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霊障事件解決人・伊田裕美:禿鬼の呪い

オカルト雑誌の記者・伊田裕美。その背には観音の梵字の痣が刻まれている。億人に一人の特異体質を持つ彼女は、福島での取材中、司馬徽水鏡と名乗る人物から「たむならの剣・鏡・勾玉」を授かる。この世に蔓延る邪霊を討て――そう託された使命を胸に、裕美は霊障事件の解決人として歩み始める。

一方、東京ではパワハラによって命を絶った男が、怨念の化身・禿鬼として蘇り、自らを追い詰めた社長一族を惨殺。復讐の炎はやがて人間全体へと向けられる。人の世に潜む闇と、正義を背負う者の戦いが、いま始まる。

■ 伊田裕美

東京・麻布の臨済宗寺院「湯川寺」に住む伊田裕美いだ ひろみ、22歳。怪奇・超常現象専門誌の記者として働きながら、霊障事件の解決に奔走する日々を送っている。

■ 裕美の武器と装備

邪霊退治に用いるのは、伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。

• たむならの剣

この世の邪悪を討つ使命を託され、司馬徽水鏡先生より授かった霊剣。

• たむならの鏡

普段は湯川寺に安置されているが、危機の際には鏡を通じて住職・村田蔵六和尚に念を送ることができる。

• たむならの勾玉

魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして装着されている。

さらに、戦闘時には梵字が刻まれた密着型の黒い法衣「黒梵衣」を身にまとう。邪霊を寄せ付けないこの衣は、禿鬼との初戦の際に村田蔵六和尚から授けられたものである。

■ 裕美の日常

• 食生活

麻布の「ビッグA」で半額になった弁当をよく購入し、湯川寺の「半額弁当の間」で食べるのが日課。特にひれかつ弁当がお気に入り。

• 飲み物のこだわり

スターバックスでは一年を通して熱いラテを注文。冷たい飲み物は好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを好む。身体を冷やすと邪霊に付け込まれるという信念を持っている。

■ 裕美を支える人々

村田蔵六むらた ぞうろく

50代の陰陽師であり、湯川寺の住職。裕美とは同居しているが、男女の関係ではなく、父親のような存在として彼女を見守っている。

田野倉伝兵衛たのくら でんべい

怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の編集長。裕美の取材活動が雑誌の柱となっており、彼女の活躍に大きく依存している。

高橋霊光たかはし れいこう

自称・怪奇現象解決人。だが実際は役立たずで、裕美に迷惑ばかりかける存在。今回は登場しない。


第一章:伊田裕美の秘密(観音の痣)

晩秋の麻布。湯川寺の境内に、冷たい風が梵鐘の音を運んでいた。

本堂の奥、仄暗い灯りの下で、伊田裕美は静かに資料を広げていた。白いシャツの襟元はきちんと整えられ、黒のジャケットが彼女の細身の体にぴたりと馴染んでいる。短く整えられた黒髪は、少しだけ無造作に揺れ、光の加減で青みがかって見えた。

その瞳は大きく、どこか憂いを帯びている。だが、芯の強さを感じさせる眼差しだった。唇は紅を差したように赤く、表情は静かで、感情を深く内に秘めているようだった。

「福島県大方郡……祟りの森、か」

彼女は明日の取材先の地図を見つめながら、独り言のように呟いた。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として、そして霊障探偵として、裕美はこの数年、数々の不可思議な事件に関わってきた。

そのとき、スマートフォンが震えた。編集長・田野倉伝兵衛からの着信だった。

「裕美くん、明日、福島行けるかね?例の林、地元じゃ“祟りの森”って呼ばれてるらしい」

「はい、準備はできてます。宿も大方温泉に取りました」

「さすがだ。気をつけてな。あそこは、ただの怪談じゃ済まんかもしれん」

電話を切った裕美は、ふと背中に手を伸ばした。首の下、肩甲骨の間――ちょうど胸骨の裏側にあたる位置に、彼女は生まれつきの痣を持っていた。それは観世音菩薩を表す梵字「サ(स)」の形をしており、誰にも見せたことのない秘密だった。

