とある四国山地のダムについて
四国の山々は、午後の光をやわらかく返していた。
国道から外れ、細い山道を登りつめると、木立の切れ間の向こうに、唐突に湖が開けた。谷をせき止めた巨大なコンクリートの曲線。その向こう側、山襞の皺という皺に光がたまり、薄いブルーの水面も水腹で陽の光をキラキラと反射し、風の筋で細かく縫い目を作ってはほどいている。観光案内の看板も売店もない。それはそうだ。なぜなら。
この地はネットで知った穴場中の穴場だったのだから。
「きれい……」
助手席の湘子が、息を吐くみたいに言った。
「だろ? 人がいないのがいちばんの贅沢だよ」
車を肩の広いところに停め、歩いて堤体の端に出る。湖は低い雲のようにどっしりと静まり返り、遠くの山稜が水に溶けて輪郭を失っていく。
柵の切れ目から土の小道が湖岸へ落ちていた。苔の生えた岩、白く乾いた流木、かすかに甘い水草の匂い。水鳥の影はなく、セミの声だけがゆっくりと往復している。
「祐介、ここ、最高」
湘子は日差しに目を細めながら、湖を背に立った。肩までの髪に風が入り、裾がふわりとはためく。
「撮るよ。もう少し右……そう、湖面を背景に」
僕はスマホを構え、角度を探した。手前に細い草をぼかして入れて、彼女の肩越しに水の縫い目。あと少し下……そう思って一歩踏み出した瞬間、つま先の土がぱさっと崩れた。
「わっ」
足が半歩、空を切る。バランスを取ろうとして上体が傾き、スマホが指からはじけた。湖面に落ちる寸前、反射的に腕を伸ばし、指先で縁をひっかける。
だが、指の先に当たったスマホが、軽く跳ね、そのまま柵の外へ。
ぽちゃん、と音は小さく、波紋はすぐに何事もなかったように薄まった。
「だいじょうぶ!?」
湘子が駆け寄る。
そのとき、僕はここに来るまでに山道で出会ったある老人の言葉を思い出していた。
その老人は、麦わら帽子を深くかぶり、杖をついて、こちらに手を降っていた。
僕は車を止めて車窓を開ける。
「どうしましたか?」
老人は、視線が合うと口を開いた。
「この先へは行ったらいけんがや」
僕と湘子は目を見合わせた。
「いや。僕たちはただ、ドライブでこの先にある古いダムに行こうと……」
「そのダムや!」
突如、老人は声を荒げた。
「よそ者は、この先のダムには行ったらいけんのや」
乾いた声。
喉の奥で僕の笑いが空回りする。
老人は再び口を開いた。
「そこの手前のキャンプ場までしか行ったらいけん!」
はあ……と僕は心の中でため息をついた。
湘子のほうを見ると不安そうな表情でこちらを伺っている。
仕方がない。とりあえずここは、やり過ごすしかないだろう。
「……わかりました。ありがとうございます」
僕はそう返し、笑ってみせる。
老人はそんな僕の目の奥を覗き込むように顔を近づけた。
そして。
「わかったなら、ええ」
そう言うと、老人はくるりと背を向けた。
僕は老人が見えなくなるまでアクセルを踏まなかった。
そんな僕に湘子が言う。
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
言って、アクセルを踏む。
「どこにでも、おかしな人はいるもんだよ」
「うん……」
湘子は納得してない風にそう俯いた。
◆ ◆ ◆
今思えば、あの老人の話は聞いておくべきだったかもしれない。
だったら、スマホを湖の中に落としてしまうなんてヘマはしなかったのに……。
◆ ◆ ◆
翌日。新しいスマホを手に入れた夜、RINEにビデオ通話の着信が入った。差出人は「非通知」。アイコンは灰色の人型。いたずらか、どこかの業者か。拒否を押す。……切れない。
そのとき、妙なバグが発生した。
画面が勝手に接続へ移行したのだ。
「誰?」
テレビを観ていた湘子が僕の側まで来て、のぞく。
映ったのは、水の色だった。
緑とも青ともつかない濁りに、小さな粒子が漂い続ける。カメラの視点は低く、地面に置かれているらしい。
