Dream #02 『錆(さび)』
それは現地調査の全日程一年四ヶ月のうち、三ヶ月が過ぎた頃のことでした。
私たち調査隊のメンバーは、それぞれの専門分野で実績を残す研究者たちです。
しかも、単なる研究者にはとどまりません。この壮大な計画のために特殊な訓練も積んできたスペシャリストでもあるのです。
ここは火星。
人類が初めて足を踏み入れたこの地にあって、次々に起る予想外のトラブルに対処するのは並大抵のことでなく、予定されていたミッションはかなり遅れています。
目が回りそうなほど忙しい状態が続く中で、一日にいくつも降り注ぐ大小様々な難題は、私たちを多少のことでは動揺させないようになっていました。
ですから、その日の通信機が異常をきたしたことついても、始めはそれほど深く考えていなかったのです。
「……おかしいな」
「どうした?」
「隊長、それが通信機の主電源が入らないんですよ」
「主電源が入らないって、誰か切ったりしたのか?」
「まさか、それはないでしょう」
公転軌道の関係で、この時期火星から地球までは、光の速度でも十分程度かかります。返信が届くにはもちろん倍の時間が必要となりますから、まともな会話などできません。
通信はもっぱら一方的な報告や確認のみ。地球からは次に行うべきミッションの確認や新たな指令が、機械的に送られて来だけです。
一方、火星からは基地の安全な運用と隊員の健康管理のために、各種データが一定時間ごとに送られることになっています。自分たちの命にも係わる通信機の電源を、意図的に切ることなどありえません。
「何かの異常を感じて自動的にシステムが落ちたんじゃないか?」
「でも、起動しないというのはやっぱりおかしいです。機械自体に問題があるのかなぁ」
そう言いながら、隊員の一人が通信機を手前に引き出し、機械背面から締め付けられているボルトを緩めました。
後は外板を上に引き上げれば、すぐに内部が露出するようになっているのですが、どういうわけか力を入れても外れません。
何とか力づくでこじ開けた外板の隙間から中を覗いた一同は、一斉に驚愕の声を上げたのでした。
「うわっ!」
「何だ、これは!?」
見えたのは錆に覆われた電子基盤でした。誰が見ても、この状態で回路がまともに機能するはずがないということはすぐにわかります。
「何で……、何でこんなに錆だらけなんでしょう?」
「バカな……」
「隊長、見て下さい。鉄だけじゃなくて、銅やステンレスまで劣化しているじゃないですか。おまけにナイロンコードや、ほら、ウレタン素材まで……」
呆然と見つめたまま、頭の中で原因を探っていた二人でしたが、その原因にたどり着くより先に、もっと恐ろしい事態がすでに起っている可能性について、同時にまったく同じ考えが浮かんできました。
「まさか!?」
言葉にするより先に、二人はその他の機器のパネルを剥がしにかかっていました。
「おいっ、誰か手伝ってくれ! 今すぐ生命維持に関する機械をチェックするんだ。酸素、浄水、空調、とにかくパネルをひっぺ返して機械内部を大急ぎで調べてくれっ」
「何事ですか?」
今度は何のトラブルかと集まって来た残りの隊員たちは、私たちの剣幕に戸惑っているようです。
「錆だ、錆。機械が錆びてないか、死にたくなければ大急ぎでチェックするんだ!」
三ヶ月前にそれぞれが手分けして設置した機械を引き出し、その外板を外し始めました。その直後、部屋中に驚きの声が溢れかえったのです。
「何なんですかこれはっ!」
「どうしてこんなことに……」
驚く隊員たちに対して、一足先に落ち着きを取り戻していた隊長は、皆の動揺を押さえ、冷静になって原因を考えるように求めました。
「錆は物質が酸化する化学変化です。基地の外にはない酸素がここにはあります。酸化に必要な環境が整っているわけです」
「それにしてもペースが速すぎる。単なる錆ならわずか三ヶ月でここまで広がるはずがない」
「確かに……」
