたの世界に忍び込んでいる証かもしれません。
序章:麻布の寺に住む女
東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。
ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。
彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。
• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。
• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。
• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。
戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。
裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だった。
彼女を支える人々は三人。
• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。
• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。
• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。
第一章:森林の魔女
満蛭伸一という男。
福島の山間部。冬枯れの森は、風の音さえ吸い込んでしまうほど静かだった。枝は骨のように乾き、地面は腐葉土と霜が混ざり合い、踏みしめるたびに湿った音を立てる。大塚誠は、そこを歩いていた。五十歳。痩せこけた頬に、赤黒い腫れが残っている。顔の左側は少し歪んでいた。殴られた痕が、まだ癒えていない。
彼の人生は、いつから狂い始めたのか。思い出すのも億劫だった。高校卒業後、職を転々とした。清掃員、警備員、バス運転手、果ては女装してホステスまでやった。どこへ行っても、いじめられた。誰が見てもひ弱で、声も小さく、反論する力がなかった。
だが、最も深く刻まれた傷は、満蛭伸一という男によってつけられたものだった。
満蛭は、1956年生まれ。地肌が透けるほど薄くなった髪を黒く染め、根元は白く浮いていた。自称「天才理系筋肉社長」。YouTubeで筋肉を見せびらかしながら、「日本人の七人に一人は馬鹿。そういう奴を騙せば金儲けができる」と笑っていた。登録者数は意外と多く、信者のような視聴者がコメント欄に群がっていた。
大塚は、そんな満蛭の会社に拾われた。IT企業と名乗っていたが、実態はコピー機の修理と、怪しげなセミナーの運営だった。面接で「君は文系か?」と聞かれ、「高卒です」と答えた瞬間、満蛭は笑った。「じゃあ、文系馬鹿以下だな」
入社初日から地獄だった。
「愛人の弁当、買ってこい。自腹でな」
「電話に出なかったな。殴るぞ」
「休日?関係ない。今すぐ来い」
満蛭は時間も空間も無視して命令を下した。大塚は従った。断るという選択肢はなかった。断れば、殴られる。殴られれば、顔が腫れる。腫れた顔で電車に乗れば、周囲の視線が刺さる。刺されれば、心が萎える。萎えた心では、次の命令に逆らえない。
「早く死にたい」
それが大塚の口癖になった。
二年後、ようやく退職した。だが、満蛭は執念深かった。大塚の新しい職場を突き止め、YouTubeで晒した。「こいつは文系馬鹿以下のクズ。俺の会社で使えなかった奴だ。騙されるなよ」
その動画には、犬笛のような言葉が散りばめられていた。信者たちはそれを合図に、大塚のSNSを荒らし、職場に嫌がらせの電話をかけた。
大塚は、再び職を失った。
彼は思った。
「死ぬしかない」
