真っ黒な噂の伯爵に嫁いだ貧乏令嬢、メンタルが強すぎる
1.
「ジェーン! サムがまた鼻血出してる! ぎゃーっ! こっち来んな!」
ジェームスが涙目のサムを無慈悲に突き飛ばす。
突き飛ばされたサムは悲しくて激しく泣き出した。
「ジェーン! こっち来てよお。ジェームスが押した! 押したぁ! うわーん」
「こらーっ! あんたたち!」
子どもたちの世話をしていたジェーンは、声を張り上げた。
二人の子どもはビクッとなる。
「まず、サム。あんたの鼻血。はいハンカチ。押さえて静かにそこ座っときなさい。この量なら5分もすれば治まるわ」
ジェーンはハンカチをサムに渡した。
サムは「ありがと」も言わずにハンカチをジェーンから奪い取ると、部屋の隅っこの方に行ってちょこんと座った。ハンカチを鼻に当てて上を向く。
「下向いたままでいいよ。上向くと血が喉に垂れてくるわよ」
ジェーンが声をかける。
そしてジェーンはジェームスの方を向いた。
「んで。あんたはサムを突き飛ばしたの?」
「だって血が付くじゃん、汚いよ!」
「そりゃそうだ。むやみに他人の血に触ってはいけません。でも、だからと言って突き飛ばすことはないでしょ! サムだって悲しいでしょうが。ただでさえ鼻血で不安な時にっ!!」
「うわーん。ごめんなさい~っ」
今度はジェームスが泣き出した。
「さ、謝っていらっしゃい。そんで心から反省しなさいっ!」
ジェーンはびしっと言った。
その時不意に、
「相変わらず怒鳴り散らしているねえ……」
とジェーンの背後で声がした。
ジェーンが振り向くと、そこにはこの広大なお屋敷で家令をしているアシュレイが立っていた。
上背があり逞しい体つきをしているが、黒く長い前髪が顔を半分くらい隠しているため、どうも陰鬱な印象を与える。
「私だって怒鳴りたくないわよ」
ジェーンはむっとして答えた。
「でもこの子供たちときたら、手を煩わすことしかしない!」
「怒鳴るくらいだったら世話なんかしなくていいのに。こいつらの世話は俺が任されてるんだから」
アシュレイはぼそっと言った。
「いーや! あんたのそういうところだから。あんたの不気味さのせいで、子どもたち皆、超緊張してて少しも健全じゃなかったから」
ジェーンはアシュレイに言い返した。
「健全じゃないって……」
アシュレイが何か言い返そうとしたとき、
背後でガッシャーンっと大きな音がした。
「何!」
咄嗟にジェーンが声を上げると、別の子どもの悲鳴が聞こえてきた。
「エルが上の物取ろうとして、花瓶落とした!」
「花瓶!? あっぶな!」
ジェーンは駆け寄った。
そこにいた子どもたちをその場から引き剝がすと、エルを抱き寄せる。
「怪我は? あ! 切ってるじゃない」
エルと呼ばれた女の子は放心していて、虚ろな目でジェーンを見ている。
まわりの子どもがエルの怪我を見て泣き出した。
「誰よ、ここに花瓶置いたのは……。あっ、アシュレイか?」
ジェーンはアシュレイを睨んだ。
「この役立たず! 大人のくせに仕事増やしてくれるなよ!」
「俺は花でも摘んできて飾ったらキレイかと思って」
「はいはい、その気持ちはありがたいわね。でも、花瓶は危ないから子供の背より高いところには置かないでくれる!?」
ジェーンは半ギレになりながらアシュレイに詰め寄った。
「わ、分かったよ」
アシュレイはタジタジとなった。
「全く。旦那様の奥方がこんなにガミガミうるさいなんて」
「何か言った?」
ジェーンがキッと睨む。
「本当にどこぞのご令嬢だったんですか?」
アシュレイがため息をつきながら言った。
「く……っ」
ジェーンは言葉に詰まった。
こればっかりは、堂々と言い返せない! なにせ借金まみれの貧乏伯爵家から、金銭目的でここの旦那様に嫁がされているのだから。そう、完全な『金銭目的』!
ジェーンが口をぎゅっと結んだのを見て、周りの子どもたちが次々と囃し立てはじめた。
「ジェーンは本当にご令嬢だったんですかあ?」
「ジェーンはご令嬢、いえーい!!」
「ご令嬢だってさ、ひゃっほーいっ」
「あんたらねえっ何が楽しいの!? トビーにジャック、ビリー!」
きーっっとジェーンが怒る。
「わあい、ジェーンが怒った、怒ったぁ! やーい、ジェーンのぺちゃパイ(死語)~!」
「うわっ」
ジェーンは胸元を押さえながら、ばっとアシュレイの方を向いた。
「……聞いた?」
ジェーンは低い声でアシュレイを問い詰める。
「えっと」
アシュレイはジェーンの迫力に冷や汗が出た。
「聞いてない、聞いてない!」
アシュレイはひらひらと掌を振った。
「……」
ジェーンはふいっとあさっての方を向き、黙ってしまった。
アシュレイは少し焦った。
まさか、胸が小さいことを気にしているのか?
こんな、髪の毛振り乱して子供を追いかけている『ご令嬢』が?
「はいはい、おまえら。もうふざけんのはお終いだ。次ふざけたら手足を切り刻むぞ……」
アシュレイが子供たちの前にぬっと立ちふさがった。
ひぇっ……
子どもたちはびびって、後ろ足でこそこそとその場を離れた。
「こらっ! アシュレイ、やめんか! 脅すにしても怖いわっ!」
ジェーンはいつの間にか気を立て直しており、アシュレイの苦情を言った。
「うん? 俺、何か言った?」
アシュレイの方もジェーンが立ち直ったのに気づき、穏やかな口調に戻った。
はあ。
ジェーンはため息をついた。
アシュレイを恨めし気に眺める。
『手足を切り刻むぞ……』この言葉がだいぶ独り歩きしているのよねえ。
2.
