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麦川アパート物語  作者: 美祢林太郎
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7 小学生誘拐遂事件

7 小学生誘拐未遂事件


 じいさんがいつものように近所を散歩していると、目の前に、夏休みが明けた小学校低学年の男の子が虫かごを持って登校していた。じいさんは近寄って、「何の虫を飼っているの」と虫かごを覗き込んだ。不意を突かれた子は、びっくりして、その場から全力で走り去り、およそ30メートルほど走って、息を切らしながら後ろを振り返った。じいさんはにっこり笑ってその子に向かって手を振ったが、子供は遠目にも明らかにおびえていることがわかった。子供は泣きながら再び走り出した。

 翌日、アパートに二人の警察官がやって来た。萌が玄関に出て対応した。警察官が言うには、不審者がここらに出没しており、子供たちが不安におののいていると小学校から通報があったそうなのだ。警察官は不審者の特徴をあれこれ説明して、不審者を見かけたらすぐに警察に通報して欲しい、と言って出て行った。警察官はああは言ったが、かれらは不審者がじいさんであることを間違いなく知っている。じいさんは怪しまれている。警察官にしても、じいさんが小学生に危害を加えたわけではないので、捕まえるわけにはいかないのだろう。小学校の話からでは、小学生の男の子が認知症らしきじいさんに声をかけられたに過ぎないからである。それが犯罪であるわけではないし、未然に犯罪を防ぐにしても過剰なことはできないからだ。警察官は今回の訪問で、じいさんを一人で家から出して、不審者に間違われることがないように気を付けて欲しい、と暗に警告を発したのだろう。人を見たら悪人と思うような社会が良い社会であるはずがない。しかし、警察官がじいさんに直接面談をしなかったのは、人権擁護であり、武士の情けであり、警察官の優しさなのだろう。

 警察官の来訪について、萌は誰にも話をしなかった。知っているのは、萌の他にはおれとじいさんだけだった。それでも、じいさんは不審者扱いされていることを理解しているわけではなさそうだった。実際、それからも何事もなかったように、じいさんは散歩を続けた。おれはじいさんを心配したが、萌は気にしていない風だった。萌はこれまで通りじいさんの自由にさせてやりたかったようだった。じいさんが人に危害を加えるような人間ではないことは我々が一番よく知っていたし、明るいうちに帰宅することもわかっていたからだ。心配しなくても、じいさんのゆっくりした足取りと、途中で草花や虫などの観察で、散歩が数時間かかったとしても、そう遠くまで行けるわけではなかった。それに雨の日は出かけることもなかった。

 あの出来事から一週間もすると、小学生がじいさんを見つけると、走って逃げるようになった。じいさんの存在は子供たちの間に知れ渡ることになったのだ。中学生の中には、じいさんに石を投げつける者もあらわれた。もちろんじいさんは何もしていないのにだ。

 ある日、じいさんが頭から血を流してアパートに帰ってきた。幸い傷は深くなかった。じいさんも「大丈夫です」と言った。みんなが騒ぎ立てたので、ここに来て萌は事の顛末をみんなの前で説明しないわけにはいかなくなった。幸子を初めとして血の気の多い連中は、じいさんに石を投げた奴を見つけてやっつけてやると息巻いた。萌は相手は子供なんだからと言ってとりなしたが、幸子は子供にも分別はあってしかるべきだ。じいさんのような弱い者をいじめる奴は、子供であっても絶対に許さないと言った。正義漢の強い女だ。萌はそうした連中をなだめ、萌とおれが警察に行って、じいさんの怪我について説明し、萌が書類を書いてサインをした。未成年者のサインでいいのだろうかとおれは思ったが、それで済んだのだからいいのだろう。警察官にもおれよりも萌の方が信頼されているようだった。萌の受け答えがいてきぱきしているせいかもしれない。

 アパートに帰ったが、幸子の怒りは依然として収まっていないようだったが、萌の説得もあって、とりあえずみんなはいつもどおりキャバクラやコンビニに出勤することになった。萌はアパートの中で最年少のはずなのに、みんなに深く信頼されている。

 それから数日経って、朝起きるとアパートに赤いペンキで大きく落書きされていた。「カルト、この町から出ていけ」と、汚く書かれた文字からは幾筋もペンキが垂れていた。次の日は、深夜に「出て行け」とか「エロ宗教」とか叫びながら、何十個もの卵がアパートに投げつけられた。みんなが窓を開けると蜘蛛の子を散らすように闇に消えた。更に翌日は、玄関の前にたくさんの生ごみがばらまかれていた。