だが、死ぬ場所が見つからない。
電車に飛び込む勇気もない。
首を吊る縄も買えない。
薬を飲む金もない。
だから、歩いた。福島の森へ。誰もいない場所へ。誰にも見つからない場所へ。
「今度生まれるときは、森の木になろう……」
そう呟きながら、彼は森の奥へと消えていった。
*
雨は森を濡らし、木々の枝から滴る水が大塚の肩を打った。歩き疲れた彼の目に映ったのは、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟だった。入口は黒く、まるで獣の口腔のように湿っていた。
「ここでいいか……」
彼は呟き、泥にまみれた靴を引きずりながら中へ入った。
洞窟の中は冷え切っていた。岩壁には苔が張り付き、滴る水が小さな音を立てていた。床は硬く、背中に突き刺さるような痛みが走る。だが、疲労は彼を眠りへと引きずり込んだ。
夢の中で、女が現れた。下半身はなく、上半身だけが宙に浮かんでいた。髪は黒い霧のように広がり、目は血のように赤く輝いていた。
「あたしの名はエリザベート・タムラ。この森の支配者だった。バブルの頃に日本へ来たが、絶江和尚に妖力を封じられ、今はこの石の下に閉じ込められている。お願いだから、出してくれ」
大塚は夢の中で答えた。
「僕になんの特がありますか?それより……殺してください」
女は笑った。笑い声は洞窟の奥から響くように反響し、彼の耳を震わせた。
目が覚めると、洞窟の奥に苔むした石があった。縦二十センチほどの小さな石。だが、そこからは異様な気配が漂っていた。
「なんか気持ち悪いな……」
彼は石を引っ張った。びくともしない。蹴り続けた。こつこつと、何度も。やがて石が倒れた瞬間、洞窟全体が揺れた。地震のような振動が足元を襲い、出口へ逃げようとしたが、足は動かなかった。
石の下から、黒い霧が噴き出した。霧は形を変え、やがて女の姿を結んだ。死神のような風貌。頬は痩せこけ、目は赤く燃え、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
「あたしを出してくれたね。感謝するよ。せっかくだから、お前が一番憎む奴を残酷に殺してあげるよ」
大塚は震える声で答えた。
「満蛭伸一……」
「わかったよ。お前の天敵、満蛭伸一を殺してやる。それも惨たらしくね」
魔女は指を掲げ、呪文を唱えた。洞窟の空気が歪み、大塚の背中に激痛が走った。彼は叫んだ。背中から何かが突き出ていた。木の芽だった。芽は瞬く間に幹となり、枝を伸ばし、葉を広げた。大塚の身体は木へと変わっていく。
「冬は木で、夏は霊魂。冬木夏霊――」
魔女は高らかに笑った。笑い声は洞窟を満たし、森へと響き渡った。
大塚はもう人ではなかった。彼の願いは叶えられた。だが、それは救済ではなく、呪いだった。
第二章:習志野の夜
千葉県習志野市。海風が湿った夜気を運び、街の灯りは遠く霞んでいた。高層マンションの一室に、満蛭伸一は暮らしていた。七十歳近い彼の隣には、愛人の大分紀子。背は低く、頭部は大きく、東南アジア風の顔立ちをした女だった。二人の関係は、会社の下請けを通じた枕営業から始まり、互いに「ちょうどいい」と思える打算の上に成り立っていた。満蛭は老いゆく肉体を誇示する術を失い、紀子は生活の安定を求めていた。
その夜、窓辺に影が立った。両手をガラスに押し当て、外から室内を覗き込む女――エリザベート・タムラ。赤い瞳が闇に浮かび、冷気が室内へと忍び込む。
紀子は身震いした。
「なんか寒気がするわ」
満蛭は鼻で笑い、テレビの音を下げもせずに答えた。
「コロナにでもなったんだろう。C国がまた新種のウィルスをばら撒いたんじゃないのか」
「だったら、あなたのところに司令が来てなくはならないでしょう」
「それもそうか」