ここは『黒い噂』で世間に恐れられているグレン・マッケンジー伯爵の屋敷。
『黒い噂』とは。
……伯爵は奴隷商人のお得意様で、幼い子供の奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいる、と近隣の村々で噂されていることだ。
もちろん本当はそんなことはない。
(冒頭の通り)
真実はというと、どうにもお優しいマッケンジー伯爵が、病気やケガで体のどこかが不自由な奴隷の子どもたちを見かけるとつい同情し買ってしまうのだという。
そして子どもたちはこの屋敷で治療を受けながら育てられている。元気になり教育も身に付けた子どもたちはやがて遠くで里親を見つけてもらい、この屋敷を離れる。
……といういい話なのだが、如何せん、マッケンジー伯爵が極度の人見知りで人前に出ないのと、家令のくせに何故か子どもたちの世話までしているアシュレイがあまりにも不気味なのと、一定期間経つと子どもたちの姿が見えなくなる(実際には遠くの里親にひきとられている)ので、近隣では不穏な噂を呼んでしまっているのだ。
ま、私もここに嫁いでくるまでは、その不穏な噂、信じていたけどね。
ジェーンは思った。
ジェーンは、実家の借金のためにここのグレン・マッケンジー伯爵に嫁いできた。今や、こう見えて『大金持ちのマッケンジー伯爵夫人』だ。
ジェーンの実家のフレッチャー伯爵家は名門だが、ここんとこ事業が失敗続きで莫大な借金を背負ってしまった。
そうして父フレッチャー伯爵は結納金目当てでジェーンの結婚相手を探し、このグレン・マッケンジー伯爵の名前が挙がったというわけだ。
ジェーンの母は父に泣いて縋った。
「あなた、考え直してください! 化け物に娘をやるつもりですか!?」
しかし、当のジェーンはわりかしメンタルが強めで、あっけらかんとしていた。
「切り刻んでるのって子供でしょ? 私、子供じゃないし、大丈夫なんじゃない?」
ドンガラガッシャーンと母からはがっつり叱られたが、ジェーンは平気だった。
父も散々迷っていたようだが、グレン・マッケンジー伯爵からの桁違いの結納金に目が眩み、結局ジェーンはグレン・マッケンジー伯爵に嫁ぐことになったのだった。
ま、で、今はこのザマよ。
子どもたちに振り回されて、どっちが奴隷だっつーの。
高額な結納金を積んでもらった割には、なぜかマッケンジー伯爵はジェーンに相手を求めないため、ジェーンはたいそう暇を持て余していた。
マッケンジー伯爵からの伝言は、『偽装結婚だから、地下室にさえ行かなければ屋敷の中で自由に暮らせばいい』とのこと。
ジェーンは「地下室に入るな? そこで子どもを切り刻んでいるのでは?」と一瞬身震いしたものの、「まあ、地下室にさえ行かなきゃ大丈夫でしょ。危険そうなら逃げればいいし。偽装結婚なのね、のんびりしよ~」とすぐに思い直した。
しかし、この偽装結婚の日々は平和に過ぎてゆき、逆に暇すぎてジェーンはあっという間に退屈してしまった。
人嫌いなマッケンジー伯爵の屋敷には使用人も最低限しかおらず、ジェーンの話し相手になるような者はほとんどいない。
唯一家令のアシュレイが伯爵からの伝言を持ってきてくれるのだが、そのアシュレイもいつも忙しいのかあまり姿を見せない。
う~ん、ちょっと、寂しいかな……。
そんなとき、ジェーンはたまたまアシュレイが『地下室』に入っていくところを見てしまった。
『地下室』!
……奴隷の子どもを切り刻んでるんだっけ。
……入っちゃいけないんだよね……?
しかしその時、ジェーンは暇すぎて相当おかしくなっていたに違いない。
なぜか「アシュレイが入っていったんだから大丈夫でしょ」と思ってしまったのだった。
「アシュレイを呼びに行くだけよ、アシュレイに用があるのよ」と自分に言い訳をしながら、怖いとはちっとも思わずに、ジェーンはその『地下室』の扉を開けた。
そして―
そこには、緊張しながらアシュレイを見上げる9人の子どもたちがいたのだった。
「本当にいたっ」
思わずジェーンは声に出していた。
「でも、……あれ?」
意外にも子どもたちは哀れな様子は少しも感じられなかった。
衣服はちっとも汚れていなかったし、穴も開いていなかった。髪の毛だってぼさぼさではなく、ちゃんと梳かして艶があった。病的に痩せた子どもは一人もいなかったし、みな血色が良かった。
そして、ジェーンを見たとき、9人の子どもたちは揃いもそろって皆パッと顔を明るくしたのだ。感情が豊かな証拠だ。
「えーっと、アシュレイの親戚のお子さん?」
とジェーンは聞いた。
それほどまでに奴隷感がなかったのだ。
「……っ!?」
アシュレイは突然の訪問者に驚いた。
それから、ジェーンが主人との約束を破って入ってきたことに、怒りの目を向けた。
……しかしアシュレイはジェーンの表情に思わず笑ってしまい、怒る気が失せてしまった。あまりにもジェーンは無邪気な顔をしていたからだ。
それで、アシュレイはこの子どもたちのことをジェーンに説明した。
子どもたちも初めての訪問者に興味津々で大興奮し、あっという間にジェーンを取り囲むと、「聞いて聞いて」と口々に自分の話をし出した。
9人分の「聞いて聞いて」はカオスだったが、ジェーンは適当に相打ちを打ったり誘導したりして、必要な情報だけを上手に聞き出した。
アシュレイは「扱いが上手いな」と少しジェーンを見直した。
ジェーンの方もこの状況に目を輝かせた。
今まで暇で、話し相手もおらず寂しかったので、子どもたちの世話でもすれば毎日楽しいんじゃないだろうかと思い立ったのだ。
ジェーンは一瞬、「地下室には行くな」とマッケンジー伯爵から言われていることを思い出した。
う~ん、やっぱりまずいかしら。
ま、でも大丈夫でしょ。そもそも『黒い噂』ってのが嘘だったんだし。アシュレイの言うことが本当なら、むしろマッケンジー伯爵はいい人じゃない!
