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幻燈機  作者: stepano
3/4

(Ⅲ)


 私はこのときあの“茶瓶堂”の禿げ頭が最初に見せた嘲笑とこの女の笑い声とがまさに一致するかのような暗示を受け、瞬間的に私の秘かな賭けが確実に誰かに読み取られたような錯覚に陥った。

「そりゃあねえ親爺さん、誰だって考え事することはあるわよ」

 見知らぬ客にしては馴々しい語調ではあったがその女の声は妙にやけ酒を飲んでいる割には醒めていた。

 尖った絡みや嫌味を感じさせなかった。

「そらまあ…そうでんな」

「その電灯にさぁ何か珍しいものでも付いてりゃ別よ」

 親爺は女の言うことに頷きながら頭上にある電灯には一目もせずただ相変わらず湯気のたちのぼる鍋のなかを突っ突き廻した。私は右手のカウンターの隅に座っているその女の横顔を改めて意識しながら女の言った言葉を反芻していた。電灯が珍しければ…別か。新しい焼酎の温かい匂いをすすりつつ私はひとりで苦笑した。

「雪がね。舞い込んでくる粉雪が電灯の明かりの下で…」

 私は黙り続けていた時間からようやく抜け出すようにして初めて口を開いた。

「雪?」

 女が短くつぶやいたように見えた。

「舞ってるのがちょっと幻想的で綺麗かったもので…」

 私以外の二人が息を止めてしばらく屋台の電灯を眺めたに違いない瞬間がありやがてその沈黙はまたしてもその女の甲高い笑い声によって破られた。

 このケタケタと響く笑いは単に冗談を笑ったものではなく嘲りの笑いに似ていた。

それは私の表現した言葉と非現実的な幻想を真面目に告白するというおかしさにあったとしか思えなかった。

「親爺さん、豆腐と平てん頂戴」

 女がおでんの注文をしながら、その派手なコートを脱ぎ煙草を取り出して火をつけた。例のマフラーが狭い長椅子の端に押しやられほとんどずり落ちかけていた。

もう吹き込んでくる粉雪は屋台のなかには見えず立ちのぼる湯気と裸電球のうしろの棚に見えるラジカセが映るのみでこのとき聞えてくる演歌の流れが最初から鳴っていたことに私は気づくのだった。

「私もこぼてんと厚揚げを下さい」

 彼女につづいて私も注文し、思い出したように煙草を取り出して口にくわえた。

「それにしても本当に今夜は冷えるねぇ」

 女に笑われ、屋台の湯気と演歌の音色のなかに引き戻された今でも頭のなかは先程の雪の幻想の余韻が残っていた。煙をふかしながら笑われた夢を引きづっていた。

「寒むおまんな…」

 赤ら顔の親爺はその親しみのある眼を細めながら例のダミ声で相づちを打った。

「ただの玩具がさあ、一億円もするっていう話を信じますか?」

 私は静かにそしておもむろに切り出していた。

「一億円?」

 親爺はそのこぼうてんと厚揚げを盛った皿を湯気の向こう側から私に差出しながら口を尖らせ眼を丸くしながら叫んだ。

「昔のブリキ製のおもちゃでね。マニアの間ではそれこそ血眼になって探しているある外国の車のおもちゃらしいんだが」

「へぇー、一億円でっか」

 ダミ声が亀裂していくかのようにため息に変わった。

「たかが昔のおもちゃがですよ」

「いつごろのおもちゃでっか?」

「戦後間もない頃でしょう。あの当時はブリキ製のものばかりでしたから」

「へぇー、一億円でっか…。信じられまへんなぁ…」

 親爺は呆れたように私の顔をポカンと眺め低く唸りつづけていたが、やがてまた眼を鍋のなかに落とした。女はこの話を聞いているのか黙ったまま反応がなくただ酒を飲み煙草をふかしているふうであった。

「何がそんな一億円もするような価値がありまんのやろなあ」

「さあ分かりません…」

 私の頭のなかには自分が今追い求めている幻燈機の姿があった。私が探しているこのおもちゃも果たして私にとって一億円の価値のあるおもちゃといえるのだろうか。しかし、今の私にとっては欲と形式だけの世界からほんの一時の自分を回復させるためにはお金には換算できないくらいの価値があるように思われた。

 ラジカセの演歌が小さく流れ、外の雑踏も次第に賑やかさを増してきたように感じられた。

 どうやら本来の宵が訪れたようであった。

「馬鹿々しいわよ。血眼になってそんな昔のおもちゃを探すなんて…」

 突然、女は吐き捨てるように低い声でつぶやいた。しばらくのあいだ親爺は依然と唸りつづけたまま鍋のなかの具を仕分け、私は黙って女に返すセリフを選択しながら焼酎を飲みつづけるしかなかった。

「そんな値段だれが付けるのかしらね…一億円もあれば一生遊んで暮らせるわよ…」

「馬鹿々しい。たかが子供のおもちゃにさ」

 女のそのぼやきのなかにまさに中年の現実が読み取れるようであった。

 女の声はそのとき二人の男を沈黙させるかのように棘があり、冷淡でしかも教育ママにも似た響きがこもっていた。その響きが一瞬、屋台のなかを白けさせまるでうなだれて黙る子供のような二人の男の影を作った。湯気の向こう側に立つ親爺と黙って飲みつづける私の影であった。

 しばらくたってから慌てたように、

「そうでんなあ一億円出して昔のおもちゃを買うぐらいやったら…わてやったら…家を買いまんなあ」

 こう言って親爺の影がようやく動いたとき私は内心ほっとしていた。たかがおもちゃと言ったこの女に返す適当な言葉が見つからないままただ湯気の隙間からのぞく赤ら顔の親爺の苦笑いした表情を眺めていた。

 私はこの女に幻燈機のことを語っても到底理解されないことを確信していた。この場ではその話は黙っておくほうがいいと考えた。それは自分が今賭けている三軒の骨董品屋への期待をそのまま持ちつづけたい方策でもあり壊されたくない秘密でもあった。

「ねぇおじさん、もう一本。なんだか今夜は全然酔えないわ…」

 そう言いながらも女の口調には乱れがないようでどこか酔っている息遣いが現われていた。それはラジカセの演歌に合わせて時折ハミングする小声に現われていた。この女に分かってたまるか。私は再び静まり返った屋台で立ちのぼる湯気と裸電球を眺めながら女が唄うその酔っぱらった声に耳を傾けた。演歌を唄っているはずの女の声が奇妙に音程を外してまるでシャンソンを唄っているように聞えそれは確かに私に呼びかけていた。何になるのさ…そんなおもちゃを求めて…。

いつのまにか女の足元に長椅子からずり落ちたあのマフラーが拡がり裸電球の光に照らしだされてそのブランド名が読めるような気がした。

 “CHANEL・PARIS”。


     



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