二人は軽口を交わしながら眠りについた。だが、夜半。静寂を破る水音が響いた。ぽたぽたと滴る音ではない。絶え間なく流れる水の音。紀子は目を覚まし、寝室を抜け出した。
「また、満蛭たら……風呂の水を出しっぱなしで寝て」
浴室のドアを開けた瞬間、彼女は息を呑んだ。湯船に沈んでいたのは、大塚誠の姿だった。頭まで水に浸かり、目を閉じている。水は溢れ、床を濡らし続けていた。
「きゃあっ!」紀子の叫びがマンションの壁に反響した。彼女は慌てて満蛭を揺り起こした。
「大塚が……大塚が浴槽で死んでいる!」
満蛭は目を擦り、苛立ちを隠さずに呟いた。
「なんだかわからない……意味不明だ」
いやいやながら風呂場へ向かうと、確かにそこには水に沈む大塚の姿があった。満蛭は棒を持ち出し、湯船を突いた。確かに手応えがある。慌てて水道を止め、警察へ電話をかけた。
深夜の静けさを裂くサイレン。パトカーがマンション前に停まり、警官が訪ねてきた。満蛭は案内し、浴室のドアを開けた。だが、そこにあったのは水で満たされた湯船だけ。死体は影も形もなかった。
「……死体はどこですか?」警官が眉をひそめる。
「いや、ここにあったんです!」満蛭は振り返り、紀子に縋るように叫んだ。
「なぁ、紀子!あったんだよな!」
「……あったんです、確かに」紀子は震える声で繰り返した。
警官は二人を叱りつけ、呆れたように帰っていった。残されたのは、湿った床と、消えた死体の記憶だけだった。
*
翌日。眠れぬ夜を過ごした満蛭と紀子は、頭痛に苛まれていた。紀子は上場会社の課長として、昼休みに食堂へ向かった。広い食堂には蛍光灯の白い光が満ち、社員たちが定食を前に談笑している。トレイに並んだ「うまかつ定食」。紀子は箸を取り、味噌汁を覗き込んだ。
――そこに、人の顔が浮かんでいた。
水面に揺れるのは、大塚誠の顔。目を閉じ、口から涎を垂らしている。紀子は息を呑み、思わず天井を見上げた。蛍光灯の隙間から、滴る雫。そこにも大塚の顔が貼り付いていた。
「えっ……なにこれ……」
声にならない声を漏らし、紀子はトレイを放り出して食堂を飛び出した。行く宛もなく、街を彷徨い、公園のベンチに腰を下ろす。冬の風が吹き抜け、スーツの裾を揺らした。
そのとき、彼女の身体が勝手に立ち上がった。足は地面に縫い付けられたように動かず、意志は奪われていた。
地面から、鉛筆のように尖った串刺し棒が突き出てきた。鋭い先端は、股下五センチに迫っていた。紀子は声を出そうとしたが、喉が凍りついたように動かない。
「助けて……助けて……」
五反田駅を通り過ぎる電車の音が、彼女の声をかき消した。串刺し棒の先端はスーツを裂き、ゆっくりと肉体へ侵入していく。冷たい痛みが腹を貫き、背を走り、胸を突き破った。
紀子は叫んだ。だが、その叫びは山手線の轟音に飲み込まれた。
次の瞬間、彼女の身体は串刺しにされた。股から口まで一直線に貫かれ、口の端から串刺し棒の先端が突き出ていた。
風が吹き、破れたスーツの布切れがたなびいた。公園には誰もいない。だが、スマートフォンを構えた通行人が一人、偶然その場を通りかかった。
数時間後、SNSには画像が拡散された。
「日中、串刺し魔現れる」
「誰が……こんな酷いことを?」
「どうやったのかがわからない」
コメント欄は恐怖と好奇心で埋め尽くされていった。
習志野の夜に始まった怪異は、ついに都市の噂へと変わり、人々の口にのぼるようになった。
第三章:満蛭の最期とエリザベートのユートピア
夜九時。習志野のマンションの一室で、満蛭伸一のYouTube番組が始まった。
彼はまだ愛人・大分紀子の死を知らない。老いを隠すために染めた髪は根元が白く浮き、スマホひとつまともに扱えない「情弱」ぶりを隠しながらも、画面の前では自信満々だった。
「皆さん、こんばんは!天才理系筋肉社長……満蛭伸一です!」
両腕の筋肉を誇示するようにカメラへ突き出す。信者たちはチャット欄に歓声を送り込む。
「満蛭社長かっこいい!」
