(Ⅱ)
こうして私は遂にその“茶瓶堂”という骨董品屋で今年になって三軒目の賭けを作ったのである。どうせ出て来そうもない昔のおもちゃに異常なまでの執念を持ちつづける自分が何か究極的な本来の自分を見つけだせそうな気がしてこの魔性に取りつかれたここ数か月の生活はまるで大半はその幼い頃の視覚に残った幻想に明け暮れていた。
“茶瓶堂”の主人に名刺を渡してから一週間が経ったある小雪の散らつく夕暮れ、私は勤めを終えていつもの裏町の路地にある屋台で一杯ひっかけていた。
屋台には今夜は特に寒いせいか私の他にひとり客がいるだけでいつもの賑わいがなかった。粒のような冷たい粉雪が時折屋台の隅にある棚にまで吹き込んできて、一番上に置いてあるラジカセの側面を濡らしていた。
「寒いねぇ」
屋台の親爺は例の赤ら顔に緊張した皺を寄せながら何度もつぶやき時々、下に置いてあるストーブでその手を暖めては湯気の立ちのぼる煮物の鍋のなかを覗き込んで具を仕分けした。
果たしてあの“茶瓶堂”の主人から返事がくるのか。先の二軒は北陸の田舎でしかも旅行のついでに立ち寄って覗いた程度に過ぎなかった。だから賭けといっても念入りにその連絡を頼み込んだわけではなかった。落ち着きのない一週間を振り返りながらやはり今の私にとってはその鮮烈に残っている幼い頃の視覚の衝撃に再び出会うことが必要だった。ここ数年間の欲と形式だけの生活に完全に疲れ切っていた。
屋台の灯りが時々吹き込んでくる粉雪を寒々と照らし、手に持つ暖かい焼酎のコップの縁にその薄い光を投げ落としながら静かに揺れていた。私は黙って焼酎を飲み続け、その舞い込んでくる真っ白な塵のような氷塊を眺めていた。
その塵はやがて無数に舞う点となって幽かに湯気の合間を縫って揺れ、屋台の薄明かりを反射しながら光のプリズムとなって眼の前で旋回しつづけた。それはあたかもあの神秘的で想像的な映像を誘いだすかのように音もなく穏やかに照らしだされているのだった。
私のなかで心地よい最初の酔いが始まっていた。塵のような粉雪に映える光線を見つづけながら私は自分の瞑想のなかに次第に炙りだされようとしているあの幻燈機のまばゆいばかりの光を思い浮べていた。あのときの映像はいったい何だったのか。
「親爺さん 、お酒もう一本頂戴」
さっきから一人で飲んでいた中年の女性客の声が耳元で聞こえたとき、私の回想は遠ざかりその破られた韻律がその見慣れない彼女に対しての興味を蘇らせた。
「あいよ」
赤ら顔の親爺は一升ビンから注いだ銚子を湯気の立つ鍋に浸けながら返事をし、そのあと又無言で別の湯気の立つ鍋のなかの具を仕分けした。
女は髪を染め歳の割りには派手なコートを着ていて一見して水商売の女を想像させた。傍に無造作に脱ぎ取ったマフラーが置かれていたがそのデザインと品格の違う色合が間違いなくそれがブランド品であることの光沢を放っていた。
「今夜は徹底的に飲むわ」
女はため息を吐くようにして低くつぶやいたような気がした。
こんな小雪の散らつく寒い夕暮どきにたったひとりでしかも裏町の小さな屋台に潜り込でくる女の不気味さはそれだけで十分私にとっては興味があったが低く洩れたその言葉にはさらに不意をつかれたような小さな驚きがあった。そのつぶやき方は何か恐ろしく打算的であり厭世的であった。そのため息のなかに彼女自身の落胆と怒りが込められているようで生活に疲れた中年の嘆きが感じ取れた。“ここにも欲と形式に飽きた人間がいるのか”勝手にそんなことを考えながら一方ではさっきから思い出せずにいる彼女のそのマフラーのブランド名にこだわりつづけていた。
