表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
麦川アパート物語  作者: 美祢林太郎
5/18

4 幸子

4 幸子


 じいさんがスマホを持っているわけがない。ナップサックには衣類や傘、歯磨き一式の他に特別なものは何も入っていない。じいさんの名前や住所、身分がわかる物も何もなかった。一緒に暮らしていたら、そんなことどうでもいいことだったが。萌も相変わらず口数が少なく、萌が本当の名前なのかどうかさえわからない。年齢も定かではない。聞いても答えてくれないのは、何か事情があるのだろう。わかったからといってそれがたいした意味もないことなので、おれは深く追及しようとは思わなかった。そんなことを追及するのは、警察の取り調べ室くらいのものだろう。または不安症の奴かである。名前や年齢、身分、はたまた国籍を知ったからと言って、そいつが何者なのかを理解できるわけではない。おれにとって最も重要な関心事である善良な奴かそうでないかは判然としないではないか。

 おれはスマホを持っている。これがおれと社会との唯一の接点である。実は、おれは時々出会い系サイトで女と知り合い、金を払ってホテルで一夜を共にしている。その時には薄汚い服をもう少しきれいな服に着替え、靴を拭いて、髭を剃ってこざっぱりとして出かける。それが初めて会う女への礼儀というものだ、と以前おれは大工の棟梁に教わり、その言いつけをずっと忠実に守っている。

 おれがいつものように出会い系サイトを見ていると、背後から急にじいさんが「この娘は良い子です」と言った。無防備だったおれは、不意を突かれたので、かなり慌ててスマホの画面を胸に押し当てて、画面を隠した。「幸せになる子です」とじいさんが言うので、スマホを胸から離して画面を見ると、その女の名前は幸子と書かれてあった。じいさんは瞬時に名前まで読み取ったのだろうか。

 幸子は若かったが少しきつい目つきをしていたので、いつもは画面を素通りする女だった。おれの好みではないし、24歳という年はおれを相手にしてくれる年齢でもないと思った。それでもじいさんがそう言うので、騙されたと思って、「今夜うちに泊る?」とメールを送ると、驚いたことに即座に「お願い」と返事が来た。おれはその時どうしてうちに泊る、とメールしたんだろうと思った。折角若い子と楽しいことができるチャンスなのに、よりによってホテルではなく、このおんぼろアパートを指定してしまったのだ。いや、そんなことそれほど固く考えなくてもいいだろう。いつものように会ってホテルに直行すればいいだけなんだ。女にしてもこんなぼろアパートよりもホテルの方がきっといいはずだ。おれと一夜を共にすることは、女だって暗黙の了解のはずだ。

 おれが弾んだ気持ちで服を着替えて行く準備をしていると、じいさんが傍にいた萌に一緒に行ったらいいと言い出した。おれは強く断ったが、それが聞こえないように、彼女はさっさと出かける準備を始めた。おれの頭はずっしりと重くなった。

 しかたなく萌と二人で女と会いに行った。駅前ですぐにその子だとわかって、「ゆきこさんですか?」と聞くと「さちこだけど」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。「ああ、さちこさんって読むんだ。ごめん」と謝ると、幸子は「まあ、どっちでもいいだんだけど」と投げやりに言った。おれはこんなぶっきらぼうに話す不愛想な女はきらいなので、すぐにでもその場を逃げ出したかったけれど、傍に萌がいるのでそれもできなかった。「汚いアパートだけど、いいの?」と聞くと、「寝られればいいから」と素っ気なく答えた。萌が清楚な田舎娘風なのに対し、幸子は見るからに体育会系の女だった。彼女はアディダスの三本線の入った赤いジャージを着ていた。そのジャージもかなり着古されていた。どこかの古着屋で買ってきたのだろうか? 今時、こんな服装をして駅前を歩く女がいることに驚いた。

 ジャージの下にはパンパンに張った筋肉が隠されているのがわかった。午前中に砲丸投げをしてきて、まだシャワーを浴びていないのではないかと思った。少し獣の匂いがするのだ。幸子は大柄で恰幅の良い女だった。全然おれの好みではないが、それでも今夜この女を抱けるんだとおれのスケベ心に火がついた。そちらの方はしばらくご無沙汰しているので、この際好みを言っている場合ではない。萌におれの下心を悟られないように、時々口元を引き締めた。

