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霊障事件解決人・情弱女と禿鬼

この「情弱女」を書こうと決めたとき、私の手元にあったのは、わずか箇条書きで四行のメモだけでした。正直に言えば、とても物語として形にできるとは思えなかったのです。けれども、不思議なことに寝床に入ると筆が進み、断片的なイメージが次々と浮かび上がってきました。夜の静けさの中で、怨念や影の姿が頭に広がり、翌朝にはそれを文字に置き換えることができました。小さな断片から始まった物語が、こうして一章一章積み重なり、最後には戦いの場面まで描き切ることができたのです。

序章:麻布の寺に住む女

東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。

ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美いだ ひろみ。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。

彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。

• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。

• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。

• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。

戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。

裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だった。

彼女を支える人々は三人。

• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。

• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。

• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。


第一章 情弱 ― 禿鬼の影

佐藤萌恵さとう もえ。1964年出生。

黒髪は肩に届かぬほど短く、手入れのされていない毛先が跳ねている。眼鏡は度の合っていない古びたフレームで、レンズの奥にある瞳は常に何かを疑っているように揺れていた。彼女の姿は、どこか時代から取り残された影のようだった。

六畳一間のアパートに住み、暖房機器は炬燵のみ。埼玉の遠い駅から家まで三十分の徒歩。

駅から家までの三十分の徒歩。背後で小さな子供が「馬鹿!馬鹿!」と叫ぶ。

その手を引いていた母親が慌てて口を塞ぎ、低い声で諭した。

「本当のことを言ってはいけません」

子供は不満げに顔を上げ、問い返す。

「馬鹿に馬鹿といってはいけないの?」

家にはテレビもパソコンもない。唯一あるのはスマホだけ。だがそれも2025年になってようやく購入したものだった。時代の流れに取り残され、彼女は「情弱」と呼ばれる存在となった。


エピソード① さす充電

ある日、上司が言った。

「佐藤、これから会議だからスマホを充電してくれ」

萌恵は後退りしながら、手を振った。

「できない!できない!」

「何を言っているんだよ、充電だよ!挿せばいいんだよ」

「えっ、そんなことでいいの?」

上司は会議に入っていった。萌恵は急いで給湯室へ走り、小さなナイフを取り出す。スマホを何度も突き刺すたびに「ガッ」という音が繰り返された。会議が終わり、上司が机に戻ると、そこにはボロボロのスマホがあった。

「刺しておきました。ちょっと多めに刺しています」

その言葉に、室内の空気は凍りついた。


エピソード② 馬鹿逮捕

萌恵には奇妙な掟があった。トイレは三回に一度しか水を流してはいけない。会社の人々は影で悪口を言い、やがて「馬鹿逮捕」と呼ばれる彼女の制裁を恐れるようになった。萌恵は私人逮捕ならぬ「馬鹿逮捕」を繰り返し、同僚たちを震え上がらせた。

萌恵の日課は日記をつけることだった。そこには『殺す一覧表』と題されたページがあり、自分を馬鹿にした人、笑った人の名前が一人ずつ書き加えられていた。紙面は黒い怨念に染まり、やがてその名簿は禿鬼の呪いを呼び寄せることになる。

日頃、ろくに食べていない萌恵は栄養が偏り、日増しに痩せこけていた。食事はご飯をお茶碗一杯、豆腐を五十グラム。それだけ。彼女の影は日に日に薄くなり、やがて人の形を失いかけていた。

その痩せ細った姿を見た者は、口を揃えてこう囁いた。

「死神が憑いている」

禿鬼――。

かつて退治され、四つに分かれて全国へ飛び散ったその残骸の一つが、今、埼玉の片隅で再び蠢いていた。窓の外からじっと萌恵を見つめるその眼は、煤けた炎のように赤黒く揺れ、夜の寒気をさらに濃くしていた。

