2 じいさんとの共同生活
2 じいさんとの共同生活
おれの住んでいるアパートは、築60年を超える木造の二階建てである。入口に「麦川アパート」とやっと文字が識別できる古びた看板がかかっている。「麦川」と書いて「むぎがわ」と読むんだと大家から教わっていた。近くに麦川という川があるわけではない。
おそらく建てられた頃は、どこかの会社の寮だったのかもしれない。入口の横には住み込みの管理人の部屋らしき六畳間と四畳半の続きの部屋があった。一階には他に調理場と食堂、風呂、便所、洗面所があり、それに押入れのついた六畳の部屋が2部屋あった。二階には六畳の部屋が10部屋と共同便所と洗面所があった。
おれがこのアパートに入った理由は、家賃がとびっきり安かったからだ。それは安いはずである。ここに人が住んでいるなんて思う人はいないくらい、外から見ると蔦が絡まって廃墟同然だからだ。アパートの中に入っても同じようなもので、廊下を歩くとミシミシと音がする。このボロさだけでも誰も住もうと思わないはずだ。加えて、交通の便が悪い。鉄道の駅からバスに乗り継いで、さらに徒歩で20分もかけてやっとこのアパートにやっとたどり着くことができる。学校や働きに行くには、あまりに不便である。入居した時(多分5年くらい前になるが正確な年数は覚えていない)、このアパートの住人は誰もいなかったし、現在もおれ以外誰もいない。
おれはどうかって? 別に定職についているわけではないし、屋根と壁があって雨露を防ぐことができればそれで十分なので、このアパートが気に入っている。おれ以外だれもいないので、当然おれのことをとやかく言ってくる者もいない。こんな天国みたいなところは、そうそう他にはないだろう。時々、何ヶ月も滞ったアパート代を、近所に住む農家の大家にまとめて払えばいいだけだ。ある時払いの催促なしだ。アパート代を払うと、大家はジャガイモやタマネギ、ニンジンなどの収穫した野菜をたんまりと分けてくれる。だが、時々考えるのだが、おれは家賃を払うんじゃなくて、管理人として大家から手当をもらってもいいのではないかと思える。だって、台風の後など、雨漏りがしたらおれが修理しているんだから。だけど、へんなことを言って大家にへそを曲げられ、アパートを追い出されたら、元も子もなくなってしまう。安い金で雨露をしのぎ、電気が通り、水が飲める生活は、それだけで満足である。わざわざおれから波風を立てる必要はない。大工仕事なんて、お茶の子さいさいなんだから。
おれについてきたじいさんは、別段このぼろアパートを見ても何の不平ももらさなかった。おれの部屋は2階の東の端にあり、そこで一緒に住むことになった。何もない殺風景な部屋だった。「お茶でも飲むかい」と聞くと、「はい」と応えた。部屋には水道もきていないので、洗面所で電気ポットに水を汲み、沸かした。湯呑は一つしかないので、じいさんに湯呑に入れたお茶を出し、おれはご飯茶碗でお茶を飲んだ。話題もないので、じいさんに「人が幸せになるかどうか、どうしてわかるんだ?」と聞いた。じいさんは「なんとなくです」と答えた。おれはもう少し、オーラや気が立ち込めているようなもっともらしい答えを期待していたので、肩透かしをくった。その人はいったいいつ幸せになるのかと聞くと「いつかです」と答えた。じいさんからうさん臭さがぬぐえないので、話を深かめていこうとも思わなくなった。万が一、このじいさんが、人が幸せになることを当てられたとしても、それで金儲けができそうだとは思えなかった。当たり馬券がわかるならば、おれだって話を真剣に聞くのに、馬券を外れた方が幸せになるって言われたからには、幸せと不幸せはもはやどうでもいいことである。世の中のみんなが幸せであると言えば、幸せであると思えるし、不幸せと言えばそうであるように思う。他人がとやかく言うことではない。でも、急に病のために死の宣告を受けた人や、突然交通事故に遭った人、道端で通り魔に遭った人、テロにあって手足がなくなった人は、間違いなく不幸だと思う。そう言う人たちにも「あなたは幸せです」というのは、ペテン師が使う言葉だろう。まともな神経を持っている人間ならば、かれらに投げかける言葉を持たないはずだ。気休めに、幸せになれますよ、なんて言葉を真顔でかける勇気は誰もないはずだ。目の前のじいさんは、そういう人を前にして、「あなたは幸せです」と言うのだろうか? かれにはそうした人たちにも幸せな未来が見えるのだろうか? かれは何を見ているのだろうか? そもそも、かれには自分自身の未来が見えているのだろうか?