「寒いねぇ」
赤ら顔の親爺は出来上がった熱燗の銚子を彼女の前に置きながら静かに語りかけた。恐らくこの屋台の主人にもまるでハレものに触るかのような気遣いがあったのだろう。
「まったくついてないわよ…」
注文した酒がくると彼女は又同じことをつぶやいた。私はただ黙り続けて屋台のなかに漂う湯気を眺め、その彼女のたわごとを気にかけながら焼酎を飲みつづけるしかなかった。
それにしても今夜は何という静けさなのだろうか。屋台には私とその女だけでいつもの賑わいがなく、外からも裏町の雑踏が聞こえてこない。私は屋台に舞い込む粉雪を眺めながら再びその少年の頃のおもちゃにとりつかれながら飲みつづけ、女はただ現世を罵り、愚痴りながら飲んでいた。
いったいあの魔性とは私にとってどんな印象だったのか。十歳の私が感動した光とは何を見たのだろうか。“赤胴鈴之助”や“イガグリ君”等の当時の漫画の主人公が鮮やかに蘇ってきてその光のなかに躍動するのだが…果たしてその懐かしさだけに自分はもう一度酔おうとしているのだろうか。少年の魂に刻み込まれたこれらの映像にどんな魔性が潜んでいるというのか。第一、その映像とはいったいどんな画像だったのだろう。その衝撃が今なお私の視覚の根底にどのような残像として息づいているのだろうか。
やがて眼の前から湯気が消え、女のつぶやきが遠くに消え入ると時折舞い込んでくる粉雪が屋台の電灯のまわりで眩しく映り出されていった。そして、私は瞑想のなかに吸い込まれていきもうひとりの自分を追うのだった。十歳の私が現われ、その幻燈機から映し出される映像に見入る少年の頃の自分の姿が次第に輪郭化してくる。その眼の輝きと小躍りするような胸の熱さが同時に蘇ってきてそれは今のような欲と形式とに潰瘍化された悩みは微塵もなくただ爛漫で生き生きとしているのだった。すべてはそこに映りだされている映像に圧倒され、その光に対する興奮と興味に没頭している自分の姿であった。画像はただ眩しく光るのみでそれがどんな画であったのかよく読みとれない。
「旦那、おかわりしまひょか」
どれくらい経ったのか。突然、赤ら顔の親爺の声が聞えてきて私は我に返った。
「何か考え事でもしてはりましたんか?えらい静かで」
空になったコップを握りつづけている私が変に見えたに違いなかった。
「えっ、まあ何となく…」
酔いつぶれたわけではないことは時々来る私の顔を知っている親爺には分かっているにしてもやはり今夜の私の様子は不思議に見えたかもしれなかった。
新しい焼酎のお湯割りをつくりながら、相変わらず“寒いねぇ”を連発したあと親爺はにっこりと笑いながら再び私の顔を見て言った。
「どないしはりましてん今夜は」
いつもの親爺のダミ声がその立ちのぼる湯気に混じって温かく伝わってきた。もう屋台のなかに舞い込む粉雪の粒はどこにもなく私は酔っていたのか正気だったのかを曖昧にしながら秘かに瞑想から醒めたあとの余韻に浸るのであった。
ひとりで飲んでいた例の中年の女の独り言も今はぴたりと止んでいた。いつのまにか外の往来に人の声が聞え、いつもの裏町に漂う宵の訪れがその足音に感じ取れた。
「何やとりつかれたように電灯を見てはりましたなあ」
親爺がおかわりの焼酎を私の前に置きながら言った。この親爺の問いかけに私は一瞬躊躇しながらこの際今探している幻燈機のことをよほど喋ってしまおうかと思ったほどだった。間をおいてしばらく返事をためらっていたのだが次の瞬間、この沈黙を破る突然の笑い声が屋台のなかで起こった。
あの中年の女が笑ったのだった。