これらを設置した三ヶ月前には、もちろん錆などありませんでした。道具や機械類の外板には、どれも錆びない素材が使われているため、内部の状況など外からはまったくわからなかったのです。
「だが、ナイロンやウレタンまで劣化しているというのはおかしすぎる」
「時間の経過がここだけ異様に早いか……」
「まさか」
「あるいは……」
「あるいは?」
「腐食性のバクテリアによるものとか……」
「!!」
その瞬間全員の頭の中に、この度の調査における最大の発見を思い浮かべました。
それは今からひと月前、ボーリング調査を実施した時のこと。地下三十メートル付近の水をわずかに含んだ層から、少なくとも十種類の生きたバクテリアを発見したのです。
地球外における初めての生命体の発見に、調査隊も地球の人々も大いに興奮したのでした。
「でも、誰も実験室からバクテリアを持ち出したりはしていませんよ。そもそも、クリーンルームを通らなければ行き来はできないんですから」
「それはわかっている。だが、まずは確認することが先決だ。急いでこの基盤にバクテリアが付いていないか、二人、調べてきてくれないか」
わかりました、という返事を残し、生物学を専門とする二人が更衣室に入って行きました。
耐菌性防護服に着替え、そこからクリーンルームを通って実験室へと向かうのです。その間にこちらの居住区では、今後の対策について検討が進められます。
「生命維持に関する機器がどれだけ持つのかわからない状況で、いつまでもここにとどまっているわけにはいきません」
「錆はさらに広がるに違いありません。この基地を放棄するのはやむを得ないでしょう」
「それに連絡船まで戻れば、とりあえず通信機は使えますしね」
連絡船というのは、地球と火星を行き来するための惑星間連絡船のことです。現在は無人で火星の衛星軌道を回っています。
「でも、現在の火星の位置では、帰還するには、地球との位置関係が良いとはとても言えません」
「帰還には来た時の倍の時間がかかるかもしれんな」
地球を離れ火星にたどり着くまでの退屈な十ヶ月を思い出して、皆すでに憂鬱な思いを抱き始めています。
「ここにいられるのも、おそらく時間の問題だ」
それぞれが急いでこれまでの研究資料をまとめに取りかかっていると、やがて実験室から連絡が入りました。やけにガリ音の多い有線のスピーカー越しに、実験室からの声が届きます。
〔隊長、錆の中に見つけました。ボーリングの際に発見したあのバクテリアと同じものです〕
「こちらのモニターに映せるか?」
〔駄目です。実験室の方が錆はひどいようです。モニターどころか、今も顕微鏡の接眼レンズを直接覗いて確認しているくらいですから〕
「しばらく基地外での作業が続いていたからな。こんなことになっているなんて誰も気が付かなかったんだ」
「それで? バクテリアの仕業で間違いないんだな」
〔はい、しかも一種類ではなく複数のバクテリアが、相互に作用しながら腐食のスピードを高めているんじゃないでしょうか。この星の地表は酸化鉄による真っ赤な土壌ですが、すべてはこいつらの仕業ですよ、きっと〕
「わかった。とりあえず、すべてのバクテリアのサンプルを、外に漏れ出さないように厳重に梱包した上で、生きたまま持ち帰れるように整えてくれ」
〔やはり持ち帰るんですか〕
「もちろんだ。我々が観光で来ているわけじゃないのは、みんな承知しているだろう? これは我々の最大にして唯一の発見なんだ」
「持ち帰ればそれなりに賞賛を受けるでしょうが、場合によっては災いをもたらした者として、我々は大いに非難されることになるかもしれませんよ」
「しかし、持ち帰えってこのバクテリアの正体を突き止めない限り、火星は禁忌の星として人類が二度と足を踏み入れることはできなくなるだろう」
〔いずれにせよ、これほど増殖能力の高い菌です。万が一連絡船内部が錆に覆われることになれば、今度は間違いなく我々の命はありません〕
「クリーンルームをもすり抜けてきた菌だ、その可能性は否定できまい。どこかに付着して連絡船に忍び込まれる危険がないとは言えないし、あるいは何種類かがすでに我々の体内に入っているかもしれないぞ。疑心暗鬼に怯えるのなら、サンプルを持ち帰っても帰らなくても同じじゃないか?」