さらっとジェーンは自分で勝手に納得すると、アシュレイに子どもの世話を手伝いたいと申し出た。
アシュレイはポカンとした。
「旦那様から近づくなと言われているだろ?」
「ん? まあ、大丈夫だと思うの。旦那様、そんな悪い人じゃないわよ」
ジェーンは屈託なく笑った。
アシュレイは呆気に取られている。
「……そんな、『悪い人じゃない』って……」
アシュレイはだいぶ迷ったようだが、結局「駄目だ」とは言わなかった。
それ以来、怒涛の日々がジェーンを包み(冒頭の通りだ)、ジェーンは退屈(と寂しさ)から免れ、日々を充実して過ごしていたのだった。
3.
その晩は主人のマッケンジー伯爵は留守をしていた。マッケンジー伯爵の御供について行ったのだろうか、アシュレイもいない。
なので、ジェーン一人が奴隷の子どもたちに晩ご飯を食べさせる羽目になっていた。
ジェーンにとっては、子どもたちの世話の中で何が一番つらいかと言えば、食事の世話だった。
……なにせ、子どもたちに舐められているからね。
食べることの好きなトビーとジャック、サムはぱくぱく自発的に食べるからよいけど、他の子は、特に小さいキャロルなんかは、スプーンを口に運んでやっても口を開けないし、やっと口に捩じりこんだと思っても吐き出す始末。
ビリーは食事中、スプーンにスープを乗せたまま、無我夢中でずーっとジョディと喋っている。どれだけ怒鳴ってもジェーンの声は彼らの耳には聞こえない。
もちろんビリーとジョディを遠い席にしたこともある。そうしたら、二人は一分と持たず、どっちかが席を立っては相手の隣に立って喋っている。
かといって食事中以外でビリーとジョディが喋っているところはほとんど見たことがない。なぜこの二人は食事中に限って仲良く喋るのか? 何の儀式? ……つーか、食え!
食事の世話に関してはアシュレイの方がスムーズにいくと認めるしかない。
アシュレイと子どもたちだけのテーブルは驚くほど静かで礼儀正しい。
子どもたちの緊張がこちらまでビンビンに伝わってくるけど。
でも、ここにジェーンが一人加わるだけでダメなのだ。
そこにアシュレイがいても、ジェーンが入るだけで、子どもたちはリラックスして、めいめいの食事スタイルでのびのびと食事を始めるのだ……。
そして、ジェーンがむっきーっと怒ることになる。
(でも、そんなときにアシュレイはどことなしか楽しそうだけどね)
その日の晩もジェーンが給仕をしてやり、
「さあ、ご飯よ! みんな準備して」
と声をかけると、トビーとジャック、サムは「やったあ!」と手も洗わず飛んできて、皿に顔を突っ込むようにして食べ始めた。
ジェーンはそんな三人の頭をむんずと捕まえると、
「手、洗う!」
と鬼の形相で三人の顔を覗き込んで言った。
三人は、ぎゃはははっと笑うと、「俺が一番っ」と言いながら洗面台に駆けていく。
洗面台には比較的優等生組のジェームスとミアがいたが、トビーたちが割り込んだので、なんだか一悶着始まったようだ。
そしてジェーンは、敢えて無視を決め込んで遊び続けている『ごはん嫌い組』のキャロルとエルを捕まえに行く。
その横では、「ご飯よ」に反応して、もうビリーとジョディが接近し話を始めていた。
はあ! もう、なんじゃこりゃっ! アシュレイ何してんじゃっ!
ワンオペはんた~い!