「この執念は只者ではならぬ。俺が再生するにちょうどいいね。伊田裕美への復讐があるからね」

低い声が風に混じり、窓ガラスを震わせる。

萌恵は鼻に鼻腔テープを張ったまま眠っていた。呼吸は浅く、夢の中で誰かに追われているように肩が小刻みに動いている。禿鬼は窓をすり抜け、鼻腔テープで広がった鼻孔から侵入した。冷たい霧のような影が体内へと流れ込み、萌恵の胸を内側から押し広げる。

「俺と萌恵は気が合うな。お前の夢を果たしてやるぞ!はげ!はげ!はげ!」

その瞬間、萌恵の体は痙攣し、布団が大きく波打った。頭からすっぽり被るマント――西洋の魔女が着るような黒い防寒着――が、まるで意思を持つかのように広がり、部屋の隅々まで影を落とす。

萌恵の口元が歪み、笑みとも嘲りともつかぬ表情が浮かんだ。

「ふふふ、馬鹿私刑よ。にささん!」

その笑い声は、夜の住宅街に響き渡り、誰もいないはずの路地にまで届いた。犬が吠え、窓を閉める音が連続した。だが誰も、彼女の部屋に近づこうとはしなかった。

禿鬼は満足げに囁いた。

「いいぞ、萌恵。お前の孤独は俺の糧だ。俺たちは一つになった」

萌恵は立ち上がり、マントを翻した。

こうして、情弱の女は禿鬼と融合し、夜の闇に新たな怪異を生み出したのである。


第二章:萌恵の復讐

【最初の被害者】

横浜市。

萌恵が生まれ、育った街。坂道と港の匂いが混じり合うこの土地は、彼女にとって故郷であると同時に、忘れがたい屈辱の記憶が染みついた場所でもあった。

その記憶の中心にいるのが、小学校時代の担任教師――蛭田満吉。

通信簿はいつもオール1。親への通信欄には、彼女を切り刻むような言葉が並んでいた。

「弱いくせに弱いものいじめが好き」

「教室に入ると匂いですぐわかる。悪臭のもと」

その言葉は、幼い萌恵の心を何度も突き刺し、彼女を孤独へと追いやった。六十歳を過ぎた今も、その痛みは消えることなく、むしろ禿鬼と融合したことで憎悪は増幅されていた。

蛭田満吉は九十歳になっても生きていた。介護施設付きの老人ホームに入居し、贅沢にも一人部屋を与えられていた。白い壁、整えられたベッド、静かな空気――だがその夜、部屋の片隅から白い靄がじわじわと広がり始めた。

靄は形を変え、やがて萌恵と禿鬼の合体した姿を浮かび上がらせる。老人は目を覚まし、薄暗い部屋の中でその影を見た。

「先生、あたしが誰かわかる?」

声は低く、湿った怒りを含んでいた。

「わからない」

満吉の声は震え、しかし無力な否定でしかなかった。

萌恵は突如、怒りに任せて手に持っていた高枝切鋏を振り上げた。

「あんたが散々いじめた佐藤萌恵だよ。いいね、忘れられて」

その瞬間、満吉の体は金縛りに遭い、動けなくなった。目だけが恐怖に見開かれ、声は喉の奥で凍りついた。

萌恵は鋏を喉元に押し当て、臍へ向かって切り裂いていく。鈍い音が部屋に響き、肉が裂ける感触が鋏の刃を震わせた。悲鳴は出せない。満吉はただ、自分の腹が裂かれていく様を見ているしかなかった。

血が溢れ、シーツを赤く染める。萌恵は椅子に腰掛け、流れ出る血をじっと見つめ、笑った。

「苦しめ!もっと!苦しめ!」

その声は夜の静寂を破り、長い時間、老人の苦痛を引き延ばした。やがて満吉の瞳から光が消え、元小学校教師は死んだ。

翌朝。

介護師が部屋に入った瞬間、血だらけのベッドを目にした。叫び声が施設中に響き渡り、押し寄せた野次馬たちは恐怖に顔を引きつらせた。老人ホームの廊下はざわめきに満ち、誰もが口を覆いながら後ずさった。