「筋肉が神々しい!」
満蛭は得意げに笑った。だが、その瞬間、外の空が裂けた。雷鳴が轟き、稲光が窓を白く染める。続いて地面が揺れ、マンション全体が震えた。
「みなさん、大丈夫ですか?満蛭は大丈夫です!」
強がる声が響いた直後、窓ガラスが粉々に砕け散った。大量の雨が吹き込み、機材は火花を散らし、部屋は停電に沈んだ。闇の中で、満蛭の足が勝手に動き出す。意思とは無関係に、非常階段へと導かれていく。
そこに、火の玉が浮かんだ。赤く燃える球体が、低い声で囁く。
「の……ぼ……れ……」
満蛭は恐怖に駆られ、階段を登り始めた。背後から火の玉が追い立てる。
「ひひひ……大塚ちゃんです。登れ、登れ……」
声はかつての部下、大塚誠のものだった。震える足で階段を一段ずつ踏みしめ、屋上へと辿り着く。雨は横殴りに吹きつけ、視界は白く霞んでいた。
「の……ぼ……れ……」
さらに上には、給水タンクへ続く鉄のはしごがあった。火の玉は満蛭を追い詰めるように迫り、逃げ場を奪う。
はしごを登りきった瞬間、炎が輪を描いた。その火の輪の中に、大塚の顔が浮かび、背後には西洋の魔女――エリザベート・タムラの姿が立っていた。赤い瞳が闇を貫き、笑みは冷酷に歪んでいた。
火の輪から両手が伸び、満蛭の首を締め上げる。
「く、苦しい……許してくれ……」
彼の声は雨にかき消され、魔女の笑い声が夜空に響いた。
「きゃはははは……」
大塚の幻影が首を締めたまま、満蛭の身体は真っ逆さまに落ちていった。地上三十階。頭から落下した肉体は、骨が砕け、四分五裂となった。
その瞬間、火の玉は消えた。残されたのは、魔女の大きな笑い声だけだった。
*
「それでは、あたしは福島にかえるとするか」
エリザベート・タムラは囁き、夜の闇に溶けて消えた。
福島の温泉街。夜の湯けむりの中、最初の被害者が現れた。
湯船に浸かっていた男の背中から、突如として芽が伸び、幹となり、枝を広げていく。悲鳴を上げる間もなく、肉体は樹木へと変わり果てた。湯船には裸のまま木と化した姿が残り、湯桶やタオルだけが散乱していた。湯煙の中に立ち尽くす一本の木は、人の形を模しているように見えた。
翌日、自治体は大混乱に陥った。役場には電話が鳴り止まず、観光客は逃げ出し、宿泊施設はキャンセルの嵐。地上波のニュース番組もこの怪異を取り上げたが、コメンテーターたちは言葉を失った。
ただ一人、杉浦太蔵だけが笑顔で言い切った。
「すぐに治まりますよ。心配いりません」
彼は『本当の馬鹿にしかできない投資術』『お尻の穴でも話すことができる英語』の著者で、周りの人も視聴者も軽蔑していた。局は曲が言ってほしいことを言わせるマスコットだ。しかし、今はそれも逆効果だった。
スタジオの空気をさらに冷やした。視聴者は失笑し、SNSには軽蔑の声が溢れた。
SNSは炎上していた。
「C国の仕業だ」
「在日帰化人の陰謀だ」
憶測と陰謀論が飛び交い、真実はますます見えなくなった。
やがて、温泉街だけでなく街中でも被害が広がった。通勤途中のサラリーマンが背中から芽を吹き、スーツだけが地面に落ちる。制服姿の学生が木に変わり、机の横に制服が残る。ショッピングモールでは買い物客が次々と木に変わり、ブランド服やバッグだけが散乱した。
「木になるぞ!」
「背中から芽が出るんだ!」
叫び声が街を駆け抜ける。誰もが自分の背中を気にし、鏡を覗き込み、互いに疑い合った。駅には避難者が殺到し、バス停には長蛇の列。コンビニの棚は空になり、ガソリンスタンドには車が押し寄せた。
福島は、ユートピアではなく、恐怖の楽園へと変わりつつあった。
第四章:霊障事件解決人・伊田裕美出陣
東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。
境内の一角にある「半額弁当の間」では、今日も伊田裕美と村田蔵六和尚が、静かに、そして真剣に――うまかつ弁当を食べていた。