とジェーンが思っていると、なんとそのタイミングで「ごめんごめん」と言いながらアシュレイが帰って来た。
「旦那様のご用事について行かなきゃいけなくてさ」
ジェーンは、アシュレイが帰ってきて少しほっとしたが、
「あらお帰り……」
と性格のせいでわざとつっけんどんに言った。
「だいぶ遅かったわね。遠いところだったの?」
「領土の南の方までね。緊急のお忍び視察だってさ」
「へえ」
とジェーンは興味なさそうな返事をした。
「旦那様は、私じゃなくてあんたを連れて行くのね」
「何だよ、嫉妬か?」
アシュレイは驚いた声をあげた。
「違うわよ。私って旦那様の何なんだろ~と思ってね。こんな言うこと聞かない子どもたちを怒鳴り散らしてると特に」
ジェーンは笑った。
「ま、でもいいや。考えてもしかたないしね~。さ、手伝ってよ。こいつらの口に食べ物を突っ込まないと!」
ジェーンが笑顔なのでアシュレイはほっとした顔をした。
そこからはジェーンはアシュレイと話すこともなく、ひたすら子どもたちを追い回した。
さっさと食べ終わったトビーとジャック、サムが他の子どもの食べ物を盗もうとするのを阻止し、ビリーとジョディが仲良く話しながらふら~っと席を立つのをむんずと捕まえ、キャロルとエルの口に食べ物を突っ込む。
比較的優等生なジェームスとミアだって、澄ました顔をして嫌いな食べ物をわざと床に落とそうとするから要注意だ。
食事を終え片づけた頃にはとジェーンはくったくたに疲れていた。
「アシュレイ、私ちょっと疲れた」
しかしアシュレイは涼しい顔をしている。
「君が頑張りすぎるのさ」
「ア~シュ~レ~イ~!」
ジェーンはアシュレイを睨んだ。
アシュレイは少し笑った。
しかし、急にアシュレイが遠慮しながら口を開いた。
「ジェーン、さっきの『私って旦那様の何なんだろ~』って話だけど、君こそ旦那様をどう思っているんだい?」
ジェーンはアシュレイの遠慮など微塵も気づかない。
「そうねえ、私にとっての旦那様は……」
少し考えこむ。
「額の絵と一緒かしら。いるのは知ってるんだけど会うこともないし話すこともない。一生そこに飾ってある、絵」
アシュレイは一瞬悲しそうな顔をした。
「額の絵か……」
「どうかした?」
「あっいや。そんなもんだよな……」
アシュレイは慌てて言った。
「私はこれでよかったと思ってるわ! 政略結婚先の旦那様とどんな顔して初夜を迎えるのかとか心配してたんだから!」
ジェーンはにぱっと笑った。
「初夜って」
アシュレイは少し顔を赤らめた。
「女が堂々と話題にすんなよ」
「アシュレイなら平気よ~」
「俺ならってなんだよ!」
ジェーンは笑った。
「じゃあ逆に聞くけど、あなたにとって旦那様は?」
アシュレイはその質問に、うっと詰まり、一瞬、見るからに動揺した。
「……えっと」
しかし、とってつけたように笑顔を張り付けると、
「いい旦那様だよ」
とだけ答えた。
「なんじゃそりゃ~?」
ジェーンは不満そうに言う。
しかし、ジェーンは気づいてしまった。
「あ、いや、さっき動揺したわよね。怪しいわ。もしかして、旦那様とアシュレイって『男同士の恋人』だったりするんじゃないの!? あっ! 『偽装結婚』ってそういうこと!?」
今日の領地視察って、デートじゃないの!?
「ちょっと、待て~っ!」
アシュレイはばっと両手を上げるとジェーンの言葉を遮った。
「なんで、そうなる! やめてくれ!」
「心配しなくていいのよ、アシュレイ。私は誰にも言わないわ(言う相手がいないだけだけど)」
ジェーンは優しそうに微笑んでアシュレイを宥めようとした。
「だからっ、ちがうっ!」
アシュレイが珍しく大声を張り上げている。
「じゃあさ、何なの」
とジェーンはむすっとして聞いた。
アシュレイはまた、むむっと言葉に詰まると、顔を赤らめ、ぱっとよそを向いた。
「近いうちに、全部説明するよ……」
「ふ~ん?」
ジェーンは一瞬怪訝そうに首を傾げたが、「ま、説明するって言ってるし、そのときでいっか」と思い直した。
4.
その時、外で物音がした。
食事を終え、めいめい自分の好きな遊びをしていた子どもたちが、はっと警戒し聞き耳を立てた。
泣き虫のサムはもう半分泣きかけている。
「!」
アシュレイがすっと扉の方に歩き出した。
「何? アシュレイ」
ジェーンは小声で聞く。
「心配ない。待ってなさい」
とアシュレイは命じるような口調で言った。
「私も行く」
「こら、ジェーン……」
とアシュレイが慌ててジェーンを振り返ると、なんとジェーンは怯えているどころか、わくわくと顔を輝かせていた。
アシュレイは呆れてがっくりと肩を落とした。
「……ジェーン、おまえ……」
「あら何よ。ダメ?」
ジェーンはアシュレイの態度に憤慨している。
「いや、何でもない。じゃあついてきたらいいさ」
アシュレイはため息をついて言った。
ジェーンがアシュレイについていくと、部屋の外には侍女のマデリーンが倒れていた。
「わあっ」
ジェーンが思わず叫ぶ。
「マデリーン!?」
アシュレイが驚いて駆け寄った。
「どうした! 何があったのだ?」
マデリーンはアシュレイの後ろのジェーンを見て、一瞬青ざめた。
「奥様……!」
しかし、マデリーンは意を決した顔をすると、
「アシュレイ様、すみません、私、旦那様のお子を身籠ってしまいました……。このままどうぞお暇をいただけませんでしょうか……」
とおなかを押さえながら、弱々しそうな声で懇願した。
ジェーンの心がざわっとした。
思わずぎゅっと掌を握った。
「旦那様のお子……?」
アシュレイの声は震えていたが、はっと気づいてジェーンを振り返った。
ジェーンと目が合う。
アシュレイはふっと苦しそうに目をそらした。
それからマデリーンに冷たい声で言った。
「そうか。マデリーン。では十分な支度金を用意する」
「あ、アシュレイ様。ありがとうございます!」
マデリーンは目に涙を浮かべて礼を言った。
その時、ジェーンが口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ、アシュレイ。旦那様のお子を身籠った侍女を追い出すの? 気の毒じゃない。ねえ、あなた、マデリーンって言ったわね。旦那様のお子なら、この屋敷で産んで育てたらいいじゃない」
アシュレイとマデリーンはびくっとなった。
「ジェーン、君は!」
アシュレイの声が尖る。
「何よ、アシュレイ。この冷血漢!」
ジェーンは罵る。
「マデリーン、旦那様はご存じなの?」
「あ、奥様! い、いいえ、言えませんわ! 私なんかが!」
マデリーンは恐れ慄いた。
「じゃあ、このまま行方を晦ますつもりなのね? あなた、そんなの、旦那様の気持ちを考えたことあるの? 愛する女がいきなり消えたら、きっとすんごいトラウマよ!?」
ジェーンは諭すように言った。
マデリーンは消え入るような声になった。
「私を愛すなど、とんでもないことでございます! よ、酔っぱらっておられたのですわ、旦那様は……」
「なんなの! それ!? あなたもたいへんな事故に遭ったものね。だとしても旦那様はしっかり責任をとらなくっちゃ駄目よ! こんな可愛らしい侍女に手を付けて、人生を狂わせてるのよ!?」
ジェーンは早口でまくし立てた。
「ジェーン、落ち着け」
アシュレイが低い声で言った。
「……とにかく、マデリーン。部屋に戻りなさい。追って処遇は考えるから」
「待ってください、アシュレイ様! 旦那様には、旦那様にだけは言わないで!」
マデリーンは金切り声を上げた。
アシュレイは石のような目でマデリーンを見た。
それから
「分かった」
とだけ呟いた。
それからアシュレイはジェーンを振り返った。
「ジェーン。君は子どもたちの側にいてやってくれ。俺は、マデリーンを部屋まで送って来る。また倒れたりしたら心配だ」
「分かったわ。優しくしてあげてね、アシュレイ」
ジェーンはそっと言った。
マデリーンはジェーンに向かって深く頭を下げて、それからアシュレイに付き添われて部屋へと帰っていた。
5.
