Dream #07 『三つの夢』
私の向かいの少年の態度とときたら、それはひどいものでした。
彼はご両親にも看護士さんにも馬罵雑言を浴びせ放題に浴びせ、そうかと思うと今度はあらゆるものに悲観して泣き続けるのです。
どう考えても彼が情緒不安定に陥り、感情のコントロールを失っているとしか思えません。
私が手術を終えこの大部屋に移ってきた時、彼はそんな有様だったのですが、それでも向かいにきたのだから挨拶くらいはしておくべきと思い、私は杖を手に彼のベッドに向かいました。
「どうも、坂本と言います」
私が先に名乗ると、意外にも彼は言葉使いも丁寧に、優しく応対してくれました。
一瞬、別人のようにも感じましたが、むしろそれが本来の彼の姿に違いないと私には思えたのです。
少年は高橋君といいました。この病院の近くの高校に通っているそうです。
高橋君は私の事を知っていました。何を隠そう私は以前、地元のK球団に所属していたプロ野球選手なのです。三番でショート、攻守の要で長年チームを支え続けてきました。
優勝経験こそ無いのですが、タイトルを手にしたのは一度や二度ではありません。
とはいえそれも、今は昔の話。膝と腰の不調の為に実戦からは遠ざかり、ついに一昨年、戦力外通告を受け球団も解雇となってしまいました。
昨年は身請け先を探してトライアウト(実戦形式で行う各社合同入団テスト)を受けたものの、お呼びの声は一切なし。
今年に至っては膝と腰の具合がさらに悪化して、実生活にも支障をきたすような状況です。
何とか復帰を目指そうと手術をし、この病室で回復を待っているところなのですが……。
高橋君は父親の影響で野球が大好きでした。ですから向かいのベッドに私が来たのを知って、彼も両親もたいそう喜んでくれたのだそうです。
この和やかな雰囲気に乗じて、私は彼を情緒不安定にさせる原因について訊ねてみることにしました。
嫌な顔を見せるのではないかと心配はもちろんありました。しかし彼は意外にもまったく戸惑うこともなく、蒲団に隠していた左腕を抜き出して私に見せてくれたのです。
包帯でぐるぐる巻きにされたその腕は、肘から先が完全に失われていました。バイクの事故によるものだそうです。
そして彼は私にゆっくり噛みしめるように一言だけ語りました。
「僕はマジシャンになりたかったんです」
その言葉の持つ意味が、彼にとってどれほど大きなものなのかは、私にもすぐにわかりました。
片手ではカードをシャッフルする事もコインを右手から左手に移動させることもできません。明確に抱いていた夢を失ってしまった絶望感が彼を苦しめていたのです。
私は掛ける言葉を失ってしまいました。
『若者よ、夢を持て。そしてそれに向かって突き進め。叶わぬ夢はないんだ』
夢を売るのを商売にしていた私がこれまでに何度も口にした言葉です。
しかし、それを口にすることが時に人を傷つけかねない場合があるということを今初めて知りました。
そういえば、今の私にとっても、それは空虚な言葉としか感じられません。
確かに一度は栄光をこの手に掴みました。しかし、それを手放してしまった現在、私は一体どうすればよいというのでしょう。
最近では、夢に破れた、あるいは夢を見つけられない者は、人間であるための基本的要件を満たしていなのではないかと考えてしまうことさえあるのです。
私自身、球界への復帰を目指すと公言してはいました。けれども、実際には無理だろうなという割合が、今では心の中の大半を占めるまでになっていたのです。
私は彼にそのことを正直に話すと、「夢を失って辛いのは、僕だけじゃないんですよね」と言ったままうつむき涙を流したのでした。
ただ、その時を境に彼の中で何かが変わったのでしょう。以前の優しさを取り戻し、自分なりに何かを考えるようになったみたいだと、後に母親が嬉しそうに私に聞かせてくれたのでした。
それから数日後の事です。ベッドを離れ日の当たる休憩室で彼と二人話している時、覚えのある顔が自販機でジュースを買っているのを私は見つけました。
「大沢さんじゃないですか?」
私が声を掛けると反応は即座に返ってきました。
「あ、坂本君、久しぶりだね。どうしたん……あ、手術を受けたのか」
彼はゴシップ記事をメインの仕事にしているフリーのライターです。私の結婚を彼が記事に書いた時からの付き合いでした。
しばらくお互いの近況を報告しあった後、私は隣にいた高橋君を彼にも紹介しました。
今考えれば、この時の三人の出会いが、すべての歯車が噛み合い回り始めた瞬間だったように思います。
彼は高橋君の腕に目をやりました。
「バイクによる事故だそうです」
高橋君に代わって私が答えました。
「そう、お気の毒に。でも、失ったことばかり考えているのも辛いだろ。それくらいなら……」
いきなり何を言い出すのかと心配していましたが、僕も高橋君も次の彼の言葉を聞いて、目から鱗が落ちるような衝撃を受けたのです。
「右手一本でやったら、みんなにスゲーって言われるような事に挑戦したらどうだい。たとえば楽器をやるとか、マジックをやるとか」
「マジック!?」
「二人ともマジックに食いついたね。だって目の前で、片手だけでカードマジックとかされたらスゲーと思うだろ?」
高橋君は深く頷きました。
「片手だけのピアニストとかマジシャンっていうのは実際にいるんだぜ。友人に誘われて行ったマジックバーで、片手だけでカードをシャッフルしているマジシャンを俺自身見たことがあるんだ」