その痣が、今夜は少し熱を帯びているように感じられた。

「……何かが、始まる」

裕美はそう呟き、静かに目を閉じた。

翌朝、福島県大方郡。林の入口に立った裕美は、冷たい空気の中に、どこか異質な気配を感じていた。

「ここが、祟りの森……」

取材用のカメラを首にかけ、メモ帳をポケットに入れたその時、林の奥に一人の老人が立っているのが見えた。

白髪が肩まで垂れ、白地に黒の格子柄の着物をまとったその姿は、まるで時代から切り離されたようだった。

「……誰?」

声をかける間もなく、老人はゆっくりと林の奥へと歩き出す。裕美は、なぜかその背を追ってしまった。まるで「ついて来なさい」と言われたような気がした。

林を抜けると、朽ち果てた寺院が姿を現した。屋根は崩れ、柱は苔に覆われている。老人はその前で立ち止まり、そして、ふっと消えた。

「えっ……?」

裕美は急ぎ足で本堂に入った。中は薄暗く、埃と湿気の匂いが漂っていた。

「よく、来ましたな」

奥から声が響いた。そこに座っていたのは、先ほどの老人だった。

「あなたは……誰ですか?」

「わしは司馬徽。人は水鏡先生と呼んどる」

「三国志の……?」

「そうじゃ。わしはお前を探していた。お前こそ、万人の不幸を背負って生きる人間」

「……どういう意味ですか?」

「証拠はある。お前の背中にある痣。それは観世音菩薩を表す梵字『サ』じゃ」

裕美は息を呑んだ。誰にも見せたことのない痣を、なぜこの老人が知っているのか。

「お前は、この世の不幸と戦うために生まれた。わしの寿命ももうすぐ尽きる。その前に、これを授ける」

水鏡先生が手をかざすと、空中に三つの透明な物体が浮かび上がった。

「これらは神器じゃ。たむならの剣、鏡、勾玉。すべて授ける」

勾玉がふわりと浮かび、裕美の両耳にピアスのように装着された。

「これは……」

「勾玉は邪霊からお前を守る。剣と鏡は、念じればいつでも現れる」

その瞬間、水鏡先生の身体が崩れるように倒れた。

「頼んだぞ、伊田裕美……」

「どうして、名前まで……」

気づけば、先生の姿は消えていた。周囲を見渡すと、朽ち果てた本堂も、寺院も、すべてが消えていた。

裕美は急いで、大方温泉の旅館へと戻った。耳には、たむならの勾玉がピアスとして確かに存在していた。

その夜、大方温泉旅館。女将の大方正恵は、30代の落ち着いた美しさを持つ女性だった。

「お疲れでしょう。温泉、どうぞ」

「ありがとうございます。少し、長い一日でした」

二人は湯に浸かりながら、静かに語らった。裕美は、今日の出来事を言葉にすることができなかった。ただ、背中の痣が、湯の中でじんわりと熱を帯びているのを感じていた。

「不思議ですね。疲れてるはずなのに、全然疲れてない」

「それは、何かを受け取ったからじゃないかしら」

正恵の言葉に、裕美はふと目を閉じた。観音の痣、たむならの神器、そして水鏡先生の言葉。

――万人の不幸を背負って生きる人間。

その意味を、裕美はまだ知らなかった。ただ、これから始まる何かを、静かに受け入れようとしていた。


第二章:パワハラによる悲しい死

東京都文京区大塚。

その一角に、風が吹けば軋むような、薄汚れた七階建ての雑居ビルがある。名を「工作員会館」。

六階には、蛭田企画株式会社の事務所がある。設立三十年、名目はIT企業。だが実態は、社長・蛭田無犯窓の虚栄心を満たすための舞台装置に過ぎない。

蛭田無犯窓──一九五六年生まれ。山家の出で、姓を持たなかったが、戦後の混乱に乗じて「蛭田」を名乗った父の名をそのまま継いだ。

白髪を真っ黒に染め、肩書を集めることに執心する。息子が中学・高校を卒業しても中学・高校のPTA会長を掛け持ちし、習志野無愛男女交流会や町内会の会長職も歴任。表向きは地域貢献だが、実態は自身の人脈と虚飾を満たすための舞台装置に過ぎなかった。

千葉県のタワーマンションに住み、家族構成は異様だ。

母・トメ九十四歳、妻・よし子九十二歳。母親と妻の歳がほとんど変わらないという異常さ。息子・本胎児ほんたいじ三十五歳とその妻・幸恵も姓を持たぬ山家の出。孫・福臨は1歳。