「おい、ジェーン。なにがあったのかせつめいしろ!」
ジェーンが部屋に入るなり、ジャックがおもちゃの剣をジェーンに向けた。
ジェーンは現実に戻った気がして、急に肩の力が抜けた。
「オトナのお話です。あんたらには言いません」
「なんだとぉ! オトナの話だとぉ? それならわしに話してみよ」
トビーがおもちゃの眼鏡を鼻にひっかけ、腕組みしてジェーンに迫る。
これでオトナのつもりなんだから。
ジェーンは思わず笑ってしまった。
「本当に何でもないのよ。さ、湯あみして寝る準備しましょ」
「むむっ! なんぞジェーンがやさしいぞ! おかしい。いつものジェーンではないな?」
ジェーンが笑ったのを見て、ウケたっとばかりにトビーが調子に乗る。
ジェーンは思わず目頭が熱くなった。
そうね。いつものジェーンじゃないのかもしれない。ちょっと、ショックだったもの。
形だけの夫婦とはいえ、旦那様が侍女を孕ませただなんて。
「ジェーン?」
エルがそっと小さい手をジェーンに伸ばしてくる。
ジェーンは胸が熱くなって、エルの手を握り返した。
それから、しっかりしなきゃと自分に言い聞かせると、
「よし! 湯あみだ!」
とわざと大きな声を出した。
ええ~っとサムの不平が漏れる。
「僕まだ湯あみしたくない」
手にはなぜかヤモリが握られている。
「うわっ! なんだそのヤモリ、どっから出た!?」
ジェーンが思わず仰け反る。
「そこの壁にいた……」
サムが壁を指差すと、ポロっとヤモリがサムの手から落ちた。
「うわ~い、やったあ! ヤモリだあ~!」
子どもたちがヤモリを捕まえようと、一斉にサムの足元に群がり這いつくばった。
なんだこれ?
ジェーンは自分が情けなくなった。
侍女は旦那様の子を宿し、私はヤモリに振り回されている。
その時、比較的年長のミアがジェーンの腕を引いた。
「ねえ、さっきのお外の声、マデリーンでしょ?」
「……っ!?」
ジェーンがばっとミアの顔を見る。
「マ、マデリーンがどうかしたの?」
「マデリーンって可愛いし、優しいよねえ~」
とミアはうっとりと言った。
「あ、ああ、優しいんだ、彼女」
ジェーンは少々ショックを受けながら言った。
へえ~可愛くて優しいんだ……。子どもにこんなこと言わせるなんて、私に勝ち目はないわねえ……。
「でさあ、私今日、さくらんぼを23個拾ったのよね」
とミアが言った。
「あ、ああ、そう。で、マデリーンは?」
ジェーンの言葉にミアは不機嫌そうな顔になった。
「ちょっと! なんでマデリーン? 私は今さくらんぼの話をしてるんだけど!」
「あ、ああ、そっか、ごめんごめん。もう話題変わってんのね」
ジェーンはため息をついた。
子どもって唐突に話題変わるのよねえ……。
もう少しマデリーンについて聞いてみたかったけど。
と、その時、アシュレイが戻って来た。
ジェーンは自分でもなぜだか分からないが、アシュレイの顔を見てほっとしているのを感じた。
しかし、アシュレイは険しい顔をしていた。
「あ、ああ、お帰り。アシュレイ?」
ジェーンはおずおずと言った。
しかしアシュレイは顔を崩さない。
「ジェーン。旦那様がお呼びだ」
「ええええええっ! 旦那様が?」
ジェーンは突然のことに慌てふためいた。
「もしかしてマデリーンについての弁解!?」
「嫌なのかよ。おまえが混乱してるから説明してくれんだろ」
アシュレイがため息をついた。
「おまえはさっきから……ほんとに、何を考えてるんだ? マデリーンに屋敷にとどまるよう言ってみたり」
「そ、それは、だってマデリーンが可哀そうだったから! あと旦那様のお子ならこの屋敷で育てるのが筋ってものですわ。すでに子どもはたくさんいるし」
ジェーンは言い返す。
「ってゆか、旦那様にお伝えしてよ。私、別に怒っていませんって。魔が差すってことも(よく分かりませんけど)ございますよねって」
「魔が差す?」
アシュレイはがっくり肩を落とした。
「これで、アシュレイと旦那様が『男の恋人同士』っていう説も覆ったわけだし! まあ、よかったんじゃないの、あははは」
「おい、ジェーン!」
アシュレイはきつい口調になった。
「いいか。俺は伝えたぞ。今夜10時、旦那様のところな」
「ええ~いやだ~」
ジェーンはまだ駄々をこねている。
アシュレイはイライラして、意地悪を言いたくなった。
「つーか、さんざんお預けにされてた初夜じゃねーの? 覚悟しとけば」
「ええ! 初夜……」
ジェーンはさっきまで軽い調子で文句を言っていたのが急にびくっとなった。
「いやいやいや、このタイミングであり得ないでしょ。ふつー弁解でしょ」
このタイミングで初夜だとかがあったら、旦那様の精神を疑うわ!