その場に残されたのは、血の匂いと、消えぬ怨念だけだった。


【第二の被害者】

夜の静けさに包まれた一室。

伊藤万五郎は、かつて小学校一年の頃から肥満体型で、同級生たちの笑いの的となっていた。だがその肥満はやがて糖尿病を呼び込み、今では激ヤセした身体をベッドに横たえている。皮膚は乾き、骨ばった手足は枯れ枝のように細く、呼吸は浅く途切れがちだった。

その部屋の片隅から、白い靄がゆっくりと広がる。靄の中から姿を現したのは萌恵。禿鬼と融合したその影は、かすかな笑みを浮かべながら囁いた。

「万五郎……万五郎……」

耳元に届くその声に、万五郎は目を重く開いた。

「誰!」

「わからないのかい」

万五郎は素早く上体を起こし、目を凝らした。

「お前は……佐藤……萌恵」

「ありがとう、覚えていてくれて。嬉しいわ」

萌恵の声は甘く、しかし底に冷たい刃を潜ませていた。

万五郎は身を震わせた。だが体は動かない。金縛りにかかったように、手も足も重く、ただ恐怖に支配されるしかなかった。

萌恵はゆっくりと高枝切鋏を持ち上げた。

「動けないのね。いいわ、じっくり楽しませてもらう」

鋏の刃が光を反射し、冷たい音を立てる。

右手首――パッチン!

左手首――パッチン!

右足首――パッチン!

左足首――パッチン!

次々と切り裂かれる音が部屋に響き渡り、万五郎の口からは苦痛のうめきが漏れた。血が滲み、布団を赤く染める。だが萌恵は表情を変えず、淡々とその作業を続けた。

「いいわ、その苦しむ顔。もっと見せて」

斬り終えた後、万五郎の体のあちこちから突然、炎が立ち上がった。霊火――禿鬼の力によって呼び起こされた異界の炎。燃えているのは万五郎の体だけで、布団も壁も、周囲の家具も一切燃えない。

万五郎は恐怖におののき、声を振り絞った。

「やめろ……やめてくれ……」

萌恵は椅子に腰掛け、炎に包まれる万五郎を見下ろした。

「丸焼きにしてあげるわ。豚ちゃんの丸焼き、さぞ美味しいでしょうね」

炎はさらに強まり、万五郎の痩せ細った体を焼き尽くしていく。皮膚は黒く焦げ、骨が露わになり、苦痛の叫びはやがて途切れた。

部屋には燃えた匂いだけが残り、静寂が戻った。だがその静けさは、恐怖をより濃くするものだった。

萌恵は立ち上がり、霊火の残光を背にして呟いた。

「これで二人目。まだまだ続くわ」

その声は夜の闇に溶け、誰もいない廊下へと消えていった。


第三章:霊障探偵:伊田裕美

【鈍感小学校の影】

東京・西日暮里。出版社「光明社」の雑誌企画部は、ガラス張りの近代的なビルの三階にあった。

外壁は光沢のあるパネルで覆われ、朝の陽射しを反射して街並みに鋭い輝きを放っている。自動ドアを抜けると、ロビーには観葉植物が整然と並び、電子掲示板には最新号の宣伝映像が流れていた。エレベーターの扉は静かに開閉し、社員たちがカードキーをかざして出入りしている。

三階の企画部に足を踏み入れると、空気はコーヒーとインクの匂いに満ちていた。壁には過去の特集号が額縁に入れられて並び、怪奇事件の見出しが紙面からこちらを睨んでいる。蛍光灯は明るく均一に照らしているが、記事の見出しの迫力が逆に部屋を重苦しくしていた。

伊田裕美は机に広げた資料に目を走らせ、最近起きた二件の死亡事件に思わず息を呑んだ。老人ホームでの惨殺、そして不可解な焼死。どちらも常識では説明できない。資料に並ぶ写真は血に染まったベッド、焼け焦げた遺体。冷たい紙面の上に並んだ光景は、まるで彼女の心臓を直接掴むかのように迫ってきた。