さらに愛人・宮崎紀子五十五歳を囲い、虚飾の王国を築いていた。

工作員会館六階──蛭田企画株式会社。

外観はすでに時代に取り残されていたが、内部はさらにその上を行く。

エレベーターを降りると、まず鼻をつくのは古い畳のような湿った匂い。

壁は、まるで誰かが醤油をぶちまけたかのように、茶色く染みていた。

蛭田無犯窓は「これは歴史の重みだ」と言っていたが、社員たちは黙っていた。

床は剥がれかけたリノリウム。天井の蛍光灯は半分が点滅し、残りは消えている。

空調は壊れて久しく、夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫。

蛭田は「人間は自然に鍛えられるべきだ」と言っていたが、社員たちは黙っていた。

机は昭和の事務机。引き出しは開かず、鍵もない。

椅子はパイプ椅子。座るとギシギシと音を立て、長時間座ると腰が痛む。

パソコンは、未だにWindows95。起動に5分、フリーズに10秒。

「これで十分だ。昔の人は紙と鉛筆で仕事してたんだ」と蛭田は言う。

一部の社員は、耐えきれず自腹でパソコンを購入。

インターネット環境もなく、各自がスマホのテザリングや個人契約のWi-Fiを使っていた。

社員は十名。女六名、男四名。

女たちは、蛭田の「好み」で集められた者ばかり。

夜の商売をしていた者が多く、名刺には「営業部」と書かれているが、実態は不明。

蛭田は「女性には華が必要だ」と言っていたが、社員たちは黙っていた。

蛭田無犯窓には、奇妙な習慣があった。

彼は会社のエレベーターも階段も使わない。

代わりに、ビルの外壁に自ら設置したクライミング用ロープを使い、毎朝六階の事務所まで這い上がってくるのだ。

「山は裏切らない。機械は裏切る」

そう言って、彼は毎朝、スーツ姿のまま、汗をかきながらロープを握る。

下から見上げる社員たちは、誰も声をかけない。

むしろ、落ちてくれればいいのにと、心の中で願っていた。

ロープはすでに日焼けし、ところどころほつれていた。

だが蛭田は「これが本物の信頼関係だ」と言って、補修すらしない。

六階の窓から這い上がってくるその姿は、まるで蜘蛛か、あるいは亡者のようだった。

その日も、蛭田は窓から這い入り、汗だくのまま朝礼を始めた。

「今日も登ってきたぞ。お前らも努力しろ」

社員たちは、黙っていた。

このような異常世界に伊藤司もその中にいた。

彼だけは、蛭田の趣味とは無縁だった。

禿げた頭、粗野な言葉遣い、古いスーツ。

だが、彼は真面目だった。

誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで残業していた。

Windows95のパソコンに向かい、「畜生、畜生」と呟きながら、黙々と仕事をしていた。

蛭田はそんな伊藤を疎ましく思っていた。

「華がない」「陰気臭い」「見てるだけで気分が悪い」

そう言って、朝礼で罵倒し、仕事を押しつけ、孤立させた。

この会社、蛭田企画は、彼の見栄と支配欲を満たすためだけに存在する空間だった。

そして、伊藤司の魂が削られていく場所でもあった。

伊藤司──一九五九年生まれ。

笹野高史に似た風貌。頭頂部は禿げ上がり、両脇にわずかに毛が残る。

育ちは良くない。言葉遣いも粗く、パソコンを叩きながら「畜生!畜生!」と呟くのが日課だった。

だが、彼なりに真面目に働いていた。

それを踏みにじったのが、蛭田無犯窓である。

朝礼の時間になると、蛭田の声がオフィスに響いた。

「少しくらい禿げてるからって、威張るなよ」

「君の存在が会社の士気を下げている」

伊藤は名指しで罵倒されることに慣れていた。だが、慣れることと耐えることは違う。容姿と人格を結びつけた侮辱は、業績とは無関係に繰り返され、社員たちは沈黙を選んだ。誰も笑わず、誰も止めなかった。伊藤の顔色は、日を追うごとに青ざめていった。

ある日、蛭田は伊藤に無理な納期のプロジェクトを一人で任せた。

「君の能力を見せてみろ」

そう言って嘲笑し、他部署との連携を禁じた。

結果、納期には間に合わなかった。蛭田はすぐさま社内メールを全社員に送信した。

「やはり無能だったようだ」

その文面は冷たく、短く、残酷だった。

伊藤は過労と睡眠不足でふらつきながらも、誰にも助けを求めなかった。いや、求められなかった。差し伸べる手は、どこにもなかった。

やがて、伊藤の席は社内の片隅へと追いやられた。

最終的に彼が与えられたのは、会社の奥にある非常口の踊り場だった。

机もパソコンもない。置かれていたのは、背もたれのない古びた椅子が一脚だけ。

扉の隙間からは冬の風が吹き込み、コートの襟を立てても身にしみる寒さだった。

それでも伊藤は、そこに座り続けた。

誰にも見られず、誰にも話しかけられず、ただ一人、風の音を聞きながら。

社内チャットからも除外され、業務に必要な情報は届かなくなった。

「伊藤と話すと評価が下がる」

そんな空気が、言葉にされることなく社内に漂っていた。

昼食はいつも一人。会議にも呼ばれず、彼の存在は徐々に社内から消えていった。

誰も彼を見ようとせず、誰も彼の声を聞こうとしなかった。

伊藤司は、確かにそこにいた。

だが、誰も彼を「いる」と認めようとはしなかった。

伊藤は多夢羅弁当でチキン南蛮弁当を買い、店先のベンチに腰を下ろした。冷めかけた弁当を黙々と口に運び、最後の一切れを飲み込むと、ゆっくりとポケットからタバコを取り出す。火をつけ、煙を吐きながら、彼は静かに目を伏せた。

酒は飲めない。いや、飲まないのではなく、飲めないのだ。血圧は常に210を超え、医者からは厳しく禁じられていた。それでもタバコだけは、手放せなかった。煙の向こうに、何かを見ようとしているような、そんな表情だった。

やがて伊藤は立ち上がった。弁当の空容器をゴミ箱に捨て、背筋を伸ばす。向かう先は会社――だが、いつものように仕事をこなすためではない。今日は、ある目的のために、彼はその場所へ向かっていた。

精神を蝕まれた伊藤は、深夜のビルの屋上に立っていた。風は強く、彼の身体を左右に揺らす。コンクリートの床に影を落とす満月の光が、彼の禿げた頭頂を白く照らしていた。

口には、先ほど食べた多夢羅弁当に添えられていた爪楊枝が一本。無意識に噛みしめながら、彼は足元に目を落とす。揃えられた革靴の先、その遥か下に、夜の街が沈黙していた。

カチリ、と乾いた音を立てて爪楊枝を吐き捨てると、伊藤は一歩、踏み出した。

落下の最中、彼の脳裏に浮かんだのは、ただ一つの後悔だった。

――しまった、まだ……。

「飛べ、飛べ、鳥になるんだ──」

その叫びは、風にかき消され、夜の闇に溶けた。

次の瞬間、鈍い衝撃音がビルの下に響き渡る。伊藤の身体は地面に叩きつけられ、血がアスファルトに広がっていく。まるで地震のような振動が、工作員会館の建物全体を揺らした。

その音に目を覚ましたビルの大家が、恐る恐る窓を開けて下を覗いた。視界に飛び込んできた赤黒い塊に、顔がみるみるうちに蒼白になる。だが、手にした受話器は震え、ダイヤルを回すことすらできなかった。