「どうかな」
アシュレイが面倒くさそうに答えた。
「私が他の男のものになったらあんた悲しくないの?」
ジェーンはきーっとなった。
「悲しんでほしいのかよ」
アシュレイは呆れた声を出した。
「まったく、旦那様も嫌われたもんだなあ」
6.
地下室の子どもたちを寝かしつけて、ジェーンは自室に戻った。
時計を見やる。
9時半。
旦那様に呼ばれた10時までもうすぐだ。
ジェーンは緊張していた。
初めて旦那様に会う。
用件は侍女マデリーンの子どもについてだけど。
もしかして本当に初夜も? いや、あり得ない!
あんなのアシュレイの意地悪だ。絶対にそう。
だけど、本当に初夜だったらどうする?
旦那様とするの?
旦那様。奴隷の子どもたちを買ってきて世話してるって、実はちょっと優しいところがあるのかと思ってた。
でも、侍女に手を付けたと聞くと……。
う~ん、なんか嫌だ……。
私はもう少し、女の人には誠実な男の人がいい。
その時、ジェーンの頭の中をアシュレイの顔が過った。
あ、そうか。アシュレイ。
私は……アシュレイがいい……!
旦那様なんていなければいいのに。そうしたらアシュレイと二人、地下室の子どもたちを世話しながら楽しく暮らしていけるのに。
旦那様なんて、マデリーンと一緒にいなくなってしまえばいいのに!
何よ、『偽装結婚』って。
可愛いマデリーンっていう恋人がいるなら、別にはっきり言ってくれたらいいじゃない。
マデリーンが侍女だから結婚できない。
カムフラージュの妻が欲しかったんでしょ!
ジェーンは心の中で散々に毒づいた。
もう嫌。会いたくない。
逃げてしまいたい。
え、逃げる?
あらまあ、名案じゃない?
そのまま、どっかで朝を迎えて、今夜のことはやり過ごそう!
ジェーンの頭はたいへんおめでたくできている。
ジェーンはこの考えが気に入って、さっそく逃げることにした。
時計を見ると9時45分。
よし、まだ時間はある! 要するに、朝までのかくれんぼよ!
ジェーンはちらっとベッドを見た。
そういえば、こないだ歯磨きを嫌がったジョディがベッドの下に隠れていたっけ。
「ベッドの下は、ちょっと幼稚すぎるわね」
すぐに見つけてやったもの。
ジェーンはう~んと部屋を見回す。
この部屋の中には隠れるところはないわねえ。
そこでジェーンはそーっと部屋の扉を開けて廊下の様子を窺ってみた。
薄暗い廊下に人影はなかったが、カツーン カツーン と誰かの足音が聞こえてきた。
ジェーンにはすぐ分かった。
あれはたぶんアシュレイだ!
旦那様のところに私を連れて行く気だ!
アシュレイのバカっ!
ジェーンは慌てて部屋の扉を閉めた。
もう一度ぐるりと部屋を見渡す。
どうしよう、どうしよう?
7.
その頃、マデリーンの部屋に男の人影がそろりそろりと入っていった。
「首尾はどうだい、マデリーン?」
男がうすら笑いを浮かべながら聞く。
マデリーンは大きなため息をついて見せた。
「どうかしら。うちの若奥様が茶々をいれてきた」
「若奥様? なんだ、伯爵、結婚してんのか? 子ども切り刻んでる伯爵だろ? なんで嫁に来る女がいるんだよ?」
男は驚いた口ぶりだった。
「変な女なのよ。伯爵のお子がいるならこの屋敷で産めとか言うわけ」
マデリーンはわざとらしく首を竦めて見せた。
「はあ?」
男は理解に苦しむ声を出した。
「おまえ、やべーじゃねーか。妊娠なんてハッタリだろ!」
「そうよ。あの若奥様がでしゃばるようなら、慰謝料は諦めてさっさととんずらしないと駄目でしょうね。あの若奥様のせいで、計画は失敗よ」
マデリーンは苦々しそうに言った。
「惜しいなあ。なんで俺らの時だけ失敗するんだ」
男も口惜しそうに言った。
巷では『伯爵は子どもを切り刻んでいる』以外にもう一つ黒い噂があった。
それは、『侍女に手あたり次第手を付け、妊娠した侍女には金を持たせて暇を出す』という噂だった。
だから、マデリーンとその情夫は、体よく金をふんだくるため、偽の妊娠を申告する計画を企んだのだ。
実際、マデリーンはマッケンジー伯爵には会ったことがない。
だが不思議なことに、屋敷の中では『誰も』マッケンジー伯爵には会ったことがないと言う。
では、偽の妊娠だとバレることもない!
男はタバコに火をつけた。
「金を持たせて暇を出すのは『生まれた子どもが切り刻まれないように』って家令の男が配慮してるからなんだろ?」
「そうさ! だから、家令の男はすぐにでも金をくれようとしてたさ。でも若奥様が話に入って来たんだよ!」
マデリーンはその男からタバコをふんだくって口にくわえた。
男は苦笑しながら、もう一本タバコを出すと、もう一度火をつけた。
「んじゃ、こっそり家令の男と話を付けて金をふんだくってこい」
「そうだね」
マデリーンはぷか~っと煙を吐いた。
二人の計画は、アシュレイがポンと金を払えば成功だったのだ。
「ま、もう少し待ちなよ。『処遇を考える』って家令の男は言ったからさ。まったく! 何のために『子どもを切り刻む』やばい伯爵の屋敷に潜り込んだと思ってるんだよ」
8.