「これは霊障……まちがいなく霊障ね」

声は硬く、しかし確信に満ちていた。彼女の瞳は鋭く光り、資料の文字を越えて背後に潜む見えない存在を見抜こうとしていた。

編集長・田野倉伝兵衛は、最新型のコーヒーメーカーで淹れたばかりのカップをすすりながら、にやりと笑った。机の上にはノートパソコンとタブレットが並び、画面にはアクセス解析や販売部数のグラフが映し出されている。

「裕美ちゃん、俺もこの事件に興味を持ったんだ。調査してくれ。多分、いい記事になるぞ、大儲け」

その言葉は軽い調子だったが、編集長の目には商売人の欲望と同時に、どこか恐怖を隠すような影が宿っていた。

裕美は黙って頷き、資料を鞄に収めた。鞄の革は擦り切れ、長年の取材で傷だらけになっている。彼女は立ち上がり、窓の外に広がる西日暮里の街を一瞥した。ガラス張りのビル群が夕陽を反射し、街全体が赤く染まっている。

「横浜へ行こう」

心の中でそう呟き、裕美は足早に部屋を後にした。エレベーターの扉が閉まる瞬間、彼女の背中に記事の見出しが突き刺さるように迫り、まるで過去の怪異が彼女を呼び寄せているかのようだった。

【延命館】

最初の被害者、蛭田満吉が入居していた介護施設「延命館」。

横浜の郊外に建つその施設は、近代的な外観を備えながらも、どこか冷たい静けさを漂わせていた。ガラス張りの玄関を抜けると、消毒液の匂いが鼻を突き、白い壁が続く廊下は無機質な光に満ちていた。床は磨かれて光沢を放ち、車椅子のタイヤ跡が細い線となって残っている。

伊田裕美は足音を忍ばせながら、その廊下を歩いていた。施設の中は一見穏やかで、介護師たちの声も柔らかい。だがその穏やかさの奥に、説明できない重苦しさが潜んでいるように感じられた。まるで壁の白さが、何かを覆い隠しているかのようだった。

やがて一人の介護師が立ち止まり、裕美に向かって微笑んだ。

「蛭田さんは小学校の先生だったんですよ」

その声は優しく、懐かしさを含んでいた。だが裕美は眉をひそめる。資料に残された蛭田の最期は、あまりにも惨烈だったからだ。

介護師は続けた。

「特に悪い話はなかったです。小学校の先生だからね。子供たちにも慕われていたようですし……」

言葉は穏やかで、表情も柔らかい。だが裕美の胸には違和感が残った。老人ホームの静けさの奥に、何か語られぬ影が潜んでいるように思えた。廊下の隅に置かれた観葉植物の影が揺れ、まるで誰かがそこに立っているように見える。

裕美は心の中で呟いた。

「本当に、悪い話はなかったのだろうか……」

消毒液の匂いが強まり、蛍光灯の光が一瞬だけ揺らめいた。施設全体が息を潜め、過去の記憶を隠しているように思えた。裕美はその違和感を胸に抱えながら、さらに奥へと歩みを進めていった。


【伊藤万五郎の遺族を訪ねる】

二番目の被害者、伊藤万五郎。裕美はその遺族を訪ねるため、横浜の住宅街に足を運んだ。冬の午後、家々の屋根には薄い陽射しが落ち、冷たい風が路地を吹き抜けていた。玄関先で迎えた遺族は沈痛な面持ちで、裕美を仏間へと案内した。

