16 浜辺のジェンカ
16 浜辺のジェンカ
そろそろ夏も終わりなのか、うっとおしい長雨が続き、肌寒くなってきた。
朝の食堂で、じいさんが顔を上げ、ぽつりと「再来週の日曜日に、みんなで海に行きましょう」と言った。全員顔を見合わせた。じいさんがまっとうな言葉を吐くのは久しぶりだからだ。一瞬、認知症が進行したのではないかと思ったが、いつもと違って言葉がはっきりとしている。おれは無視しようと思ったが、美咲が「いいね。久しぶりにみんなで海に行きますか」と明るく言うと、どうしたわけかみんながそれに同調した。お調子者のおれは「そうだよな。みんなで海に行くのは何年ぶりだろうな。5年ぶりか。よし行くか」と言った。全員盛り上がった。すると未来が「でも再来週の日曜日は雨じゃないの」と、全員現実に戻され、誰かが「そうだよね。寒いよね」と言った。みんな高揚した気分が萎えていくようだった。すると、じいさんが「大丈夫です。再来週の日曜日は晴れて暖かくなります」としっかりした口調で言った。舞がスマホを開いて天気予報を見たが、再来週の日曜日は雨だった。それでもじいさんは「大丈夫です。萌ちゃんや幸子ちゃん、七海ちゃん、ピラミッドの人たち、それに学校の子供たちもみんな誘って海に行きましょう」と言い出した。ピラミッドでは少なくとも1000人は働いているし、子供たちも500人はいるので、民族大移動のような壮大な話に思えてきた。それはいくらなんでも無理だろう、と言おうとしたら、舞が「さすが、じいちゃん。スケールが違うね」と弾むような声で褒めた。みんなじいさんの催眠術にかかったように、表情が生き生きとしてきた。ハーメルンの笛吹に連れ去られる子供たちは、きっとこんな表情をしていたのだろう。おれは若者のようにうきうきとはできなかったが、若者たちが行くのならばいつものようにそれに従うだけである。
「学校の子供たちは、萌が号令をかければ海に行くと思うけれど、ピラミッドで働いている村の人たちは、いくら萌が言っても難しいんじゃないの?」ともっともな意見が出た。結局、おれが萌に相談する役を押し付けられた。そもそも萌が同意しなければ実現できないプランなのだ。じいさんはいつのまにかウトウトと船を漕いで寝ていた。それにしても、さっきのじいさんの元気の良い発言は何だったのだろう。お告げでもきたのだろうか? それとも蝋燭の残り火が一瞬燃え上がったのだろうか? どちらにしても、もし千人以上の人が海に行ったならば、それはそれでこの村始まって以来の壮大なフェスティバルになるのだ。
おれが萌にじいさんの提案を話すと、萌は喜んで即座に海に行くことに賛成した。学校の子供たちを全員海に行かせることも承諾した。ピラミッドの連中をみんな連れて行くのは無理だろうと言うと、少し考えて、何か閃いたように「できます」と断言した。この日曜日のお祈りの時間に、教祖のふりをしているおれが口を開いて、「来週の日曜日にみんなで海に行きましょう。ピラミッドにいる人は一人も欠けてはいけません。みんな幸せになれます」と託宣を述べればいいというのだ。たしかに、それならみんな海に行くかもしれない。なにしろ教祖の待ちに待った初めてのお告げなのだから。そして信者ではない人たちも、信者たちが必死にみんなを説得して海に行かせるだろう。教祖になるのも悪くはないな、と思った。それにしても、初めて口にする言葉が「海に行こう」というのは、ニセの教祖でもなんか情けないような気がした。かっこつけてもっと威厳のあるかっこいい言葉を吐きたかった。それがただのピクニックの誘いではないか。おれが教祖役だから、しかたないか。いずれにしても、信者たちは他の人たちを懸命に説得して回り、あろうことかすべての人が海に行くことに同意した。「幸せになる」という言葉がみんなを引きつけたようだ。こんなに金持ちになったのに、まだ幸せではないのだろうか? 心の中に満たされない何かがくすぶっているのだろうか?