「どうやっていたんですか?」
高橋君が問題ない方の手を差し出しながら聞きました。
「片手でカードを持ったまま、指だけで半分に分けて、それを交互に組み合わせるような感じで混ぜていたよ」
大沢さんは何も無い手に、あたかもカードを掴んでいるかのようにして動かしてみせました。
「何でそんなことができるんだって聞いてみたんだ。そしたら片手のマジシャンは世界に何人かいて、その動きを真似したんだと言ってたよ。何ならもう少し詳しく聞いてみてあげようか?」
「お願いします」
その時にはもう高橋君のハートに火が付き始めているのを、大沢さんも私もはっきり感じていたのです。
それから二日後には、大沢さんはマジックのレクチャーDVDを持って病室にやって来ました。
「四枚組、一万六千円だ」
それは片腕のマジシャンが自分のショーや心構え、それにすべてのテクニックを収録した渾身の一作でした。
「いきなりその金額を、高校生に払えというのはどうでしょう?」
私が意見しようとすると彼は指で私を制しました。
「心配するな。今回は取材の一環として経費で落とせそうなんだ。もしだめなら自腹だが、そうならないように祈っててくれ」
そう言いながら大沢さんは高橋君にDVDを渡しました。そして今度は私の方を振り返って言いました。
「坂本君、君もだ。現役復帰にばかりこだわらないで、コーチを目指したらどうだ? あるいは、勉強をしてトレーナーの資格を取るすとか」
「トレーナーですか」
「アメリカでは、プレー中の事故で半身不随となった元選手がトレーナーやコーチに転身した、なんて話はよく耳にするぞ」
「半身不随でですか」
「居酒屋とか現場仕事で新しい自分を探すのもいいが、世間には、お笑い芸人から大学を目指して知事にまでなった輩までいるんだぜ」
この時、私にもまだ実現していない夢があったことを思い出しました。
(優勝)
「大沢さんにも夢があるんですか?」
「もちろんだとも、まさか俺がフリーのゴシップライターで終わると思うなよ。最近、いろんな記事を書くようになって、いつしか心に思うような夢ができたんだ。今はそのために資金を稼ぐってところかな」
そう言い残して大沢さんは帰って行きました。
大沢さんを見送った後、ベッドには早速ポータブル・プレイヤーでDVDを再生している高橋君の姿がありました。
私が見せてもらえたのは、トリックではなく実演の部分だけでしたが、片手だけのマジック、それは今まで味わったことのない感動のオンパレードです。
初めて見る優雅な指の動きと、トリックに対する純粋な驚き。一枚目が終了した段階で、高橋君の心はすでに決まっていたようです。彼の目は、初めて会った時のそれとはまるで別人の輝きを放っていたのでした。
その希望に輝く瞳を見た私は、生活の全てが野球で満たされていた学生時代を思い出さずにはられませんでした。
思い立ったが吉日。私は妻に電話し、その日のうちに大学入試のための問題集を病室、まで持って来させたのでした。
夢の実現には他人の協力が欠かせないことが多いのです。
それはなにも応援してくれる仲間だけではなりません。多くの人の支えや協力があって、自分は夢に向かって進むことができるのだという状況を心から理解する必要があります。
一流と言われる世界に留まり続けている人達のコメントは、どれも周囲に対する感謝に満ち溢れたものばかり。多くの人に支え無しには、一流としての能力を保ち続けることなどできないのですから。
ワガママしか言わない人でも支えてあげたい、そんなことを思える人は滅多にいないと考えればわかりやすいでしょう。
施設の維持管理する人、道具を作ってくれている人、大会を運営する人など、実は自分とは直接関係のないところでも、たくさんの支えがあるのです。
ただ、何よりもまず自分の努力が必要なことは忘れないで下さい。
あの出会いから十年。
私たち三人は、奇跡的な出会いによってそれぞれの夢を見つけ、励ましあって幸いにもそれを実現することができました。
私がこの店を訪れるのは一年ぶりになります。役場前という立地の良さもあって結構繁盛しているとのことでした。昼時はランチメニューを中心とした軽食喫茶、夜は生演奏が流れるバーになるのだそうです。
午後四時をまわった今、店内には私を除き一席埋まっているのみです。店の奥にはステージがあり、そこにはドラムセットとピアノが置いてありました。
いつものように私がカウンター席に座ると、その対面で迎えてくれたのは店長の大沢さんです。
「実は最近、この店の下に防音スタジオも作ったんだ。夕方は中高生、夜はおっさん連中の格好の練習場さ」
この店には大沢さんの夢が詰まっているのです。
「将来、この店から世界に羽ばたいて行ってくれるような連中を育てるのが、俺の本当の夢だったんだ。そういう意味じゃまだ始まったばかりだな。羽ばたいて行くのは何年先のことになるやら……」
カウンターの向こうにはもう一人、高橋君が姿を現しました。
「坂本さん、優勝おめでとうございます。今日は店長の奢りだそうですよ」
大沢さんは笑いながら黙って頷きました。
実はこのカウンターには特別な一角が設けられているのです。それは高橋君のためのマジック専用スペース。
彼もいつかはこの店から世界へ羽ばたいて行くのでしょうか。
「それじゃあ、今日はお祝いも兼ねて特別なマジックを御覧に入れましょう。どうぞ、この中から一枚、カードを選んで下さいませんか」
おわり