「このひれかつ、昨日より衣が厚い気がするわ」
裕美は箸を止め、ラテをすすった。熱い。夏でも熱い。邪霊に付け込まれぬよう、彼女は冷たいものを口にしない。冷たいものは、敵だ。
「衣が厚いのは、揚げ直しだな。ビッグAの職人芸だ」
蔵六和尚は、ひれかつを半分に割りながら、まるで仏像の構造を解説するような口調で言った。
二人の前には、怪奇専門誌『あなたの見えない世界』の最新号が広げられていた。表紙には「福島で人間が木に!?」の文字が踊っている。満蛭伸一と大分紀子の怪死はすでに過去の話。今、世間の関心は「背中から木が生える奇病」に移っていた。
「蔵六さん、どう思う?」
裕美が味噌汁の具を探りながら尋ねた。
「霊障事件じゃ、人間にあんな真似はできないよ。背中から木が生えるなんて、あれはもう……園芸だな」
和尚は真顔だった。真顔で冗談を言うのが彼の流儀だった。
「園芸って……」
裕美は苦笑しながら、勾玉のピアスを指で弾いた。カツの衣が厚かろうが、背中から木が生えようが、彼女の任務は変わらない。
「明日、福島に行くわ」
そう言って、ラテを飲み干した。湯気が立ち上り、黒梵衣の袖に一筋の光が差した。
和尚はうまかつの最後の一切れを口に運びながら、ぽつりと呟いた。
「気をつけろよ。福島は今、木と人の境目が曖昧になってるらしいからな。下手すると、取材中に根っこが生えるぞ」
裕美は立ち上がった。
「そのときは、剪定してちょうだい」
二人は笑った。だが、笑いの奥には、確かな予感があった。
福島には、何かがいる。
裕美の首下背中の左右対称の場所に観音のを表す梵字の痣が疼いていた。
*
福島行きは、思ったよりも簡単だった。人々は福島から逃げ出していたが、福島へ向かう者はほとんどいない。駅前のレンタカー店も閑散としており、裕美はすぐに車を借りることができた。目指すは、最初の被害者が出た大方温泉旅館。
エンジンをかけた瞬間から、不穏な気配が漂っていた。車の屋根の上を、髑髏の杖を握った魔女――エリザベート・タムラが追いかけている。空中を漂い、赤い瞳で車内を覗き込む。
山道を登り、下り坂に差しかかったとき、裕美の背中に刻まれた痣が突然疼いた。鋭い痛みが走り、ハンドルを握る手が震える。
「ハンドルが……きかない! ブレーキも……!」
車は制御を失い、坂道を猛スピードで滑り落ちていく。タイヤが悲鳴を上げ、視界は揺れ、心臓が喉から飛び出しそうだった。裕美は必死にハンドルを回すが、車は言うことを聞かない。
「止まって……お願い……!」
恐怖が全身を支配した瞬間、轟音が響いた。車体が大きく揺れ、突如として動きが止まった。まるで見えない力が車を押さえつけたようだった。
そのとき、耳に届いた声。
「邪魔しやがって……あの馬鹿……」
低く、苦しげな声。振り返ると、後部座席に影が揺れていた。大塚誠の霊だった。彼の顔は悲しみに満ち、しかしその眼差しは裕美を守ろうとしていた。
裕美は息を呑んだ。だが彼女は大塚誠を知らない。知らない男の霊が、自分を救ったのだ。
車内にはまだ冷たい恐怖が残っていた。だが、確かに一つの事実があった――裕美は生き延びた。
第五章:対決
裕美が最初に足を運んだのは、福島の郷土資料館だった。
館内は静まり返り、展示室には誰もいない。埃をかぶった資料棚をめくりながら「人間が木になる現象」に関する記事を探したが、どこにも記録はなかった。代わりに目にしたのは、一枚の古い新聞の切り抜きだった。
――絶江和尚という人物が、かつて西洋から来た魔女を封じ込めたという話。
「西洋の魔女……それも一九八〇年代、日本がバブル景気で浮かれていたころね」
裕美は呟き、資料館を後にした。
次に向かったのは、大方温泉旅館。かつて観光客で賑わったその場所は、今や閑散としていた。玄関をくぐると、廊下には人影がない。あるのは木ばかり。枝に着物がかかり、まるで仲居や客がそのまま木に変わったかのようだった。