ジェーンは大急ぎで部屋の窓を開けた。
ここは2階。さすがに飛び降りるわけにはいかなかった。
なんとか逃げられぬかと首を突っ込み外の様子を確認する。
外は暗かったが、幸い満月の夜だった。
あら、いいところに木があるじゃない!
ジェーンはそっと木に手を伸ばしてみた。
木の幹に届く。
よしっ!
ジェーンは窓枠に足をかけた。
勇気を出して「えいやっ」と外の木の幹に飛び移ると、木の枝が揺れて葉が擦れ、がさっがさっと大きな音を立てた。
ひい~っ やば~い!
ジェーンは木の幹に無我夢中でしがみついた。
木の幹ってこんなに滑りやすいの??
うわ~さすがにやり過ぎたかもっ
落ちたら死ぬ!?
ん~ でも、よっぽど打ち所が悪くなきゃ、死ぬまではいかないでしょ、きっと大丈夫!
足の骨か手の骨が折れるくらいじゃない?
折れたらさすがに大事よね。
そしたら、きっとマデリーンの件の言い訳とか(たぶんないと思うけど初夜のこととか)、きっと有耶無耶になるわ!
でも、うん、降りれるか試してみよう……。
ジェーンが足場を探してそろそろと足を伸ばしてみようとした時だった。
「な~にやってんだ、おまえは!?」
木の下からアシュレイの呆れた声がした。
そしてアシュレイはジェーンの意外に必死な顔を見つけて、ぎょっとした。
「は? おまえ、もしかして困ってる?」
急にアシュレイの心臓が早く打ち始めた。額に汗が滲む。
「飛び降りろ! 受け止めてやるから!」
「アシュレイ! 飛び降りろって言われても!」
ひ~っとジェーンが泣き言を言う。
「余計なことして足を滑らせる方が厄介だ。思い切って手を放してしまえ。俺の上に落ちれば大丈夫だから!」
アシュレイが頭上のジェーンに向かって腕を広げる。
「大丈夫だ! 俺が絶対に受け止めるから!」
ひ~っ
ジェーンはなかなか決心がつかなかった。
「いいか? 俺はおまえを愛している。絶対に悪いようにはしない。信じて飛び降りろっ」
アシュレイが叫んだ。
あ、愛!?
ジェーンははっとした。
「うん……」
ジェーンは思い切って幹から手を放した。
そこからは、もう訳が分からなかった。
頭から落ちたのか足から落ちたのかも分からない。
ただ、鈍く腰らへんに強い衝撃を感じたと思うと、ジェーンはアシュレイを下敷きにして、地面の上にいた。
「痛っ」
ジェーンは思わず声を出したが、すぐさま下敷きになり倒れているアシュレイを見た。
「ごめんなさい、ごめんなさい、アシュレイ! 死んでない!? 大丈夫??」
アシュレイは衝撃で顔を顰めていたが、
「大丈夫……」
と答えた。
それから、ぎゅっとジェーンの手を掴んだ。
「何やってんだ、おまえは……!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
ジェーンは謝った。
「私もよく分かんないの」
はああああ~
アシュレイは大きくため息をついた。
「まあ、無事でよかったよ」
「ってゆーか、アシュレイ、何、その恰好!?」
ジェーンは急に大きな声を出した。
「むっちゃいい服着てるじゃない! 家令のくせに! まるで伯爵みたいよ! え……伯爵?」
ジェーンは自分が口走った言葉に、あるものを感じた。
今までのこの屋敷での違和感の謎が解けていく気がした。
全く人前に出てこない伯爵。
アシュレイだけが伯爵の言葉を伝えてくれる。
奴隷の子どもを買っておきながら、世話はアシュレイに任せっきりでただの一度も顔を出さない伯爵。
伯爵が留守の日は、アシュレイも留守。
「もしかして……?」
ジェーンは目を見開いてアシュレイに聞いた。
「……ああ」
アシュレイは答えた。
「そう……アシュレイが伯爵だった、の」
ジェーンはいろいろな感情がまぜこぜになって、うまく言葉にならなかった。
「すまない。騙してて」
アシュレイは言った。
「早く言わないとと思ってはいたんだ」
私の好きなアシュレイが、夫のマッケンジー伯爵だった……
ジェーンが混乱しながらも、良かったのか?と思い始めていた時、
急にジェーンはマデリーンのことを思い出した。
俄かに真っ黒な気持ちがジェーンを押しつぶした。
アシュレイは可愛くて優しいマデリーンと付き合ってたんだ! さらに―。
「あんたがマデリーンを妊娠させたのか!」
ジェーンは怒鳴った。
「最低~っ!」
「こらこらこらっ! マデリーンには指一本触れていない!」
アシュレイも怒鳴り返した。
「だってマデリーンが、伯爵のお子だって!」
「あれは、マデリーンの嘘だ! いや、おまえもゆっくり考えれば分かるだろ!? マデリーンは俺に向かって『伯爵のお子だ』って言ったんだぜ。俺が伯爵なのに!」
「あ、そっか」
ジェーンはポンっと手を打った。
「あれはマデリーンの嘘だったんだ、よかった~」
ジェーンはほっとして顔がにやけてきた。
アシュレイはジェーンの百面相に呆れ果てた。
「もう俺はおまえの情緒が分からない!」
「あ、ごめん、そろそろ降りるね」
ジェーンはいつまでもアシュレイの上に乗っかっていたことに気づき、そっと降りようとした。
「手も放していいわよ、アシュレイ」
アシュレイはむっとした。
「放さない」
「え? じゃあ、降りれないじゃん」
アシュレイはもっとむっとした顔になった。
「大事なこと聞く。分かってるよな? おまえは俺の妻なの」
「うん」
ジェーンは素直に頷いた。
「でも今夜のおまえは伯爵が嫌で逃げたんだろ?」
「あ~」
ジェーンは何と答えたらいいか分からなくなってしまった。
「伯爵は嫌だったんだけど―」
ジェーンは丁寧にアシュレイの手を腕からはずすと、アシュレイの上から降りた。
アシュレイはむくっと上体を起こす。
ジェーンはにっこり笑った。
「私はアシュレイがいいと思ってたの。だから嬉しい!」
アシュレイも嬉しそうに目を細めた。
そしてそっとジェーンに顔を近づけた。
「え?」
ジェーンが目を見開いていると、
「目、閉じて」
とアシュレイが耳元で囁いて、ジェーンの唇にアシュレイの唇が重なった。
9.