見上げる角度で、直立した何かの足元――石畳か、舗装か、ざらついた面がところどころ剥げ、小石が散らばっている。その上を、白い足がゆっくり横切った。裸足、足袋、ゴム草履。動きは遅く、止まるようで止まらず、歩くのに必要な最小限の速度だけが保たれている。
そして彼らが動くたび。
まるでそこが、水の底のように水泡がぶくぶくと上がっていく……。
顔は映らない。視界の縁に、裾や手の先がかすめる。すれ違うたび、布の影が画面の上に落ち、光が弱くなる。音はない。ただ、行き交う。とめどなく。
「切って!」
湘子が肩をすくめて言った。
「何よこれ! ……気持ち悪い……」
「あ、ああ……」
終了ボタンを押す。反応はおそろしく鈍く、やっとのことで黒い画面になった。
「イタズラ……かな……?」
「え……でも水の中からっぽくなかった?」
「じゃ、故障?」
「こんな故障、あたし、聞いたことない……」
湘子の声は小さくなった。
◆ ◆ ◆
二日目。さっそく僕は上司にスマホを失くしたことを告げ、仕事の昼休みにこのスマホを購入したキャリアショップへと向かった。
だが店員はこう言うばかり。
「そんなバグ……聞いたことないですね……」
どう説明しても無駄だった。
諦めて僕は新しいスマホを購入して、遅い昼休みを終えた。
だが。
会社に戻ったその仕事中にも断続的に着信が入る。
発信者は昨晩と同じ「非通知」。アイコンは灰色の人型。
さすがに怖くなった僕は夜、意を決してRINEをアンインストールすることにした。もう一度インストールし直せばいい。
手続きが終わると、アイコンが揺れ、消える。ほっと息をついてソファにズシンと沈み込んだ。きっとなにかの間違いだったんだ。それはウイルス。今のウイルスは、巧妙なものが多いと聞く。あとで、検索して新しいウイルスの情報を調べておこう。
そう思った瞬間だった。
また着信音。
慌ててスマホの画面を見る。
思わず僕は声を上げた。
ないはずのアプリ名が通知に現れ、非通知からのビデオ通話が画面を奪ったからだ。
湘子はまだ帰ってきていない。同僚たちとの飲み会があると言っていた。
やめればいいものを、僕はまたその画面を見てしまった。
見上げる道路。切り株のように傾いた電柱の根元。そこを、やはり足が横切っていく。一本一本の指が、冷えた蝋のように青白く、爪は透けて光を返さない。
思わずスマホを手から放り出した。床に当たる鈍い音。画面は下を向いたまま、着信中の小さな振動を続ける。
ぞっとした。
何が起こっているのかわからなかった。
その後も、着信は続いた。しかも日ごとに回数が増えている。切っても切っても、無音の人々の行き交いが視界に入り込んでくる。外に出れば着信は止むのに、止んだという事実そのものが不自然で、逆に息が詰まる。部屋の湿度は確実に上がり、壁紙の継ぎ目がわずかに波打った。コップの水面には風のない皺が立ち、僕はそれを見ないふりで飲み、金属の味をごくりと飲み下した。
やがて、僕はもう見ることをやめた。鳴っても出ない。無視をする。画面を下に向けたまま放置する。それで、どうにか夜が越せる――はずだった。
七日目。夕食の後、テーブルの上でスマホが鳴った。非通知。
「やめて!」
湘子は誰に向かってでもなく叫び、両耳を抑える。
スマホの画面は上を向いていた。その視界は水に覆われる。
見上げの角度、低い地面、足。いつもと変わらない――はずの光景。なのに、画面の縁が、いつもより少し明るい。視点の上に、影が差した。白い指が画面にかかる。
拾い上げられたのだと理解するのに、数秒かかった。視点が持ち上がり、ぶれる。粒子が上へ流れ、暗かった色がわずかに薄くなる。
顔が近づいてきた。
青白い肌。頬の下に、水の重さでできた薄い皺。