翌朝。

蛭田はオフィスの一角で、伊藤の転落死を知らされた。だが、眉ひとつ動かすことなく、淡々と言い放った。

「禿、死んだか。せいせいするね。あいつがいると空気が重くて仕方なかった。今日から気分よく仕事ができそうだ」

その瞬間、室内の空気が凍りついた。誰も笑わなかった。

だが、誰も彼を止めなかった。

誰も、伊藤の死に言葉を添えようとしなかった。

伊藤司は死んだ。

だが、死にきれなかった。

この世への執念が、形を変えて蘇る。

禿鬼はげおに――それは、伊藤の怨念が具現化した存在。

黒く染めた髪を持つ者を、次々と狙い、襲い始める。

静かに、確実に。

誰もが気づかぬうちに、禿鬼はすでにオフィスのどこかに潜んでいた。


第三章:禿鬼の復讐

霊安室の蛍光灯が、静かに、しかし確かに瞬いた。

伊藤司の遺体の上に、白い靄がふわりと立ちのぼる。

それはまるで、長い眠りから目覚めた魂が、肉体の檻を抜け出す瞬間だった。

「ひひひ……楽しましてもらうよ」

靄の中心に、禿げ上がった頭が浮かび上がる。

その顔には、かつての伊藤司の面影はない。

あるのは、怨念と嗤いだけだった。

千葉県、外房のとある漁村。

冬の海風が吹きすさび、錆びたトタン屋根が軋む音が、村の静寂に溶けていく。

かつては賑わった港町も、今では高齢者ばかりが残る、忘れられた土地となっていた。

その一角に、蛭田無犯窓の住まいがあった。

「タワマンに住んでる」と吹聴していたが、実際は県営団地の五階。

エレベーターもない、古びたコンクリートの箱だった。

そこに、母・トメ、妻・よし子と三人で暮らしていた。

息子の本胎児とその妻・幸恵、そして孫の福臨は、別の市に住んでいた。


禿鬼と化した伊藤司は、蛭田一族の抹殺を誓った。

その順番は、すでに決まっている。

まずは、母・トメ。

次に、妻・よし子。

そして、息子・本胎児、嫁・幸恵、孫・福臨。

最後に、蛭田無犯窓――。

団地の窓ガラスに、ふと禿鬼の顔が映る。

だが、誰も気づかない。

気づく者は、もうすでに、死の影に触れている。


【第一幕:母トメの死】

ある日を境に、トメの体調が崩れた。

高熱が続き、うわ言を繰り返すようになる。

「お伊藤さんが……来るよ……」

「白い頭が……笑ってる……」

無犯窓は、そんな母に一切の関心を示さなかった。

「歳だからな、いつか人間は死ぬんだよ」

それが彼の口癖だった。

妻・よし子が「お願い、家にいて」と懇願しても、

「俺は忙しいんだ。山岳会の例会がある」と言って出ていく。

彼の関心は、愛人・宮崎紀子と、週末の登山だけだった。

やがて、トメは静かに息を引き取った。

よし子は一人で家族葬を執り行った。

無犯窓は帰ってこなかった。


【第二幕:よし子の異変】

葬儀が終わった頃から、よし子の様子は目に見えておかしくなっていった。

団地の廊下で突然「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫びながら土下座を繰り返したかと思えば、