仏壇には痩せ細った万五郎の遺影が置かれ、線香の煙がゆらゆらと漂っている。静かな空気の中で、裕美は慎重に言葉を選びながら尋ねた。

「万五郎さんは、どこの小学校に通っていたんですか?」

遺族は少し考え込み、やがて短く答えた。

「鈍感小学校です」

その瞬間、裕美の心臓が強く打った。

「えっ……!」

蛭田満吉も、伊藤万五郎も――二人の点が一本の線で結ばれた。共通するのは「鈍感小学校」。偶然にしては出来すぎている。裕美は確信に近い感覚を覚えた。

「もし卒業写真などが残っていれば、見せていただけますか?」

遺族は少し戸惑いながらも、古いアルバムを取り出してきた。ページをめくると、白黒の卒業写真が現れる。整列した子供たちの顔は、笑顔や緊張が入り混じり、時代の匂いを漂わせていた。

その中に――一人だけ、影の薄い少女がいた。輪郭が曖昧で、他の子供たちの中に埋もれるように立っている。裕美は指先でその姿を示し、静かに尋ねた。

「この人は、何という名前ですか?」

遺族は首を振った。

「わかりません。同じ小学校ではないので、詳しくは……」

それも当然だった。家族であっても、学校の記憶は共有されない。だが裕美の胸には、強い引っかかりが残った。

早速、裕美は鈍感小学校へ向かった。校舎は古びてはいたが、資料室には過去の記録が整然と保管されていた。そこで彼女は、ついに名前を突き止める。

「佐藤萌恵」

だが記録によれば、萌恵は小学校低学年を終えた時点で茨城県へ引っ越していた。

裕美は資料を閉じ、深く息を吐いた。

「佐藤萌恵……この名が、すべての鍵になる」

夕陽が校舎の窓を赤く染め、長い影が廊下に伸びていた。まるでその影が、裕美を次の調査へと誘っているかのようだった。


【東京麻布の湯川寺 半額弁当の間】

東京麻布の湯川寺。境内の片隅にある「半額弁当の間」は、裕美と住職・村田蔵六のささやかな団らんの場だった。

その夜、裕美はスーパーで手に入れた半額のロースカツ弁当を手に下げて帰ってきた。

「蔵六さん、ロースカツ弁当を買ってきましたよ」

笑みを浮かべながら差し出す裕美。彼女自身はヒレカツ派だが、蔵六はロースカツ派。二人の好みの違いは、日常の小さな会話を生み、静かな寺の夜を温めていた。

湯気の立つ弁当を前に、二人は箸を動かしながら語り合う。

「蔵六さん、人間の執念ってすごいわね」

裕美の言葉に、蔵六は深く頷いた。執念は時に人を支え、時に人を狂わせる。怪異の根源は、いつも人の心に潜んでいるのだ。

食事を終え、入浴を済ませた裕美は、本堂へと足を運んだ。そこに安置されているのは、水鏡先生から授かった「たむならの鏡」。真実を映し出す霊鏡である。

鏡面に念を送ると、横浜の天空が映し出された。そこに漂う影――死神か、魔女か。いや、まさしく佐藤萌恵の姿だった。

それだけではない。萌恵の背後には、黒い影がまとわりついていた。

「禿鬼!」

かつて退治したカミキリ禿鬼に続き、第二の禿鬼が姿を現したのだ。


【横浜市◯区の上空 萌恵の狂気】

横浜市◯区の上空

横浜市◯区の夜空を、萌恵は黒いマントを翻しながら旋回していた。

その姿は街灯の光を遮り、下界に不気味な影を落とす。

その夜、悲劇は静かに続いていた。萌恵は几帳面だった。

手元にある「殺す一覧表」を古い順から一人ずつ確認し、名前を見つけてはその人物を探し出し、執念深く仕留めていく。

やがて、SNS上で奇妙な言葉が炎上し始めた。

「鈍感小学校」――。

次々に怪死している人間は、偶然にも同じ小学校の卒業生だった。それも同じ学年。

SNSの発信。

• 「また鈍感小学校の卒業生が亡くなったって…偶然じゃないよね?」

• 「同じ学年ばかり狙われてるの、怖すぎる。誰か呪われてる?」

• 「昔の同級生が次々死んでる。俺も名簿に載ってるんじゃないかって震えてる」

街の人々は不安に駆られ、ネット上では憶測が飛び交った。

萌恵の念が街に降り注ぐと、あちこちの家屋で不可解な死が起きた。

ある者は斬られ、ある者は刺され、最後には霊火に包まれて焼かれる。だが奇妙なことに、燃えるのは本人だけで、周囲には一切被害が及ばない。霊火はその人を焼き尽くすと、跡形もなく消え去った。

