成金の母船
甲板に立てば周りには島一つ見つけることができない。海を走る巨大客船だった。それはスラム街育ちの抱いた夢とまことしやかに流行る噂、成金の母船。四六時中行われるパーティのうちに大量のドラッグが配布され、飲み交わされていた。シャンパンに溶かし、主にアッパー系が好まれている。幻覚フロアは区画を隔てそっちで楽しんでいる。
僕は甲板に立っていた。持ち場を離れたことで疲労を自覚するだけの暇が生まれ、節々が凝り固まる。従業員にヒロポンなど支給されるはずもない。戦争は終わっていた。
海に向け並べられたひとつの寝椅子に、青年が難しい本を掲げ座っていた。『大衆という近似』。難しそうな顔を装ったつまらなそうな顔をしている。多分彼は親に連れて来られたんだろう。こういったパーティを子供に対し隠しもしない親のその性格に嫌気が差しているのだろう。彼はきっと、将来金を稼げない。そういう僕と同じにおいがしていた。充満していたはずの潮のにおいに慣れるだけの期間をこの船のうえで過ごしている。するとこんな出会いにも導かれるというわけだ。すると僕は疲労の麻痺で気まぐれだった。
「何読んでるの。」
青年は表紙をみせつけるように持ち直した。ひねくれのにおい。ならば僕は素直過ぎる切り返しをしてみせる。
「いやつまり君と話したいんだ。今のはきっかけが欲しくてね。」
青年は何も答えず、いつなんどきも素直さが有利にはたらくとも限らないのだった。僕は退散するしかなかった。だいたい仕事の休憩に出ただけなのに、僕はそこまで運命狂なやつだっただろうか。過去にみた数人のアニメキャラクターが頭をよぎっていく。そのどれもが目の下にクマをつくってそれでいて可愛らしいことを、この青年は知っているのだろうか。そうだ。どうせこの難しい本の下にはラノベを仕込んでいるに違いない。荘厳な表紙もブックカバーに過ぎない。僕は完全にヒステリックだった。ヒステリックとは、感情の爆発を権利制によって制御している人種のことをいい、僕は無視を決めこまれたことで怒りを青年にぶつけることが正当化可能だった。トラップカード発動。一度もカードゲームをしたことがなかった。
「おい無視すんなよ。それ貸せ。」
青年の両手から『大衆という近似』を奪い取り、そのまま背後の大海原へ投げ飛ばした。見戻ると青年の手にはラノベなどない。彼は無言のまま船のどこかへと走って行ってしまった。悲鳴もなしだ。まったくNPCの作り込みが甘い。ゲームと現実の境界を曖昧にすることによってギリ生きていた。僕は。そろそろ持ち場に戻らなくてはいけなかった。
海の風を浴び過ぎて、パーティ会場の空気にあてられるとすぐさまに酔っぱらってしまった。ここはすべてが煌びやかだった。調度品の安っぽささえも、その煌めきを引き立たせるヤラシイ照明を当てられれば、もはや何もかもどうでもよくなっていたんだ。ステージにはシラフのミュージシャンがあがっている。とびきり人気のやつ、名前を知らない人はいなかった。この会場の誰もがあのミュージシャンを知っていて、誰もが彼を見向きもしない。ここの客のほとんどは半裸か全裸かしかいなかった。それってとてもすごいことだと思う。
僕の仕事はここで立っているだけだった。もちろん緊急のときは誘導係を担うのだろうけど、通常時はとくにない。コックもシャンパン配りも十分足りている。だから僕はただ立っている。楽に見えてけっこうきついんだ。パーティの空気に酔っぱらって足はふらふら、そのまま騒ぎだしてしまいそうな衝動を抑えるプロ根性を持っている。僕はいいバイトだった。金持ちの相手がバイト? そうだ。よく言われる通り、コンビニバイトは三ツ星ホテルの従業員に匹敵するらしい。そういうことんなんだ。ここにいる全員が、それについてよく分かっていた。金を介して分かる奴、肌でそれを分かる奴。だから貧富の差が生まれているし、それについて誰も文句はなかった。至極当然な状況だった。
この船にいるあいだ中、降りてからのことを考えている。三カ月が経てばこのパラノイアの旅も終わって、晴れて帰れるのだった。果たして僕はこの旅を終えたうえで、元居た世界に馴染めるのだろうか。そろそろ二カ月を超えて、馴染む相手がいたかどうかすらも思い出せなくなってきている。いない友人や恋人を指折りで数えてみる。第二関節から生えた爪をつまんで剥がした。痛みはない。齧るとそこから塩味を感じる。バイト一人一人に与えられた部屋は狭いとはいえ贅沢過ぎるほどのものだった。ここにずっといてもいいような気もした。しかしそれでも降りてからのことを考えるのは、僕の意識の名残が、無意識に支配されようとする今の最後のつっかかりになっているのかもしれない。僕の共感力はそういった痕跡にまで及んでいた。この高い共感力のせいでムダに苦しんだこともあったような気もして、ふと数人の顔と名前が思い浮かぶ。味わった辛さが思い出を補強していた。僕は息を吹き返すようだった。丸窓からみえる空が白んできている。その景色を邪魔するものは何もなかった。
甲板に出ると朝の風が心地よかった。昨日にあの青年が座っていた寝椅子は誰も使っていなかったが、代わりにびしょ濡れになった『大衆という近似』が置かれているのに気が付き、そして背後にした同じ青年の気配に、僕は船から放り出されると激しい着水をするまでのあいだ空中を回っていた。