翌朝には団地の花壇にしゃがみこみ、咲き誇るパンジーの花びらをむしっては口に運んでいた。

「お母さんが呼んでるの……白い靄の中から……」

そう呟く彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。

ある日、近所のスーパーでの出来事だった。

買い物かごを手に、いつものように豆腐と大根を選んでいたよし子が、

突如として、シャツのボタンを一つ外し、次にスカーフを外し、

そのまま一枚ずつ、服を脱ぎ始めたのだ。

「暑いのよ……中から燃えてるの……」

そう言いながら、下着姿になってもなお、冷蔵棚の前で真顔で白菜を吟味していた。

店内は騒然となり、通報を受けた警察官が駆けつけると、

よし子は抵抗もせず、にこやかに「お母さんのところに行くの」とだけ言って連行された。

警察からの連絡を受けた無犯窓は、こう言い放った。

「今日これから山に行くんだよ。こっちは予定があるんだ。勝手に留置所にでも入れておいてくれ」

その声に、わずかな怒りも、悲しみもなかった。

そして、ある晩。

鉄橋の上に立ったよし子は、下を走る列車に向かって身を投げた。

その瞬間、誰かが彼女の背を押したように見えた――禿鬼の影が、そこにあった。

「やっと死にやがった。せいせいするよ。トメもよし子も」

無犯窓は、笑いが止まらなかった。

彼の頭の中には、すでに紀子との新生活の青写真が描かれていた。

だが、その笑いの奥に、禿鬼の冷たい視線が忍び寄っていることに、彼はまだ気づいていなかった。


【第三幕:本胎児に迫る魔手】

本胎児もと・たいじは、世間で言えば「まともな男」だった。

妻・幸恵と幼い息子・福臨に恵まれ、東京・五反田のアプリ開発会社に勤めていた。

日々の業務に追われながらも、家族とのささやかな団欒を大切にする、ごく普通の男だった。

だが、母・よし子が亡くなった日から、何かが狂い始めた。

兄・無犯窓むはんそうは何の手配もせず、葬儀の一切を本胎児が引き受けた。

その夜からだった。

本胎児は、毎晩、うなされるようになった。

夢の中に現れるのは、ただ一つの禿げた頭。

顔は見えない。ただ、ぬらりと光る頭皮が、闇の中に浮かび、呻くように囁く。

「おまえを苦しめる……おまえを……」

本胎児は妻に訴えた。「あの禿頭が、俺を……」

だが幸恵は、疲れているのだろうと、そっと肩を撫でただけだった。

ある晩、午前二時過ぎ。

本胎児は叫び声とともに飛び起きた。

隣に眠る幸恵の顔が、白く浮かび上がって見えた。

その瞬間、彼の中で何かが切れた。

「お前が……お前が俺を……!」

彼は幸恵の首に手をかけ、力の限り締め上げた。

幸恵は抵抗する間もなく、ぐったりと崩れ落ちた。

泣き声が響いた。

福臨が、布団の中から顔を出して泣いていた。

本胎児は、無言でその小さな体を抱き上げ、柱に叩きつけた。

「うるさい……うるさい……!」

福臨の泣き声は、二度と響かなかった。

そのときだった。

背後に、あの禿頭が現れた。

いや、もはやそれは「禿鬼」としか呼べぬものだった。

禿鬼は、口を裂けるほどに開き、声なき大笑いをした。

翌朝、本胎児は何事もなかったかのように、五反田の職場へ向かった。

食堂で定食を食べながら、ふと窓の外を見た。

「あいつだ……あいつが来ている……」

誰にともなく呟き、箸を落とし、立ち上がった。

意味不明な言葉を叫びながら、会社を飛び出した。

信号無視の横断。

クラクションの音。

そして、鈍い衝突音。

本胎児の体は宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。

その瞬間、白い靄の中に、禿鬼が再び現れた。

あの笑い声が、霧の奥から響いた。

そして、すっと消えた。

五反田の空は、何事もなかったかのように、晴れていた。


【第四幕:愛人・宮崎紀子の変死】

女は椅子に腰かけ、シャツのボタンを一つずつ留めていた。

蛭田無犯窓の愛人、宮崎紀子。

上場企業の課長職に就いてはいたが、実力でそこに至ったわけではない。

顔立ちは整っているとは言い難く、むしろ東南アジア系と見紛う異国の骨格をしていた。

身長は155センチ。小柄で、少食。脂肪のつく余地もないほどに、細かった。

「ありがとう。あたし、帰るわね」

紀子は、今夜もまた“お礼”を済ませたばかりだった。

社内のSEに仕事を肩代わりしてもらった見返りに、体を預けたのだ。

それは彼女にとって、日常の一部だった。

帰路、紀子は世田谷の自宅へ向かっていた。

実家は裕福で、何不自由ない暮らしをしていたが、心は常に空虚だった。

その夜、世田谷には珍しく、暴走族がたむろしていた。

5人の若者。目は虚ろで、手には鉄の棒。

その瞳には、何かが宿っていた。いや、何かに乗っ取られていた。

深夜、駅を出て、人気のない裏道に差しかかったときだった。

バイクの爆音が背後から迫る。

紀子は、直感的に危険を察知し、走り出した。

