空母にもいた。異端な設計者
一九二四年、関東大震災により損傷した巡洋戦艦赤城と加賀は、空母としての再建を断念された。天城もまた、修復不能と判断された。
空母の保有枠はぽっかりと空白となり、世界初の全通甲板空母――鳳翔がただひとつ、孤影のように波間に揺れていた。
そのとき、誰よりも早く動いた男がいた。
「三段甲板? あれは茶番だ。艦載機を飛ばすのに、段数はいらん」
艦政本部造船部――技師大佐、風間蒼一。
奇人変人の多い艦艇設計者のなかでも、ひときわ異彩を放つ“異端児”である。彼の目指す空母は、赤城や加賀の改装などではなく、「最初から空母として造られた艦」であった。
「艦とは、飛行機のための“動く飛行場”にすぎん。であれば、飛行甲板はできうる限り平らで広く、そして長くあれ」
彼の構想は、当時としてはあまりにも先鋭的すぎた。
機関は巡洋艦並みの高速缶を用い、最大速力33ノット。
格納庫は上下二段、艦橋は飛行運用を阻害せぬよう右舷へ小型設置。
エレベーターは前・中央・後部の三基。
搭載機数は整備機込みで七十。
そしてなにより――全通甲板を基本として設計された、最初の正規空母。
彼の名にちなんでその艦は〈蒼惺〉と名付けられた。
条約制限ぎりぎりの二万トンで収められた新型空母である。
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一九三〇年、蒼惺は静かに竣工した。
関係者の間では嘲笑された。
「紙装甲」「機体運用だけで戦えるものか」「風間の空想図がそのまま出てきたような艦だ」
だが、蒼惺はその設計思想を証明してみせる。
演習において、鳳翔との比較では飛行機の発艦回数が二倍以上にのぼり、翔鶴型の母体となる2段格納庫運用も成功。整備デッキと作戦デッキの分離が、攻撃力と整備能力の両立を実現させた。
「飛行機を飛ばすだけじゃない。整備して、再び飛ばすまでが空母の仕事だ」
風間の語ったその思想は、後に“空母運用ドクトリン”として確立されてゆく。
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一九三一年、蒼惺の妹艦〈蒼凰〉が進水した。
そして、一九三六年。日本はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を脱退。
もはや空母建造に枷はない。だが、当局は迷っていた。
「我々は空母戦を知らない……艦隊決戦に空母が果たす役割とは?」
そのとき、蒼一れは軍令部で堂々と言い放つ。
「空母は艦隊決戦の影に控える“矢筒”だ。戦艦が矛ならば、空母は空からの矢。戦艦を支えるのが空母の役目ではない。空母こそ、戦争を決する矢先にならねばならんのです」
彼の提言により、翔鶴型、雲龍型、さらには信濃に至る空母設計の系譜が形作られていく。
全通甲板、二段格納庫、三基エレベーター。
すべては、蒼一が蒼惺型で試みた実験が原型であった。
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太平洋戦争開戦。蒼惺型はすでに旧式とされ、最前線を離れていた。
だが、真珠湾攻撃では翔鶴・瑞鶴、そして蒼惺型を基礎とする飛龍・蒼龍が主力を担い、見事な航空機運用を成功させる。
その報を、風間蒼一は古びた艦政本部の机で静かに受け取る。
「空を制するものが、海を制する時代が来た――か」
窓の外、彼が最初に描いた“空母”は、今も穏やかな湾の向こうに浮かんでいた。