「仲居さんね……」
裕美は胸の奥に冷たいものを感じた。
そのとき、暗がりから声が響いた。
「呼びもしないお客だね」
現れたのは魔女エリザベート・タムラ。髑髏のついた木の杖を握り、赤い瞳を光らせていた。
「あなたが犯人ね。皆を元に戻して」
裕美は黒梵衣の袖を握りしめ、毅然とした声を放った。
「無理よ。力ずくでやってみなさい」
魔女は杖を振り上げ、霊力を放つ。
突如、裕美の足首が木に変わり始めた。黒梵衣は上半身を守っていたが、足首までは覆えない。根が床に絡みつき、動きを封じる。
「急がないと……!」
裕美が一言、「たむならの剣」、裕美の手にたむならの剣が宿る。
今まで何体もの邪霊を葬った神器。
裕美と魔女の殺陣が始まった。杖と剣がぶつかり合い、火花のような霊光が飛び散る。だが、裕美の体は徐々に木へと変わっていく。頭と手だけが人間のまま、胴は幹となり、枝が肩から伸び始めた。
「負けない……!」
裕美は渾身の力で「たむならの剣!」と叫び、剣を魔女めがけて投げつけた。鋭い光を放ちながら剣は一直線に飛び、エリザベートの胸に突き刺さった。
「ぎゃあああああ!」
魔女の叫び声が旅館全体を震わせ、次の瞬間、彼女の姿は霧散した。杖も髑髏も消え、残されたのは冷たい風だけだった。
裕美の体も徐々に人間へと戻っていく。足首の根は枯れ、背中の枝は消えた。旅館の木々も次々と人間に戻り、温泉に入っていた裸の客たちは大慌てでタオルを掴んだ。着物を着ていた仲居も、泣きながら互いを抱きしめた。
*
そのころ、魔女を解き放った洞窟の前。一本の木が震え、やがて大塚誠の姿へと戻った。彼は地面に膝をつき、拳で土を叩きながら泣き崩れた。
「このまま……木のままでよかった……」
その声は風に溶け、福島の山々に響いた。怨念と救済の狭間で、大塚の魂は揺れ続けていた。
エピローグ
東京・六本木のスターバックス。窓際の席に座った伊田裕美は、ノートパソコンの画面を閉じた。記事は書き上がった。福島での「人間が木になる事件」、そして魔女エリザベートとの対決。すべてが活字となり、編集部へ送られた。
テーブルには、上島珈琲ブランドのラテ。湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。裕美はカップを軽く振りながら、独り言のように呟いた。
「邪霊は弱い人間の心に住み着くね」
キャラメルマキアートの表面に描かれた模様が揺れる。ふと、彼女は刑事コロンボの一場面を思い出した。
「そういえば、シスターが言っていたわ。『空っぽのお腹は悪魔の遊び場ですよ』って」
裕美は笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。
「今日はゴージャスに、から好しのお弁当でも食べましょうか。蔵六さんと二人で」
スタバのドアを押し開けると、冬の風が頬を撫でた。街はいつも通りの喧騒に包まれている。だが、裕美の心には確かな静けさがあった。事件は終わった。人々は救われた。怨念はまだどこかに残っているかもしれない。けれど、今はただ、温かい弁当と仲間との笑いが待っている。
(完)
福島の温泉旅館での対決は終わり、人々は元に戻りました。けれど、大塚誠は「木のままでいたかった」と泣き崩れました。怨念とは、救済されてもなお消えないものなのです。
この物語を通じて描きたかったのは、恐怖そのものよりも「人間の心の弱さ」と「それを利用する邪霊のしたたかさ」です。伊田裕美は黒梵衣をまとい、半額弁当を食べながらも、弱さを抱えた人々を救うために戦い続けます。
最後に――邪霊は決して遠い存在ではありません。空っぽのお腹も、空っぽの心も、悪魔の遊び場になるのです。だからこそ、今日も私たちは温かい弁当を食べ、笑い合うことが大切なのです。