だが、逃げ切れるはずもなかった。

「やめて……!」

叫ぶ間もなく、鉄の棒が振り下ろされた。

鈍い音が、夜の静寂を裂いた。

バイクを降りた5人が、無言で彼女を取り囲み、次々と鉄の棒を振るった。

華奢な体は、あっという間に沈黙した。

その瞬間、5人の目から光が消えた。

正気に戻った彼らは、血に染まった棒と、倒れた女の姿を見て、凍りついた。

「……うそだろ……」

「なんで……俺たち……」

誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが逃げ出した。

そこに残されたのは、寂しげな女の骸。

下着には、先ほどまでの“仕事”の痕跡が、まだ温もりを残していた。

そして、白い靄が立ちこめる。

その中に、火の輪が浮かび上がる。

禿鬼——あの忌まわしき存在が、輪の中に現れ、声なき笑いを浮かべた。

やがて、靄とともに、静かに消えた。

夜は、何事もなかったかのように、再び静まり返った。


【第五幕:無犯窓の死】――闇に堕ちた登山家社長――

蛭田無犯窓は、死を悼む心を持たぬ男だった。

母が死んでも、妻が逝っても、彼は「これで自由に創作できる」と笑った。

息子一家の事故死に至っては、新聞の隅に載る交通情報ほどの関心しか示さなかった。

そんな彼が世間に名を知られるようになったのは、「登山家社長」の名で配信するYouTube番組だった。

オープニングは奇抜だ。自社ビルの窓から垂らしたロープをよじ登り、六階の窓を開けて部屋に入る。

「みなさん、こんにちは、こんばんは。登山家社長、蛭田無犯窓です」

そう挨拶してから、人生相談、政治批評、登山情報を語るのが定番だった。

だが、その夜のライブは違った。

突然、照明が点滅を始めた。

「えっ?停電か?」と無犯窓が呟いた瞬間、背後に白い靄が立ち込め、火の輪が浮かび上がった。

その中から、禿げた鬼――禿鬼が、ゆっくりと顔を持ち上げて現れた。

視聴者は最初、演出だと思った。

だが、無犯窓の顔が蒼白になり、モニターに映る禿鬼を見て叫んだ。

「お、お、お前は……伊藤司。化けて出てきたな!」

彼は逃げた。

電気が消えた瞬間、部屋を飛び出し、使ったことのない階段を駆け下りた。

だが、降りきった先に禿鬼は立っていた。

無犯窓は隣の製薬会社の非常階段を登り始めた。

「登れ!登れ!もっと!」

禿鬼の低い声が背後から響く。

三十階の屋上にたどり着いた無犯窓は、膝をつき、震えながら土下座した。

「やめてくれ!俺が悪かった!許してくれ!」

だが、禿鬼は許さなかった。

青白い手が二本、無犯窓の首を締め上げる。

彼は苦しみ、悲鳴を上げながら、屋上から落ちていった。

地面に叩きつけられた遺体は、もはや原型を留めていなかった。

いつも真っ黒に染めていた髪は、なぜか真っ白な白髪になっていた。

ライブは、主人公不在のまま、無人の部屋を映し続けていた。

そして、禿鬼の復讐は、静かに幕を閉じた。

第四章:禿鬼の人間に対する復讐

福島県大方郡、大方温泉旅館。

霊障解決人・伊田裕美は、数日間にわたる地元の怪奇現象の取材を終え、ようやく一息ついていた。

旅館の一室で、まとめたレポートを編集長・伝兵衛に送信する直前。あとはメールを送れば任務完了だ。

この旅館の女将、大方正恵とは不思議と気が合った。三十代半ば、凛とした美しさと包容力を兼ね備えた女性。

「よかったら、うちの湯、いっしょにどうですか?」

そんな誘いに、裕美は素直に頷いていた。

湯煙の中、二人は並んで湯船に浸かっていた。

そのとき、裕美の背中に刻まれた梵字が、湯の熱で赤みを帯び、くっきりと浮かび上がった。

観音を表すその文字に、正恵は思わず息を呑んだ。

「……それ、観音様の……?」

「ええ。ちょっとした、護符みたいなものよ」

裕美は微笑みながら答えたが、正恵の瞳には、ただの興味以上のものが宿っていた。

夕食は、女将が用意してくれた海の幸の膳。

「早めに召し上がってくださいな。駅まで送りますから」

その言葉に、裕美は少しだけ胸が熱くなった。

別れ際、正恵は静かに言った。

「また、来てくださいね。怪異がなくても、ね」

裕美は笑って頷いた。

駅へ向かう途中、スマートフォンが鳴った。

編集長・伝兵衛からだった。

「東京で男ばかりが不審死を遂げている。戻り次第、調査にかかれ」

「……人使いが荒いわね」

裕美は苦笑しながら、次なる戦場へ思いを馳せた。

湯煙の余韻は、すでに遠くなっていた。

東京では、不可解な怪死事件が立て続けに発生していた。

被害者はいずれも40代以上の男性。年齢以外に共通点はなく、住まいも職業もバラバラだった。

そのうちの一件――池袋の路地裏で起きた惨劇。

床屋帰りの片倉和人は、整えた髪を気にしながら、行きつけの風俗店へ向かっていた。

繁華街から少し外れた裏通り。ネオンの残光が薄暗い舗道に滲む中、片倉は首筋に生ぬるい風を感じた。

振り返ると、白いもやの中から禿頭だけが突き出ていた。

