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麦川アパート物語  作者: 美祢林太郎
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10 カレー殺人未遂事件

10 カレー殺人未遂事件


 その日は大変だった。文化祭の会場に救急車が何台も来て、何十人もが病院に運ばれた。症状は嘔吐、下痢、腹痛だった。マスコミによると、阿鼻叫喚の図が展開されたことになる。おれはいくらなんでも阿鼻叫喚の表現は少し大げさだろうと思っている。

 パトカーが何台も来て、警察官が聞き取り調査を行って、腹痛になった人たち全員がカレーを食べたことがすぐに判明した。食中毒なのか毒物混入なのか、鑑識がカレーやその材料、そして包丁や鍋などの一切合切を持ち帰って詳しく調べることになったが、すぐに原因が判明するわけではなさそうだった。当然、その日の文化祭は中止になった。自治会長は警察から聴取を受けていた。元気なところを見ると、かれはカレーを食べていないのだ。そう言えば、昼間から年寄り連中は酒ばかり飲んでいた。田舎の祭はそんなものだろう。

 それが一晩入院したら、翌日にはみんな何事もなかったように退院した。

 アパートの住人も一人が救急車で運ばれたが、入院することもなくすぐにアパートに戻ってきた。それが幸子だ。幸子はカレーを3杯もお代わりしたのだから、病院に運ばれるくらいはしかたのないことだ。おれは警察には黙っていたが、あの会場で一番たくさんカレーを食べたのは間違いなく幸子だということを知っている。それが入院せずに済んだのだから、やっぱり幸子は超人である、とおれは確信した。アパートの住人は全員カレーを食べたので腹痛を起こしたが、深夜になる頃にはみんな回復して、元気のなかった萌の代わりに未来が作ってくれた温かい味噌汁を飲んだ。胃が癒された。じいさんが一番心配されたが、カレーを食べたはずなのにいつもと変わらず飄々としていた。もしかして、じいさんはカレーを食べなかったのだろうか。じいさんはみんなが苦しむのを見ても「大丈夫、大丈夫」と言って声をかけていた。そう言えば、じいさんが慌てるところを見たことがない。いつも一人で余裕をぶちかましているようだ。

 事件の翌日、アパートの前はカメラやマイクを持ったマスコミ関係者でごった返していた。萌が出ていくと、最前列の女のレポーターにいきなりマイクを突きつけられて、「今回のカレー殺人事件についてどう思われますか」と聞かれたが、萌は驚くほど冷静に「どなたか亡くなったのですか?」と聞き返した。するとレポーターはおたおたして「いえ、まだ誰も亡くなった方はいらっしゃいませんが、今回のカレー、カレー・・・・・・、カレー殺人未遂事件についてどう思われますか?」と改めて聞いてきた。萌は毅然と「いま、お話することはありません」と言って、玄関の戸を閉めた。外は怒号が飛び交っていた。

 食堂から「萌がテレビに写っているわよ」の声が聞こえたので、みんなぞろぞろと食堂に集合した。いまアパートが朝のワイドショーで実況中継されている。それも一局だけでなく、NHK教育テレビを除いた地上波すべてである。「おおごとになってきたね」と明日香がすっとぼけた声を上げたが、その声に反応する者は誰もいなかった。

 テレビで首から下の女性の映像とそのコメントが流れた。

「わたしたちカレーを作っていたんですが、文化祭の開会の挨拶があるからと全員講堂に呼ばれたんです。あのアパートの二人の女性がカレーの番をするためにあの場に残ったんです。そうです、そうです。彼女たちが残ると言ったんです。開会の挨拶は10分くらいでしたかね。挨拶が終わって私たちはすぐにみんなでカレーのところに戻りました。朝からずっと調理していましたが、私たちがいる間は怪しい人は誰も見かけませんでした。いえ、決してカレーの番をしていた二人が怪しいなんて思っていませんよ。何も見たわけではないですし。決して彼女たちを疑っているわけではありませんよ」

「どう見てもこれ私たちを疑ってんじゃん。おい、玲奈、私たち何もしていないよな」

「するわけないじゃん」

そう言って、玲奈はワアーと泣き出し、テーブルに顔を伏せた。七海は「泣くなよ」と言って、自分も泣き出した。みんなは口々にテレビに向かって「このばばあ、ふざけやがって」と怒りを露わにした。おれは彼女たちの怒りを鎮めようとして「ちょっと落ち着こうぜ」と宥めたが、「これが落ち着いていられるか」と火に油を注いだようだった。おれも、そりゃあそうだよな、と思った。

みんなでテレビを食い入るように見つめた。番組が始まった頃にはテロップで「カレー殺人事件」となっていたものが、いつの間にか「カレー殺人未遂事件」に代わっていた。萌のあの時の指摘が反映されたのだろう。結局、誰も死ななかったのだ。