 アパートに着くなり、幸子が「それにしても何よ、このアパート。おんぼろじゃない」と不機嫌さを丸出しにして言った。アパートの廊下を歩くと、ミシミシと音がし、穴が開くのではないかと心配になった。もう少し気をつかって歩いてもらいたいものだ。それでも部屋の中に入ると、幸子はじいさんを見て喜んだ。「じいちゃんもいるんだ」という明るい声を聞いて、じいさんは嬉しそうな顔をした。「あんたたち三世代で住んでんの?」と聞いてきたので、「そうだ」と答えた。すると幸子が「似てないね」と吐き捨てるように言った。そこで、おれが3人は赤の他人だと言うと、幸子は「そうか」と興味なさそうに答えた。萌が勇気を振り絞って幸子に「お腹はすいていますか」と聞くと、「別に」と答えた。幸子が「テレビはないの?」と聞くので、「ない」とおれが答えると、あからさまに不服そうな顔になった。4人で話をする話題は特別何もなかった。しょうがないのでおれが「出身はどこ?」と聞くと、「そんなの関係ないだろ」と男言葉で突っぱねられて、おれの体は条件反射のように硬直した。

 「喉乾いたからビールが飲みたいんだけど、ビールはないの?」と聞いてきたので、おれがストックしておいたビールを3缶出してきた。ビールを飲むのは幸子とおれだけで、あとの二人はお茶を飲むことになった。どうしたわけかみんなでビールとお茶で乾杯した。幸子は一気に缶ビールを飲み干し、すぐに残りのもう一缶に手を出して呑んだ。おれは最初の一缶をちびちびと呑んでいた。幸子が2缶飲み干すと、もっとビールはないのかと要求してきた。明らかに傍若無人である。しかたがないので、おれは大事にしまっておいた一升瓶の焼酎を出すことにした。幸子は「ハイボールにするから炭酸はないの?」と聞くので、「ない」とはっきり言うと、ふて腐れたように「水でいい」と言った。萌が立ち上がって、電気ポットに水を汲んできた。焼酎がもの凄いスピードでなくなっていった。おれはハラハラしてそれを見守っていたが、途中からおれも負けずに呑むことに決めた。しかし、幸子は手元においた一升瓶を話すことはなく、おれは呑めなかった。幸子が「なにかつまみはないの」と言い出して、萌は食堂で野菜炒めを作って出した。幸子は遠慮することなく一人で食べた。するとじいさんはすでに封が切ってあったピーナツチョコをみんなの前に出した。幸子は袋を手に取って、5個ずつ口の中に入れた。ワイルドだ。

 幸子が「湿っぽいわね。景気づけに何か歌ってよ」と言い出した。するとじいさんが「わたしが歌います」と手を上げて、「幸せなら手を叩こう」とゆっくり歌い始めた。すると、萌が歌に合わせて手を叩き、次に幸子が手を叩いたので、おれも手を叩かざるを得なくなった。みんなで手を叩いているうちに、どうしたわけか本当に幸せな気分になっていった。気づくとじいさんは溝の切れたレコード盤のように、「幸せなら手を叩こう」を無限に繰り返していた。叩く手がしびれてきた。近所に家は一軒もない野山の一軒家といっていいようなアパートだったので、いくら大声を上げて騒いでも誰からも苦情が来ることはなかった。だが、幸子が来る今日までこんな騒がしい日は一日もなかった。たとえ、じいさんと萌の二人が増えたからといってもだ。

 宴会はいつ以来だろう。工務店で働いていた頃は、年に何回かは会社で宴会があった。みんなで呑んで歌った。そうした時代が思い出されたが、今の今までそうした時代を思い出したことはなかった。それにしても、宴会で「幸せなら手を叩こう」を歌った奴はいなかったような気がする。小学校の頃、修学旅行のバスの中で誰かが歌ったかもしれない。それにしてもどうしてこんな歌を今でも覚えているのだろう。