その顔は、どこか笹野高史に似ていたが、表情は憎悪に満ちていた。

「ふふふ……俺は人間が憎い。皆殺しだ。まずは髪を黒く染めている奴からだ」

片倉は腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。

「違う!違う!染めてなんかいない!」

――それは嘘だった。

次の瞬間、禿鬼の熊のような掌が振り下ろされ、鋭い指先が片倉の喉を裂いた。

血飛沫が舞い、彼のメガネは地面に転がり、レンズに赤い液体がべったりとこびりついた。

このような怪死事件がすでに三件。

被害者はすべて40代以上の男性。蛭田一族とは無関係で、共通点も見つからない。

しかし、SNSでは憶測と恐怖が渦巻いていた。


●SNSより抜粋された三件の投稿

1. @urban_ghosthunter

「池袋の路地裏でまた男が殺されたって。しかも喉を裂かれてたとか…犯人は誰?都市伝説じゃないの?」

2. @tokyo_mystery_watch

「40代以上の男性ばかり狙われてるの、偶然じゃないよね。何か基準があるはず…でも警察は沈黙」

3. @middleaged_survivor

「最近の事件、全部40代以上の男だって聞いてゾッとした。俺も夜道は避けるようにしてる」

この都市の闇は、静かに、しかし確実に広がっていた。

そして裕美は、まだその“基準”に気づいていなかった。

だが、やがて彼女の推理が、禿鬼の選別の理由に迫っていく――。

裕美は怪奇現象専門の雑誌社で、手に入る限りの資料をかき集めていた。

千葉県で起きた社長一家惨殺事件の記録もあったが、彼女の関心は別にあった。東京で立て続けに起きた三件の不審死――それが、彼女の心を捉えて離さなかった。

こういうとき、雑誌社の裏ルートは頼りになる。通常なら閲覧できないような内部資料も、編集部の伝手で手に入る。

被害者は三人。

一人目は片倉和人、会社員。

二人目は田北義昭、公務員。

三人目は吉田ディック孝八、日系二世の英会話教師。

裕美はスターバックスの熱いラテを手に、資料の束を前に一息ついた。

「……でも、なぜこの三人が?」

そのとき、編集長の田野倉伝兵衛がふらりと現れた。

「今回の怪奇現象の記事、よかったよ。で、この不審死事件、何か“そっち”と繋がりそうかい?」

「……今のところは、まだ何とも言えません」

その夜、裕美は麻布のビックAで半額の弁当を手に入れ、急ぎ足で湯川寺へ向かっていた。

背中の観音の梵字の痣が、じくじくと疼く。

――何かが、近い。

突如、路地の奥から女の悲鳴が響いた。

裕美は反射的に駆け出す。

そこには、血まみれで倒れている初老の男。

60代ほどだろうか。すでに意識はない。

周囲には、白い靄が立ち込めていた。

「……禿鬼はげおに

裕美は息を呑み、靄の中に向かって声を放つ。

「これも、あなたの仕業ね。あの三件も、そうでしょう?」

靄の奥から、禿げ上がった頭がぬっと現れた。

「そうだよ、おねえちゃん。でもね、女には興味がないんだよ」

禿鬼は甲高い笑い声を残し、靄とともに消えた。

裕美はその場に立ち尽くした。

「……女には興味がない?つまり、男だけを……」

彼女はすぐに警察と救急に連絡を入れ、静かにその場を後にした。

裕美は足早に湯川寺へ向かった。

背中の痣がまだ微かに疼いている。

「おかえり」

玄関先で蔵六が笑顔で迎えた。

「蔵六さんの分もあるわよ」

裕美はビニール袋を掲げて見せた。中にはビッグAの半額弁当が二つ。

二人は寺の一室――通称「半額弁当の間」へ。ちゃぶ台を囲み、湯気の立つ豆腐汁を添えて、ささやかな晩餐が始まった。

「今日、禿鬼を見たの」

弁当のフタを開けながら、裕美は静かに語り出す。

司馬徽水鏡先生のこと、そして白い靄の中に現れた禿鬼の姿。

蔵六は箸を止め、目を細めた。

「それで。本堂に銅鏡が一枚、ぽつんと置かれていたんだ。てっきり裕美が置いたのかと思ってたが……あれが“たむなら鏡”かもしれん」

「えっ、私、そんなの知らない……きっとそうよ。たむならの鏡」

二人はしばし黙って弁当を口に運ぶ。豆腐汁の湯気が、部屋の空気をやわらかく包む。

「でもね、不思議なの。三人の被害者、共通点がまるでないのよ」

裕美は編集部から入手した三人の写真をテーブルに並べた。

蔵六はじっと見つめ、やがて指をさした。

「この人、髪を染めてるね。生え際が白い」

裕美も写真に目を凝らす。

「……ほんとだ。他の二人も、髪が薄いのに黒々としてる。これ、全員染めてるわ」

ふたりの視線が交差する。

「黒く髪を染めている男だけが、狙われている……」

「そして、襲っているのは――禿頭の邪霊」

裕美はすぐにスマホを取り出し、SNSに投稿を始めた。

その投稿は瞬く間に拡散された。

SNS上の拡散された三つの警告

• 髪の毛を黒く染めてはいけない。命をとられるぞ!

• 女も危ないぞ!

• 邪霊の正体は禿鬼!