「おれは幸せになれるの?」
「はい」
「それは間違いないの」
「はい。実際、いまも幸せでしょう」
「確かに気ままに生きているけど、これが幸せなの? やっぱり競馬で万馬券を当てた方が幸せだよ」
「そうですか」
「じいさんは幸せになるの」
「わたしはいつも幸せです」
「だけど、金を持っていないし、寝る家もないじゃない。昨日はどこに泊ったの?」
「昨日ですか。昨日のことは忘れてしまいました。過去は忘れるためにあるのです。未来は忘れることができませんから」
「そりゃあ、そうだ。未来を忘れることはできないよな。なかなかうまいことを言うね。だけど、過去のこと、何にも覚えていないの?」
「過去を覚えておく必要がありませんからね。待っているのは未来だけです」
「なんかすごいポジティブなんだね。そうだよな。負けたレースのことを覚えていたって、くよくよするだけで、何のプラスにもならないよな。じいさんの話を聞いていたら、おれも少し幸せになれそうな気になってきたよ」
「あなたは幸せです」
「じゃあ、明日も競馬に行くか。軍資金はあるしな」
「そうしましょう」
「じゃあ、今日は寝よう。じいさん、いびきをかくかい。分からないか。そうだよな。おれも自分のことわからないから。いびきかくんだったら、隣の部屋で寝てもらおうかと思ったんだけど、隣の部屋を掃除するのも面倒だから、今晩はおれの部屋でいいか。煎餅布団だけど、この布団を使ってよ。おれは毛布で十分だから。えっ、歯磨きするの? ナップサックに歯ブラシや歯磨き粉が入っているのね。洗面所わかるよな。出てすぐだから。意外ときれい好きなんだな」
翌日、二人で連れ立って競馬場に行った。早速、じいさんに幸せになる人を探してもらって、その人が買った馬券の番号を教えてもらった。しかし、いきなり外れた。それでもじいさんはあの人の幸せは馬券が外れたことだと、にべもなく言った。どうせそんな言い訳をするだろうと思って、今日は腹も立たなかった。そこで、おれは幸せになる奴を3人選んでもらって、その人たちと同じ馬券を買うことにした。それでこのレースは勝率が3分の2になったが、本命が当たっただけなので、たいした儲けにはなっていない。よしこうなったら、もっと多くの人を調査して一番多い番号を買うことにしたが、じいさんの動きが鈍いので3人から聞き出すことが限界だということがわかった。そこでおれは二人で手分けして馬券の番号を聞き出すことにした。なかなかいい考えだろう。じいさんから幸せになる奴を5人物色してもらったが、その5人ともが警戒しておれに買った番号を教えてくれなかった。冷静に考えると、普通は教えてくれないものだ。かれらの中にはお金を払って予想屋から教えてもらった者もいれば、それぞれ独自に研究していて、それを見ず知らずの人間に教えることはない。これが競馬場の常識だ。じいさんが幸せになる人がわかるって言っていたが、じいさんにあっさりと番号を教えることの方が不思議なことなのかも知れない。じいさんは他人に警戒心を持たれずにすんなり受け入れられる不思議な魅力を持っているのだろう。いや、魅力という言葉はじいさんには当てはまらない。どう見ても、ただの徘徊老人にしか見えないからだ。どちらかというと、怪しいじいさんの方がふさわしい。
ふと、おれは自分が頭を使っていないことに気づいて、これではギャンブラーの名折れだと思い直し、幸せになる3人の奴と自分の予想を合わせて4種類の馬券を買った。それなのに、どれも当たらなかった。おれはじいさんに「馬券が当たらない方が幸せなる人が多いのか?」と聞いた。じいさんは「どうもそうかも知れませんね」と他人事のように答えた。もう少し真剣に考えて欲しいと思ったが、真剣に考えたからと言って、じいさんの予言が当たるわけではないだろう。
それでも馬券が当たって幸せになる人と、馬券が外れて幸せになる人の違いって、いったいどこにあるんだろう。そんなことを考えても、答えは出てこない。おれは万馬券が当たって幸せになる人間なのだ。それをじいさんは当てたって言ってたじゃないか。待てよ、じいさんにしてみればおれは幸せになる人間がわかっただけで、本当は万馬券を当てることはわかっていなかったんじゃないのか。もしかすると、万馬券を当てようが外れようが、おれは幸せになるんじゃないだろうか? まさか、じいさんと知り合って、同居するようになったことが幸せになるってことか? いくらなんでもそれはないよな。そんな幸せなんていらないよ。でも、じいさんは幸せになったんじゃないのか?
おれの幸せとは万馬券に当たることではなくて、じいさんと同居すること? いくらなんでも、そんなことはない。おれの幸せは万馬券が当たって、金持ちになることだ。とにかくじいさんに当たり券を教えてもらわなければ。いつまでも外していたら、じいさんを捨てて帰るぞ。
それからも、幸せになる3人とおれの予想の馬券を買い続けて、結局一日のトータルがトントンだった。負けないことは勝つことと同じくらい珍しいことだったが、それは空しい一日だった。じいさんだけが行ったり来たりしてせわしい一日となって、じいさんは疲労困憊した。この行動を見ると、じいさんの真面目さだけはわかった。少なくともおれを騙そうとは思っていないようだ。じいさんは当然のようにその日もおれについてアパートに戻った。帰宅途中、ラーメン屋に入って、ラーメンと餃子を注文した。じいさんはラーメンだけだ。それなのにじいさんは手を伸ばして、おれの餃子を5個中3個も食べた。セコイ奴とは思われたくないが、おれは心の中でむっと来た。おれは生ビールをグイッと飲んだ。駅前のスーパーマーケットで、米と野菜と味噌を買った。じいさんは知らん顔をしてピーナツチョコをおれの買い物かごに入れた。おれはその代金も払った。
じいさんとおれの共同生活が始まり、毎日のごとく二人で競馬場に通った。不思議と競馬で生活費が賄えるようになっていった。おれは以前たまに行っていた土木作業の仕事にも出なくなり、運動不足で体がなまっていった。じいさんは、競馬に行かない日は、ふらっと何時間も散歩に出かけた。最初に見かけなくなった時は、おれとの生活に飽きてどこかへ去って行ってしまったのだろうと思った。おれは別段探しはしなかった。ある時は、いない時間が長く、外が暗くなってきたので、帰り道がわからなくなって彷徨っているのではないかと少し心配になった。しかし、かれはちゃんとアパートに帰ってきた。それを見ると、本当はボケてはいないのかもしれないと思うこともあったが、どこか浮世離れしていることだけは確かだった。
じいさんに「明日、競馬に行くぞ」と言うと、嬉しそうに「はい」と返事した。じいさんはピーナツチョコを食べながら、馬が走るのを楽しそうに見ている。
つづく