 幸子が「よしわかった。じいちゃん、幸せなのはわかったから」と言って、じいさんの歌はようやく終わった。おれは壊れたレコード盤から針を上げてくれた幸子に感謝した。しばらく沈黙が続くと、じいさんが唐突に「私、予言をします」と言い出した。すると幸子は「よっ、待ってました」と掛け声をかけた。とにかく幸子の声はでかい。じいさんは「あなたは明日からここに住みます」と重々しく言うと、幸子は「今晩からの間違いじゃないの?」と言ったので、じいさんは恥ずかしそうに「今晩の間違いでした」と頭を掻いて訂正し、みんなで笑った。幸子が「他の予言はできないの?」と聞くので、じいさんが「あなたは幸せになるでしょう」と言うと、幸子は「もう十分幸せよ」と答えた。そして「ああ、面白くない。今度は私が予言してあげる。予言くらい、景気よくいかないと」と言って目を閉じた。「ああ、見えてきました。このアパートはこれからどんどん賑やかになっていくでしょう」とそれらしく呟いた。おれは賑やかになって欲しくはなかったので少しも嬉しくはなかったが、じいさんと萌は二人して喜んでいた。萌が「本当ですか」と聞くと、幸子は両目を大きく開き「大丈夫よ。私がいるんだから」と確信があるかのように答えた。

 幸子が寝ると言ったので、深夜まで続いた大団円はようやく終わりを告げた。一升瓶が空いて横たわっていた。言っちゃあ悪いが、おれはコップ一杯しか呑んでいない。幸子は萌の隣の部屋に寝ることになった。部屋は萌がいつの間にか掃除をしてくれていた。布団は最近購入した萌の布団を半分分けた。幸子が風呂に入りたいと言い出したので、萌が風呂を沸かした。

 みんなが寝静まった頃、おれは幸子に夜這いをかけた。じいさんは夜這いをかける元気はないはずである。出会い系サイトで会ったのだから、夜這いをかけられるくらい彼女も承知しているだろう。彼女の方が期待しているかもしれない。それに一宿一飯の恩義というものがあるはずだ、とそんなふうに自分に都合の良いことばかりを考えていた。

 部屋に鍵はかかっていなかった。幸子は豪快にいびきをかいていた。おれは幸子の布団の中にそっと侵入した。すると、幸子の体に伸ばしたおれの腕が逆に捻られ、おれはあまりの痛さで「ぎゃー」と大声を出してしまった。それから幸子はおれをうつぶせにして、おれの上に顔を足に向けてまたがり、おれの両足を彼女の両脇に固めて、おれをエビぞりにした。これはプロレスで言う逆エビ固めだ。おれは必死で「参った、参った」と言いながら、右手で畳を何度も叩いた。すると幸子は技をほどいてくれた。これがプロレスのルールだ。おれがほっとしたのもつかの間、おれを仰向けにして、おれの両足首を彼女の脇に抱え込んで、自分を軸にして独楽のようにぐるぐると回り始めた。これはプロレスで言うジャイアントスイングだ。おれは頭に血が上ってきて、「ひゃあー」と叫んだ。おれの声で起こされた二人が、部屋のドアを開けて電気をつけ、このおれの無残な場面を目撃した。萌が大きな声で「やめてください」と言った。その言葉で、幸子はでかいバッグを放るようにしておれを無造作に畳の上に放り投げた。おれの目は回っていたし、頭に血が上り、はらわたはひっくり返って、今にも吐きそうだった。幸子は両腕を上げてガッツポーズを作った。そして「久しぶりに良い運動になった」と言って、無邪気に喜んでいた。じいさんもとても嬉しそうに拍手をしていた。萌はおれに近寄ってきて「大丈夫ですか」と労わってくれた。おれが吐きそうになったので、萌は走って風呂場に行き、洗面器を持って戻って来た。萌が背中を撫でてくれたが、おれはなんとか吐かずにすんだ。この時、萌はつくづくいい奴だと思った。