燃え尽きた炎を見下ろしながら、萌恵は高枝切鋏を握りしめ、狂気の笑みを浮かべた。

「人間は憎い!あたしを笑った人間!あたしをいじめた人間!全て裁く!」

その背後で、彼女に乗り移った禿鬼は満足げにほくそ笑んだ。

「萌恵ちゃん、頼みがあるんだが……ここであなたの復讐は一休みだ。片付けて欲しい奴がいる」

「誰だい」

「霊障事件解決人・伊田裕美」

「知らないが、いいだろう」

こうして、萌恵の矛先は横浜から東京・麻布へと向かうことになった。


第四章:裕美対萌恵・禿鬼連合

裕美はその夜、寝苦しさに目を覚ました。

首下、背中の左右対称の位置に刻まれた観音を表す梵字の痣が、じりじりと疼いている。まるで何か得体の知れないものが近づいていることを知らせる警鐘のようだった。

「……来るわね」

裕美は寝間着を脱ぎ、黒梵衣に着替えた。黒の布地に金の梵字が全身に刻まれたその衣は、邪霊と戦うための戦闘服。着るたびに背筋が伸び、心が研ぎ澄まされる。

やがて、湯川寺の境内に影が差した。萌恵が現れたのだ。

裕美は人里から離れた駐車場に陣を敷いていた。ここなら誰の迷惑もかけずに決着をつけられる。

「あなたが萌恵さんね。怨念の塊……」

「お前に恨みはないが、こいつに頼まれてね」

萌恵の背後に、白い靄の中から禿鬼の顔が浮かび上がった。胴体はなく、ただ顔だけが漂っている。

「裕美……お前のことは一日とて忘れたことはない。聞くところによると、俺の分身カミキリ禿鬼を退治したそうだな。たっぷり敵を取らせてもらうぞ」

「能書きはいい。来い、禿鬼!」

裕美は念じ、右腕に「たむならの剣」を宿した。黄金の光を帯びた霊剣が現れると、萌恵はぎょっと目を見開いた。

「じゃあ、こちらは高枝切鋏だ。どんな首もスパッと落とせる!」

剣と鋏がぶつかり合い、火花が散った。金属音が夜空に響き渡り、湯川寺の駐車場は一瞬にして戦場と化した。

裕美は息を整えながら心の中で呟いた。

「……手強い。怨念の塊そのものね」

萌恵は空中に浮かび、鋏を振り下ろすたびに風が唸り、地面の砂利が舞い上がる。高枝切り鋏の刃は異様な光を放ち、まるで人の首を求めるかのように鋭く煌めいた。

裕美はたむならの剣を構え、刃先でその一撃を受け止める。衝撃が腕に伝わり、骨まで震える。

「どうした、裕美! この鋏に斬れぬものはない!」

萌恵の声は怨念に満ち、夜空に響き渡った。

裕美は後退しながら、剣を横に払う。鋏の刃が弾かれ、火花が散る。だが萌恵はすぐに体勢を立て直し、空中から斜めに突き込んできた。

裕美は地面に身を投げ出すようにしてかわし、剣を突き上げる。鋏と剣が再びぶつかり、金属音が耳をつんざいた。

「怨念に頼るだけでは、勝てない!」

裕美の声は鋭く、夜気を切り裂いた。

しかし萌恵は笑った。

「人間に笑われ、いじめられた私が、怨念そのものになったのよ! お前に止められるものか!」

鋏が横薙ぎに振るわれ、裕美の頬をかすめた。冷たい風が肌を切り裂くように走り、血の匂いが漂う。

裕美は剣を握り直し、足を踏み込む。剣先が鋏を押し返し、二人の力が拮抗する。火花が散り、夜空に小さな星のように瞬いた。

「……やはり、怨念の塊ね」

裕美は再び心の中で呟いた。

二人の影が駐車場に交錯し、剣と鋏の音が絶え間なく響き続ける。まるで夜そのものが戦いの舞台となり、怨念と祈りがぶつかり合っているかのようだった。