目は完全に開いている。まばたきの回路そのものが取り外されたみたいに。黒目は濁りのない藍色で、光点はどこにもない。鼻孔は動かず、口は閉じている。閉じた唇の線が、笑いの形に見えるわずかな角度でねじれ、そこから水泡が立ち上った。
そしてふいに、その口角が上がった。
筋肉が動いたのではなく、顔の表面上で“笑い”という記号だけが上滑りするように位置を変える。薄い唇に、紙を裂いたみたいな緊張の線が走る。
「切って、早く!」
湘子はすでにパニック状態だ。
僕は、終了の赤いボタンを叩く。反応しない。長押し。反応しない。電源ボタン。無反応。
顔はさらに近づく。画面いっぱいに肌のきめが広がり、透けるような青白さの下で、何かがゆっくり行き来している。目は、こちらを見ている。僕と湘子の輪郭を、画面の向こう側で正確に捉え、距離と居場所を、意味のない静けさの中で測っている。
「お願い、切れて……!」
湘子の指も加わって連打する。タップ音は鳴らず、通話のインターフェースは、水面下に沈んでいくみたいにぼやける。
顔が、ふっと止まった。笑いは最大になり、そこから動かない。時間が、そこに引っかかり、回らなくなる。部屋で聞こえていた虫の声も、冷蔵庫の唸りも、全部が一瞬で遠くへ退いた。
視点が斜めに落ちた。手に持たれていたスマホが、おそらく石の上に置かれたのだ。暗い。画面の端を、足が横切る。裸足。足袋。ゴム草履。ゆっくり、ゆっくり。
そして次の瞬間。
その男が、大ナタをふるって、突然斬りつけてくる映像が映った。
「――っ!」
僕と湘子の悲鳴は重なった。僕が記憶があるのは、そこまでだ。
そこから先は、真っ赤に染まった視界と猛烈な痛みが僕を襲った。
静けさの手前に、音のない圧だけが残る。窓の外の闇は、輪郭を持たないまま真紅に染まる。
◆ ◆ ◆
数日後、ニュースアプリの速報が震えた。
〈若い男女が行方不明 県警が情報提供呼びかけ〉
社員が出社して来ないことを疑問に思った上司が、祐介の家族に相談。警察とともにドアを開けると、そこには血の海だけが広がり、人の気配はまったくなかった。
だがテレビだけはつきっぱなしだった。
その画面に、祐介と湘子が、四国の山道で出会った老人の顔が映っていた。
ドキュメンタリーのようだ。
「……昔な、あの下には村があった」
老人は静かに言った。
「水を止めるのはいけん、“首なし”さまに背くけん、て、よう騒いどった」
「“首なし”さま……?」
「あの村の神社で祀られとった守り神さまや。古ぅから、この土地を護ってくれさっとった。けんど工事は止まらん。祭りも、札も、掟も、まとめて沈んだ。沈んでもな、そいで終いというわけじゃない。人の暮らしは、簡単にはやめん。底で続いとる」
記者が、「続いている?」と反芻する。
「歩くもんは歩く。立つもんは立つ。手ぇ合わせるもんは手ぇ合わせる。息はせん。声も出さん。それでもな、慣れた道は足が覚えとる。そいで、上によそ者が現れると、ときどきその上のもんを呼ぶ。呼ぶつもりじゃなかろうが、道があるけん、通るんや」
「危険なんですか」
「危険も安全もない。あるのは昔からのやり方だけじゃ。わしらぁ、あの村から移住してきた者や。“この先のダムには行ったらいけんのや”てよう言うた。聞く耳のある者は戻る。ない者は行く。行ったら、戻らん」
言い切って、老人は視線を落とした。カメラは湖面へパンする。夕陽が斜めから差し、暗い水に長い金の糸を落としている。風は弱く、波紋は小さい。水は、美しい。どこまでも静かで、やさしく、涼しげで、ふだんの生活で乾いた部分を、たやすく癒してしまいそうな色をしている。
そして最後に老人は、カメラマンに向かってこう言った。
「あんたらも気をつけることやな。この辺では、ダム建設以来、こう言われとる」
「え……なんですか?」
再びカメラが老人を捉える。
「首は持ってくるな、視線を置いていけ……ってな」
そう言うと老人は、意味ありげに、にたりと笑ったのだった。
(おわり)