 幸子はそのままアパートに居ついた。話を聞くと、幸子は少し前まで本物のプロレスラーだったということが分かった。でも、中堅レスラーでテレビにはほとんど出ていなかったらしい。華やかさに欠けているので、悪役レスラーとして恐ろしいメイクをして、反則ばかりしていたが、結局は負けてばかりいるらしかった。それがある日、駆け出しのアイドルレスラーの稽古相手にさせられ、サンドバックのように蹴られたり殴られたりしたので、ついに堪忍袋の緒が切れて、アイドルレスラーに関節技を極めて腕を折り、首になってしまったというのだ。それからしばらくの間レスラー仲間の部屋を転々としていたが、それもできなくなり、今晩どこにとまろうかと思っていた時に、おれに声をかけられたそうなのだ。どうりで、流れるようにプロレス技を仕掛けてくる。今度、原爆固め(ジャーマンスープレックスホールド)をかけてあげると言われたが、おれは断固として断った。幸子と酒を飲むときはくれぐれも気を付けなければならない。おれの夜這いのことは二人には黙っていてくれた。プロレスの技を見せてあげてたんだ、と幸子が二人に説明した。武士の情けと言うところだろうか。

 こうして、おれたちは4人で暮らすことになった。料理、洗濯、掃除などの家事一切は、相変わらず萌がやってくれた。幸子はこうしたことをまったくやらない。多分これまでやったことがないのだろう。プロレスの新人の頃はやらされたはずなのだが、しらばっくれている。とりえと言ってはなんだが、買い物に行ったときにたくさんの荷物を持ってくれることくらいだ。しかし、そのほとんどは彼女が呑むアルコールの類だったのだが。

 彼女が酒を飲むので、生活費がかさむようになった。おれはじいさんを連れて競馬に行ったが、あれ以来万馬券は出なかった。おれ自身の予想はすべて外れるようになったので、じいさんの予言通りにしたが、それでも勝率は五分五分だった。競馬では4人の生活費を賄えなくなってしまった。おれは競馬以外金を稼ぐ手段を考え付かなかったので、これからどうするかと思案していた。

 ある日の夕食の時、幸子が「明日から駅前のキャバクラで働くことになったから、金の前借をしておいた」と言って、おもむろに封筒を食卓においた。中には20万円入っていた。おれは一瞬幸子が何を言い出したのかわからなかった。幸子とキャバクラという単語が結びつかなかったのだ。幸子のような色気もへったくれもないごつい女をキャバクラは雇ってくれるのだろうか? 容姿は人の好き好きもあるだろうから筋肉質を好む男も中にはいるかもしれないし、顔は化粧をすれば変身できるかもしれない。それでも、アルコールを飲んで客にプロレス技をかけて怪我をさせるんではないかという心配まで浮かんできた。しかし、じいさんは喜んでいた。萌はそれなら私もキャバクラで働きますと言い出したが、幸子が「あんたは家事をしてればいいから」と言った。じいさんや萌だけでなく、幸子もキャバクラがどういうところかわかっているのだろうかと不安になった。幸子にキャバクラがどういうところか知っているか聞くと、知らないけど大丈夫だと言った。プロレスを経験した人間に怖いものはない、と真顔で言い切った。

 予想外に、幸子はキャバクラで人気者になったようだ。もちろんジャージ姿ではなく、店から提供された衣装を着ていた。おれはキャバクラで働くドレス姿の幸子を想像することができないし、したいとも思わない。

 幸子はガンガン飲むので売り上げにも貢献し、店としても重宝しているらしい。勤めて一週間も経たないうちに、店の車がアパートまで来て、送り迎えされるようになった。彼女は給料袋を萌に渡した。おれは信用ないらしい。それはおれだってわかっている。これで萌が正式に我々の金庫番になった。とにかく、幸子のおかげでお金に心配なく安心して生活できるようになった。じいさんは散歩と言う名の徘徊を続け、萌は毎日家事に忙しく、おれはたまに一人で競馬に行って負けてきた。小遣いは萌が内緒でくれた。幸子もそのことに薄々気づいているようだったが、知らぬふりをしてくれた。


                  つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