しばらく喧々諤々続いた後、いくつかの鉱石や気象データとともに、バクテリアのサンプルを持ち帰ることが総意で決まりました。
そして、自分たちの未来と同時に地球の将来に対する不安をも抱えたまま、私たちは火星を後にしたのです。
連絡船で地球にたどり着くまでには一年半かかる計算です。旅立つ前に徹底的な除菌を行ったとはいえ、なお不安は拭えません。
最初のひと月、ふた月、船内に錆が発生してはいないか、至る所を調べずにはいられない毎日でした。
汚れや傷などわずかな変化を発見するたびに、全身が総毛立ちビクビクしている自分に気が付きます。
そして、そんな自分を客観的に見つめるのが、こんなにも苦しいことだとは、基地を発つ前には思いもよらなかったのです。
そのことが精神に異常をきたすのではないかという不安を招き、さらにそれが自分の内で不安の糧となっているのだと、また気が付くのでした。
そんな不安のスパイラルが頂点に達しようとした時、ついに見つけてしまったのです。
そう、とあるコンソールパネルの奥に小さな「錆」が発生しているのを。
こっ、これは……。
錆はバクテリアによるものでした。意外だったのは、もはやどうしようもないと悟った私たちに、恐れていた錯乱などまったくなかったことです。
悲しくないわけでもありませんが、それは今まで想像していた感情とはまた異なるものでした。
ただ誰もが奇跡を信じ、一方で冷静に現実を見つめながら、連絡船が機能不全に陥らないよう、ひたすら錆の増殖を抑えることに徹して過ごしたのです。
それからさらに一年、肉眼でも地球が球形に見え始める頃には、連絡船の居住区で錆を見ない場所などどこにもなくなっていました。
錆を発見した頃には着用していた防護服も、今では誰も身に着けてはいません。
それでも体の不調を訴える者はいませんでした。生命維持に関する機器類は除菌の努力もあってなんとか動いていますが、いつ機能停止に陥ってもおかしくありません。
命の保証などない状態が延々続く中で、私たちはこのバクテリアを決して地球に持ち込んではならないと考えるようになっていました。
好奇心だけで触れてはならない物があるとしたら、このバクテリアです。
このバクテリアを人類がコントロールすることなど不可能だと、この船内を見渡せば誰であってもそう感じるに違いありません。
そして、ようやく地球まで残り一週間というところまでたどり着いた頃のことです。
モニターに映った私たちの姿を見ていた地球側の司令部の職員が、ある異変に気が付いたのでした。
『君たち、出発の時より若くなったんじゃないか?』
「そうですか?」
『間違いない、出発前の写真と比べても五歳以上若返っているようだ』
隊員同士あらためてお互いの顔を見合わせると、確かに若くなっているような気がします。
「こちらでは特に何かを心がけているわけではないんですが」
『ひょっとして、体内に入ったバクテリアが作り出している酵素のせいじゃないか?』
「まさか!」
地球に近づくにつれ、司令部との交信も増えてくるのは必然です。モニター越しに私たちを見る度に、司令部が色めき立っていくのがこちらからもわかりました。
不老……ひょっとしたら人類の夢が叶うかもしれない。
間もなくISS(国際宇宙ステーション)に到着します。
ちなみにこの連絡船が地球に降りることはありません。ISSが地球とを結ぶシャトルのプラットホームとなっているからです。
私たちを地球に迎えるためのシャトルはすでにISSに接岸していました。
司令部の興味はとっくに、私たちの生環よりバクテリアに移っているようですが、私たちはこの錆も、鉱石のサンプルも、ここから一切持ち出すつもりはなかったのでした。
おわり
この作品を書いた頃のことです。とある国の宇宙開発事業関連の社長さんが大口を叩いたりして、本当に今すぐにでも火星への有人探査が始まりそうな空気を感じたりしたものでしたが・・・。