そのとき、寺の本堂から蔵六が駆け出してきた。手には小型のドローンを抱えている。

「裕美!」

萌恵は情弱ゆえ、ドローンを見たことがなかった。

「何?これ……飛んでいる……?」

一瞬の怯み。その隙を逃さず、裕美の「たむならの剣」が萌恵を斬り裂いた。

萌恵は絶叫とともに消えかける。

「この情弱女……!相手にしていられない!」

禿鬼は萌恵を見限り、逃げ出した。

「逃さない!」

裕美は追いすがり、たむならの剣を禿鬼の脳天に突き刺した。禿鬼は大きな叫びを上げ、白い靄とともに消え失せた。

裕美は額の汗を拭い、低く呟いた。

「……やはり禿鬼は手強い」

そのとき、地面に一冊のノートが落ちているのに気づいた。萌恵が持っていた「殺す一覧表」だった。ページからは怨念の気配が立ち上っている。

「これが……全ての元凶」

裕美は胸に十字を切り、光を放った。ビームがノートを貫き、炎が走る。

「えっ……?」

燃え上がるノートから、かすかな声が漏れた。

「……む……ね……ん……」

やがて炎は萌恵の斬り裂かれた体にも広がり、怨念の塊は燃え尽きていった。最後には、何もなかったかのように静かに消え去った。


エピローグ

「蔵六さん、どうしてドローンを持って来たの?」

湯川寺の境内を歩きながら、裕美は不思議そうに問いかけた。

蔵六は少し笑みを浮かべ、静かに答える。

「萌恵は情弱と聞いていたのでな。未知のものに驚くと思った。何と言っても、一瞬の怯みに剣を振るえたのは……神業としか言えん」

裕美は頷き、ふっと肩の力を抜いた。

「……スタバでも行きますか?」

二人は湯川寺近くのスターバックスに足を運んだ。夜の街はまだ戦いの余韻を隠すように静まり返り、店内の灯りが温かく二人を迎え入れる。

窓際の席に腰を下ろし、裕美はキャラメルマキアートを手にした。湯気の立つ甘い香りが、張り詰めていた心をほどいていく。

「今回の邪霊もものすごかったわ。でも……事件の解決の後にはキャラメルマキアートがよく似合う」

そう言って微笑む裕美。その笑みは、戦いの最中には見せなかった柔らかさを取り戻していた。

テーブルの上にはノートパソコンが開かれている。画面には編集長・田野倉伝兵衛宛ての報告書が送信される瞬間が映し出されていた。戦いの記録は、記事として世に出るだろう。

蔵六は静かにコーヒーをすすり、裕美は甘い一口を味わう。

外の夜風は冷たいが、店内には穏やかな時間が流れていた。

霊障事件解決人の伊田裕美の邪霊退治は始まったばかりだ。

(完)

霊障事件解決人・伊田裕美というキャラクターを生み出してから、私はバトル描写に力を入れるようになりました。毎回、ただ「たむならの剣で斬り裂く」だけでは単調になり、読者の心を揺さぶることはできません。だからこそ、敵の性質や弱点を工夫し、戦いの展開に変化を持たせることを意識しています。今回の「情弱女」もその一例であり、情報に疎いという弱点を戦いの中でどう活かすかを考えました。怨念と執念、そして人間の脆さを描くことで、ただの怪異譚ではなく、現代的な風刺を含んだ物語にしたいと思ったのです。

物語は終わりましたが、伊田裕美の戦いはまだ続きます。次にどんな敵が現れるのか、どんな弱点を突くのか――それを考えることが、私自身の楽しみでもあります。

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