 どうも我々は一部の者たちから新興宗教の団体だと思われていたようだった。じいさんは教祖だと想定されているのかもしれない。しかも、12人の若い女の子たちがいて、12人を侍らせていることになっているらしい。ただ、同居しているだけなのに。彼女たちはカルト教団の信者とみなされている。この12人の女性信者に対して男はじいさんとおれの二人しかいない。もう酒池肉林のハーレムの世界だ。世間では面白おかしい噂話が広がっているらしい。言われてみると、じいさんはあのにこやかな顔なので世俗を超越した宗教家に見られても不思議ではないかもしれない。そこで、ハーレムの中心人物はおれになってしまう。確かに、おれだってこのアパートを外から見ていたら、愛欲のカルト教団と言われたら、信じるかもしれない。おれのことだ、きっと信じる。だって、それの方が話は面白いし、常識から言って(何が常識かわからないが)、若い女の子と一緒にいて何も肉体関係がないことがあろうはずがないからだ。そんな清く正しい人間ならば、それこそ禁欲的な本物の宗教家だ。おれはどこから見ても禁欲的ではないが、残念ながら女の子たちと何の関係も持っていないのだ。だが、誰もそんなことを信じてくれないだろう。いったい、おれたちの肉体関係を見たことある奴はいるのか? 誰もいないだろう。そんなのないんだから。

 彩乃が冗談で「この際、このアパートをハーレムにしますか?」と言うと、玲奈が「いいわね。だけど、男はじいちゃんとおっさんの二人だけだよ。じいちゃんは役に立ちそうもないし」と返した。すると彩乃が「かっこいい男を連れてきますか?」と言い、みんな笑った。レズビアンの葵が「なんでしたら、女の園でもいいんですが?」と冗談めかして言うと、彩乃や明日香が「それはない、それはない」と返して、これもみんな笑った。おれは一瞬、ハーレムになるのも悪くないと思ったが、萌と幸子の顔を見て、終始黙ることにした。しばらくみんなで軽い口を叩き合って、それから現実に引き戻された。

 女の子が夜道を歩いていると、中学生らしき子供から生卵を投げられたこともがあった。郵便ポストにあった封筒には剃刀が入っていた。アパートに対する攻撃が日に日にエスカレートしてきたので、とりあえずこれまでの被害を警察に届けることにした。警察官は親切に応対してくれ、時々、アパートの周りを巡回してくれることになった。とても丁寧な対応だと思っておれは素直に喜んだが、萌は定期的にアパートを探ることも兼ねていると言った。萌の推測は当たっているのだろうが、おれは別に調べられても何の困ることもないので、意に介さなかった。実際、警察官の巡回によって、アパートへの嫌がらせはなくなっていったのだから。

 表面上は、アパートや女の子たちへの攻撃はなくなったが、キャバクラの客からの話では、まだ彼女たちに不信感を持っている地域住民は多いとのことだった。アパートをカルトの拠点だと本気で思っている人も、一部にはいるとのことだった。そこで、萌の提案によってアパートのみんなで、地域住民との軋轢を解消するための具体的な方策を考えようということになった。だが、こんなことを話し合った経験のない彼女たちから妙案が浮かぶことはなかった。出てくるのは、子供たちにお菓子を配るとか、男たちにキャバクラの割引券を配るなどの、物で釣るような意見しか出てこなかった。喧々諤々と話し合いが行われ、曲がりなりにも得られた結論は、アパートの住人の好感度を上げるために、小学生の登下校時に横断歩道で子供の安全をはかろうということが決まった。その他の案は、キャバクラ組は店以外では化粧を薄くするというものだった。

 朝、交差点で大きな声で「おはようございます」と子供や父兄に声をかけた。かれらは初めのうちは無視していたが、それでもめげずに彼女たちは横断歩道の旗を持ってにこやかに子供たちを誘導した。一週間もすると子供たちも挨拶を返すようになり、好感度アップ作戦は成功しているように思えた。化粧を薄くする作戦が、功を奏したかどうかはわからない。

 子供たちに好感をもたれたことに気をよくして、女の子たちはポスターで見た地域を上げて毎年実施されている秋の文化祭にも参加しようということになった。舞がそれなら私たちも何か出し物を出さないかと提案し、あれやこれや話し合った結果、みんなでフラダンスをすることになった。フラダンスは夏だろう、と反対の意見も出たが、本場のハワイは夏も秋もないだろうと誰かが言って、フラダンスが正式に決まった。誰もフラダンスを習ったことはなかったが、ユーチューブを見て練習することになった。これでかれらの元気は完全に復活した。

 じいさんが怪我をして以降、じいさんの散歩にはしばらくの間おれがついていったが、子供たちの見守り隊を始めてから地域の人たちとの関係もよくなったので、前のようにじいさん一人で散歩に行かせるようになった。じいさんの歩調と気まぐれに合わせるのはなかなか難しかったのだ。おれは散歩より競馬やパチンコの方が性に合っている。


                つづく

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