部屋にアシュレイとジェーンが入って来たので、マデリーンは待ちわびた客の訪問にほくそ笑んだ。
すぐに肩をすぼめておなかに優しく手をあて、哀れそうな表情を作る。
しかし、アシュレイは先ほどより大分冷たい態度だった。
「悪いな、マデリーン。侍女たちのそういうの、面倒だったから金払ってお仕舞いにしようかと思ってたんだが。少し状況が変わった」
静かな声でアシュレイは言った。
マデリーンは「ん?」と思った。
アシュレイは刺すような目をマデリーンに向けた。
「特に、今回は騙そうとした相手が俺だけじゃなかったから、ちょっと腹に据えかねている」
「え、ええ? アシュレイ様?」
マデリーンは上擦った声を上げた。
「伯爵のお子っていうのが嘘なのは最初から分かっている。俺が伯爵だからな」
「あっ」
マデリーンは息を呑んだ。みるみる青ざめる。
「面倒だから追い出すだけでもよかったんだが、うちの若奥様の手前、きちんと処罰しないといけないよな」
アシュレイはわざとらしくため息をついた。
「手足を切り刻むのはどうだろう」
手足を切り刻む!? 奴隷の子どもたちのように!?
マデリーンは「ひいいいっ」と声を上げると這いつくばり、可愛らしい顔を床にこすりつける様にして謝った。
「申し訳ございません! もう、もう二度と伯爵様の前には姿を現しません! どうぞ、どうぞ、今回だけは!」
ジェーンはうんざりした顔でその様子を見ていた。
可愛くて優しいという評判は何だったのか。
「赦すかい?」
アシュレイがジェーンに聞いた。
ジェーンは頷いた。
「そうね。あ、でも、ミアが言うにはマデリーンは情夫がいるんですって。そっちも一応懲らしめようかしら」
本当、子どもたちはよく見てる。
マデリーンの情夫もすぐに追手がかかり、こうしてマデリーンとその情夫は伯爵を謀った罪で拘束された。
騒動の翌日、
「マデリーンって女、とんだくわせものだったみたいじゃないのぉ」
おしゃまなミアが意味も分かっていないのにそんなことを口にしたので、ジェーンは思わず吹き出した。
「くわせもの、いえ~い」
「くわしてくれ、ぎゃははは」
「おいしいの?」
トビーとジャックとビリーがまた大声で騒ぎだす。
「ジェーン、アシュレイと結婚してたんだね」
ジェームスが拗ねた顔して言った。
「僕がお嫁さんにしてあげようと思ってたのにさ。ジェーンはぜったい結婚できないと思ってたから」
「はいっ! 一言多いね、ジェームス! 今日の洗濯はあんたが手伝いなさいよ!」
ジェーンは腰に手をあててジェームスを見下ろした。
アシュレイが笑っている。
ジェーンはちょっと顔を赤らめてアシュレイを見た。
「なんで私のこと『偽装結婚』とかにしたの」
「そりゃ、俺だって警戒するわ! 『金銭目的で~す』なんて嫁が来たら」
アシュレイは苦笑した。
「黒い噂も吹き飛ばすくらい金に執着した家の娘だぜ?」
「ああ、そっか」
とジェーンは笑った。
「じゃあさ、なんで『子どもを切り刻んでる』って黒い噂を放置してんの。別に奴隷の子どもの世話をして悪いことはないし、疑惑は晴らしたらいいんじゃないかしら」
アシュレイは苦笑した。
「けっこう前なんだけど、うちで奴隷の子どもを育ててるって噂が流れたら、近隣の村々で、『農奴で貧しく育てるよりは伯爵の屋敷で育てた方が子どもは幸せかも』とか勘違いする若い農婦が続出してさ。屋敷の前に捨て子がたくさん置かれるようになったんだ。子どもは母親の手元が一番だろうから、なんかいい案はないかと思ってたんだが、ちょうどいい噂が立ってね。さすがにそんな噂の屋敷に子どもを捨てる女はいないからね、放置してた」
それから、ジェーンとアシュレイはたくさんの子どもに恵まれたのを機に、アシュレイは奴隷の子どもたちを買ってくるのをやめた。
その代わり、近所に奴隷として売られた子どもを保護・養育する慈善施設を作った。
ジェーンとアシュレイの領地では子どもへの虐待が減り、子どもたちが賑やかに楽しく暮らせる土地として国中で評判になったということだ。
最後までお読みくださりありがとうございます!
感謝です!!!
本作品は遥彼方様主催の【共通恋愛プロット企画】参加作品で、遥彼方様のプロットをもとに執筆されています。(相内充希様のプロットをもとに執筆した作品も投稿しております。)
この共通恋愛プロット企画はたいへん勉強になりました。
他の方の作品も少しずつ読ませていただいているのですが、同じプロットでこうも違うものか!とびっくりしております。
企画運営、また参加を了承してくださった遥彼方様には感謝いっぱいです。
本作品、もし少しでも面白いと思ってくださり、ご感想やご評価をいただけましたらとても励みになります。
(相内充希様のプロットをもとに執筆した作品の方は、たくさんのご評価をいただき、ランキングに載せていただきました。嬉しくて心が震えました! 本当にありがとうございます!!!)
重ねて、最後までお読みくださり、どうもありがとうございました!