そのとき、蔵六が押し入れから一枚のウェットスーツを取り出してきた。

胸元には梵字が縫い込まれている。

「裕美、これは梵字が書かれたスーツだ。お前の体を守ってくれる。……わしが行くなと言っても、禿鬼と対決するのだろう?」

裕美は黙って頷いた。

その目には、決意の光が宿っていた。


第五章:裕美対禿鬼

もちろん、以下に小説風にリライトした第五章①をお届けします。語りのリズムと情景描写を加え、登場人物の感情がより立体的に伝わるよう工夫しました。


第五章:霊障事件解決人・伊田裕美対禿鬼

夜の湯川寺は、静寂の中に微かな風の音が混じっていた。月明かりが瓦屋根を淡く照らし、境内の影を長く伸ばしている。

「蔵六さん、明日、髪を真っ黒に染めてきてほしいの」

裕美の声は、どこか冗談めいていたが、その瞳は真剣だった。

「えっ、わしは五ミリじゃぞ。染められるかどうか……」

「大丈夫よ。信じて」

蔵六が返事に詰まったその瞬間、何かが閃いたように手を打った。

「そうか……禿鬼をおびき出すつもりじゃな」

裕美は黙って頷いた。

翌日、東京の床屋の最終枠に滑り込んだ蔵六は、黒々と染め上げた頭で店を出た。夜風が冷たく、彼の額に染料の匂いが残っていた。

「囮じゃからな。すぐ帰ったら意味がない。少し散歩でもするか……ついでに半額弁当でも買って帰ろうかの」

だがその夜、禿鬼は現れなかった。

翌日も、蔵六は再び染めに出かけた。店員に呆れられながらも、彼は黙々と黒を重ねた。

「馬鹿だよな、二日連続で染めるなんて……」

三日目も、彼は囮として町を歩いた。半額弁当を頬張りながら、裕美がぽつりと呟いた。

「どうして、来ないのかな……」

「だから、わしは嫌だったんじゃ」

蔵六の声には、疲れと諦めが滲んでいた。

その頃、東京のあちらこちらでは、禿鬼による被害が密かに続いていた。蔵六の囮作戦は、禿鬼の動きを止めるには至っていなかった。

裕美は彼の横顔を見つめながら、何かを思いついたように微笑んだ。

「そうね……蔵六さんじゃ、髪がそこそこあって白髪が目立つ。そうか、いい人がいるわ」

翌朝、裕美は編集部に向かい、田野倉伝兵衛の前に立った。

「お願い、編集長。あなたにしか頼めないの」

「俺は死にたくない!そんなの、冗談じゃない!」

椅子にしがみつく伝兵衛の顔は青ざめていた。

「大丈夫。あたしが必ず守るから」

その言葉に、伝兵衛はしばらく沈黙した。ふと、彼の視線が裕美の耳元に向かう。

「そういえば……裕美、今までピアスなんてしてなかったよな。勾玉のピアスとは、珍しい」

「……ああ」

「勾玉にはな、伝説がある。会いたい人に会えるって言い伝えがあるんだ」

その瞬間、裕美の瞳がキラリと光った。

「そうか……司馬徽こと水鏡先生が、あたしにこの“たむなら”の勾玉を授けてくれた。あたしが、その力を知らなかっただけなんだ」

月の光が、勾玉に反射して小さな虹を描いた。


深夜、裕美は湯川寺の駐車場へと足を向けた。

境内の奥にあるその広場は、夜間は誰も使わず、周囲に民家もない。

――ここなら、万が一のことがあっても誰にも迷惑がかからない。

裕美はそう判断していた。

「おーい、裕美!」

本堂の方から声が飛ぶ。振り返ると、蔵六が手を振っていた。

「梵字のウェットスーツを着ていけ!忘れてはならんぞ!」

裕美は無言で頷き、本堂の奥へと戻る。

そこには、黒地に金の梵字が浮かぶ特製のウェットスーツが用意されていた。彼女は静かに衣を脱ぎ、月明かりの差し込む畳の上で身を包む。しなやかな肢体にぴたりと沿うスーツは、戦うための装束でありながら、どこか神秘的な艶を帯びていた。髪を結い直し、耳元の勾玉がわずかに揺れる。

裕美は駐車場の中央に立ち、夜空を仰いだ。

「たむならの勾玉よ……お願い。禿鬼を、この場に引き寄せて」

その祈りに応えるように、両耳の勾玉が淡く光を放つ。湯川寺の闇は深く、灯ひとつないその空間に、白いもやが静かに立ちこめていく。

やがて、もやの中心に、禿鬼の顔が浮かび上がった。

「また逢えたね、おねえちゃん。何かようかい?」

「あなたには、地獄に戻ってもらうわ」

裕美が静かに言葉を発すると、右手にたむならの剣が現れた。銀に輝く刃が、夜気を裂く。

禿鬼は一瞬目を見開いたが、すぐに口角を吊り上げた。

「それじゃ、こちらも本気でいこうか。地獄伝来、禿一族の秘宝――ハゲルワの三叉槍!」

禿鬼の手に現れた三叉槍が、赤黒い光を放つ。

「容赦はしないよ」

次の瞬間、二人は激突した。

剣と槍が火花を散らし、駐車場のアスファルトを砕く。裕美は軽やかに跳び、禿鬼の突きをかわしながら斬り込む。禿鬼は笑いながら槍を振るい、地面を抉る。互いの技と気迫がぶつかり合い、夜の空気が震えた。

だが、禿鬼の力は凄まじかった。裕美は押し倒され、地面に背を打ちつける。禿鬼がその上に覆いかぶさり、牙を剥いて喉元に迫る。

「終わりだよ、おねえちゃん……」

そのときだった。裕美の耳元の勾玉が、眩い光を放った。

「ぐあああああっ!」

禿鬼は苦悶の声を上げ、裕美の身体から離れた。

裕美はすかさず跳び上がり、空中で身をひるがえすと、たむならの剣を振り下ろした。

刃は正確に、禿鬼の眉間を割った。

この世のものとは思えぬ絶叫が、夜空を裂いた。

だが、それでも禿鬼は消えなかった。苦しみ、もがきながらも、その身体はなおも動こうとしていた。執念が、怨念が、彼をこの世に繋ぎ止めていた。

裕美は静かに立ち上がり、胸の前で両手を交差させる。

「……裕美ビーム」

その言葉とともに、十字の構えから光が放たれた。純白の閃光が一直線に禿鬼を貫き、炸裂する。

禿鬼の身体は四つに裂け、夜空に飛び散った。

静寂が戻った。

数日後。雑誌社の近くのスターバックス。

裕美は窓際の席で、ラテを手に微笑んでいた。

「事件を解決した後のスタバのラテは……格別ね」

カップの縁から立ちのぼる湯気が、どこか祝福のように揺れていた。

(完)

これまで伊田裕美を主人公に、霊能探偵編、霊能戦士編、そして官能要素を含む作品も手がけてきましたが、今回は原点に立ち返り、物語を再構築しました。官能的な描写は排し、正義と邪霊の対峙を軸に、日本人の心に迫る恐怖とその解決を描いています。

本作では、裕美が霊障事件解決人として目覚める過程を丁寧に描いたため、やや長めの構成となりました。次回作ではこの導入部分を省略し、よりテンポよく物語を展開できる見込みです。引き続き、伊田裕美の活躍にご期待ください。

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