来週の日曜日はピラミッド全体が閉鎖されることが、テレビや新聞で報道され、世界にも発信された。ピラミッド開店以来、初めての全面休業である。
それにしてもピラミッドで働いている人は1000人はおり、学校の子供たちも500人はいる。合わせて1500人だ。それをどうやって海に連れて行くのだろう。公共交通機関では無理だ。そこで、萌は学校の修学旅行だと思えばいいのだからと、50人乗りのバスを40台チャーターすることにした。萌は手際がいい。
当日の朝はじいさんの言った通り、晴れた。信者たちは教祖の予言が当たった、と太陽に向かって手を合わせ「シュワッーチ」を何度も唱えた。なんか宗教らしい光景で、おれは単純に感動した。それでも、おれたちアパートの住人は、この日晴れたのはじいさんの予言が当たったのではなく、ただの偶然だと思った。つくづくみんな無神論者である。
麦川アパートの住人は萌が手配してくれたマイクロバスで海に向かった。季節外れの海は、おれたち1500人の御一行様以外は誰もいなかった。だが、そこに海の家が夏の最盛期のように何十件も並んでいた。萌が手配してくれたのだ。それに、浜にはプロレスのリングが設営されていた。幸子がアトラクションとしてプロレスをやるというのだろう。
アパートの住人は海に着くと早速、服を脱ぎ、すでに着ていた水着になった。いつもは農業女子なのに、今日はビキニ女になった。おれは眩しと思ったら、農業で真っ黒に日焼けした肌と服の下の白い肌のコントラストが鮮やかになり、パンダのような白黒まだらな滑稽な水着姿となった。若者たちは互いの肌の色をひとしきり笑い合い、それから海に入って水をかけあった。大きな浮輪にぶら下がったり、ボートに乗ったり、男たちとビーチバレーを楽しんだ。
プロレスが始まった。外国人プロレスラーもおり、ビキニのプロレスラーもいて、男たちの歓声が飛んだ。今日は、悪役も正義役もない。マスク姿の「ザ・スワン」の華麗な空中殺法が太陽の下に映えた。メインエベントは、やっぱり幸子だ。ひときわ高い歓声が飛んだ。対戦レスラーがスイカを手に取り、幸子の頭にスイカをぶつけた。幸子は大げさに倒れた。対戦相手は割れた破片を観客に配って歩いた。みんなそれを美味しそうに食べた。倒れていた幸子は起き上がり、対戦相手にジャイアントスイングをかけて振り回すと、みんなで一緒にその回数を大きな声で数えた。20回まわすと、幸子もその場に仰向けに倒れた。レフリーがカウントを数え、両者ノックダウンで引き分けとなった。幸子がリングから降りると、たくさんの観客が幸子に群がってきた。幸子はその人たちを引き連れて海に入り、一人ひとりにブレーンバスターをかけた。みんな嬉しそうだった。
ずっと気になっていたことであるが、浜の一角に巨大な鍋があり、そこからカレーの良い香が立ち上っていた。麦川アパートの住人が昨日から準備していたのは、カレーの下ごしらえだったのだ。彼女たちは千五百人分のカレーを準備していた。カレーの中には、アパートの農園で収穫したいろいろな野菜、もちろんトマトも入り、それにクルミなどのナッツ類も入っていた。熱い太陽の下で、汗をかきながらカレーを食べた。とても美味しい。でもまさか、この中の牛肉はうちの牛さんではないだろうな、とおれは少し心配になった。彼女たちならやりかねないからだ。でも、おれは美味しく牛肉を食べた。
カレーを食べ終わった後、かき氷を食べたりソフトクリームを食べている者がいる。工事用の青いビニールシートの上でみんな横になった。そこにアパートの連中が「レットキス」を歌い始めて、ジェンカを踊り出した。あちこちにジェンカの列ができ、それがつながっていき、最終的に1500人の大行進ができて、みんながそろって足を上げて進んでいった。みんな気持ちよさそうだった。
そんな時だった。巨大な地震が起こったのは。地鳴りが聞こえたかと思ったら、大地が激しく揺れた。ジェンカを踊っていたみんなは地面に伏せた。悲鳴が聞こえた。砂浜が海に流れて行って、自分たちも砂と一緒に海に押し流されるのではないかという恐怖に襲われたが、そんなことはなかった。何分続いたのだろう。遠くでサイレンがけたたましく鳴っていた。誰かがラジオをつけた。誰かがスマホを見た。巨大地震が起こり、いくつもの建造物が倒壊し、鉄道は不通となったという。辺り一帯停電になったようだ。萌はプロレスのリングの上に立って、マイクで津波が来るかもしれないので、全員高台に避難しようと叫んだ。みんなそれに従った。高台に3時間いたが、幸いなことに津波は来なかった。
震源地は我々の村で震度7と発表された。活断層があったのだ。ピラミッドは活断層の真上に立っていて、倒壊したピラミッドがワンセグに映し出された。放心状態になるものや、泣き出すものがいたが、村人は全員海に来ていたので助かった。
高台の上で、おれはじいさんを探した。じいさんがいない。すると、幸子が海を指さして「あれ、じいちゃんじゃない」と言った。遠くからではっきりとわからないが、凪の海を一人ゆったりとクロールで沖に向かって泳いでいる人間がいた。それがじいさんであることは、アパートの連中ならみんな確信を持てた。幸子が走り、萌が走り、彩乃が走り、おれが走り、麦川アパートの若者が全員走り、その後に1500人全員が走って坂を下った。じいさんは沖に向かって泳いでいたが、その手は段々上がらなくなって、いつしか姿が見えなくなっていった。
つづく




