傷痕
翌日琴葉は芳子の病室を訪れる。夏らしく白地に青い朝顔の柄が入ったワンピースを着て。
「琴葉さん。」
琴葉は看護婦に話しかけられる。昨日受付で手紙を受け取ってくれた人だ。
「看護婦さん、昨日はありがとうございました。」
「琴葉さん、川島さん喜んでたよ。琴葉さんからだって言ったら満面の笑み浮かべてた。」
芳子は琴葉と出会う前は誰とも話さず、全く笑わず虚ろな目でどこか遠くを見ているようだという。1人で故郷の歌を歌ったり、急に声を上げて泣き出したり、担当の看護婦も手を焼いていたほどだった。
「だけど琴葉さんが来てから別人のように人が変わった。穏やかになったというか琴葉さんの前だと嬉しそうにしてますよ。」
看護婦はそう告げると業務に戻っていった。
部屋に入ると芳子はいつもの男物の着物に白の打ち掛けという姿で琴葉を迎えてくれた。
「よく来たね。琴葉ちゃん。昨日は琴葉ちゃんに会えなくて寂しかったよ。」
昨日は女学校の登校日だったため、芳子の元には行ってなかった。
「昨日はごめんなさい。」
「いいんだ。学校だったんだろう。それより琴葉ちゃん、それ新しいワンピース?」
芳子は琴葉のワンピースに気付く。
「はい、お姉様と買いに行ったんです。」
「可愛い。似合ってるよ。」
琴葉は顔を真っ赤に染める。
「私、お茶入れてきますね。」
琴葉はとっさに病室を出て給湯室へと向かう。
芳子とはもう1ヵ月くらい一緒に過ごしているが琴葉は甘い言葉にはまだ慣れない。
ほどなくして琴葉は麦茶を入れて病室へと戻る。
「琴葉ちゃん僕がやるよ。」
芳子が傍に来たとき、
「きゃっ!!」
琴葉は足を踏み外し転倒。麦茶を芳子の着物に溢してしまった。
「芳子様、お着物が。」
「これくらい大丈夫だ。」
芳子はテーブルの上の布巾で着物を拭こうとする。
「今着替え持ってきます。」
琴葉は寝室から替えの着物を持ってきて芳子を着替えさせようとする。
「大丈夫だ、琴葉ちゃん」
「いけません。このままじゃ風邪を引いてしまいます。」
琴葉は芳子が着てる着物を脱がせようとする。しかし
「芳子様?!」
芳子の胸元には銃で撃たれたような傷があった。
芳子はとっさに琴葉が持ってきた藤色の着物を取り急いで着る。
その時芳子の脳裏には思い出したくない過去が蘇った。17才の芳子を自殺にまで追い込むまでの忌まわしい事件を。運よく一命は取り止めた。しかし女としての過去を清算するかのように髪を切り生涯を男装で生きることを決意したのだ。
「芳子様、その傷戦地で中国人にやられたのですか?」
琴葉が発したのは予想に反した一言だった。
「ああ、反日の中国人と争ったときに」
芳子はとっさに嘘をついた。
「痛くなかったですか?どうして同じ中国人である芳子様を?芳子様は日本と中国が親しくなるために働いているのに。中国人はなぜそれを理解しようとしないのですか?」
「おいで、琴葉ちゃん。」
芳子は椅子に腰かけると琴葉を自分の膝の上に座らせる。
「傷は昔のことだからもう大丈夫。琴葉ちゃん。僕はね世の中皆琴葉ちゃんみたいな人ばかりだったらいいと思うよ。琴葉ちゃんみたいに綺麗な世界しか知らない人ばかりなら。」
芳子は真っ直ぐな眼差しで琴葉に告げる。だが琴葉にはその意味が分からなかった。
帰り際琴葉は芳子から一通の白い封筒を渡される開封口には薔薇の花びらを貼り。芳子は昨日の手紙の返事だと言ってわたした。
「琴葉ちゃんへ
お手紙ありがとう。琴葉ちゃんが来ないと寂しかった。配球の級対抗試合優勝おめでとう。
琴葉ちゃん、僕のこと級友には話しても構わないよ。僕は琴葉ちゃ以外とは会わないから。特に男の人なら絶対。僕は琴葉ちゃんだけのものだから。約束する。
昭和16年8月26日 川島芳子」