 スタジオの司会が喋った。

「昨日から救急車で搬送されて入院されておられた3名の方が無事に退院されたようです。病院にカメラを回します。中継の横山さん、横山さん、退院の模様をお願いします」

「はい、こちら病院の前におります横山です。病院の前からみなさん元気よく出ていらっしゃいました。大丈夫でしょうか?」

「はい。お騒がせしてすみません」

「昨夜はぐっすり寝られましたか?」

「はい」

「いまはどんな状態ですか?」

「病院の朝ご飯を全部食べて、快調です。今日もこれから畑仕事ですよ」

 レポーターたちは何か拍子が抜けたようで、帰り支度するカメラマンも出てきた。テレビのスタジオでは司会者が専門家に意見を求めていた。

「それでは先ほどの可能性として上げていただいた青酸カリやヒ素の混入はなかったとみて、間違いないんですね」

専門家は「それはないでしょう」と前言を翻して答えた。

「ふぐが混入されたということもないですか?」

「ふぐ毒のテトロドトキシンは神経毒ですから、そういうことも考えられませんね」

「トリカブトの毒も」

「アコニチンですか。それもないでしょう」

「すると考えられることは?」

「キノコは入っていたのですか? キノコの中にはツキヨタケやクサウラベニタケ、それにニガクリタケなどの毒キノコがありますからね。毎年、間違って食べて死ぬ人がいますからね」

「いえ、キノコは入っていなかったそうです。実際、警察の発表でもキノコは入っていなかったそうですね」

「それじゃあ、原因は食中毒ですか? 肉が腐っていたとか」

「集団食中毒ですか?」

「それにしても、新しく作ったカレーですよね。再加熱したカレーならばウェルシュ菌による食中毒は珍しくないんですが、新しく作ったカレーで集団食中毒はこれまで聞いたことがないですね」

「それでも食中毒なんですよね」

「食中毒を甘く見てはいけません。みなさん気を付けてください」

「それでは、いったんコマーシャルを」

 アパート前のレポーターやカメラマンが、ぞろぞろと引き上げていくのがわかった。テレビではコマーシャルの後、断りもなく違う話題に代わっていた。どのチャンネルも「カレー殺人未遂事件」のことから話題が変わった。アシスタントの女の子は「背伸びする猫が可愛いですね」と笑顔を振りまいていた。

 「おい、泣き止んだか。バカバカしかったよな。いったい何の騒動だったんだ。危うくおれたちが殺人者にされそうになったじゃないか」と幸子はまだ怒っていた。七海と玲奈は泣き止んでいた。萌は「朝ご飯がまだだったから、いまから準備するね」と言って、台所に立ってスクランブルエッグを作り始めた。そしてスクランブルエッグののった皿にレタスとトマトを添えた。

「なにか腑に落ちないよな。そもそもなんでおれたちが疑われなきゃいけないんだ」。幸子が不満をぶちまけた。

「SNSを見てよ。カレー殺人事件にハッシュタグがついてるわ。青酸カリやヒ素だとか、毒を盛ったって、いまだに書き込んでいる奴がいるわよ。アパートの写真も載っているわ」。未来が言った。

「そんなの見るなよ」と誰かが言った。

すると舞が「私たちが怪しいからじゃない」と言うと、幸子が「どこが怪しいんだよ。おれたち何か怪しいことしているか」と返した。「だって、一つのアパートにこれだけの女がいるんだよ」と舞が返した。幸子が「世の中に女子寮なんていっぱいあるだろう。それなら全部の女子寮が怪しいって言うのかよ」と言った。すると間髪入れず彩乃が「キャバクラに勤めているし」と言い、それに対して幸子が「おい、コンビニやラーメン屋に勤めてたら健全だって言うのか」と反論すると、みんなが口々に自分の意見を言い始めた。

「そう言えば、前におじいちゃんが小学生に声をかけて変態に間違われて警察が来たことがあるじゃない。それもあるんじゃない」

「あれは子供の単なる勘違いだろう。なんで私たちが白い目でみられなくっちゃあならないんだよ」

「まあ、まあ、それは解決したことだから」

「解決したのかよ? どうしてカレーを食べた奴がみんな食中毒になったんだよ。何が原因なんだよ」

「いま保健所が調べているそうよ」

三週間が経って、食中毒の原因が公表された。それはナンキンハゼという植物の種が原因だという記事が、地方新聞の片隅に書かれていた。テレビはそのことに何も触れなかった。ナンキンハゼの種は、ジテルペン酸エステルなどの有毒成分を含み、種に触れれば皮膚がかぶれ、食べれば嘔吐や下痢、腹痛を引き起こす、と小さな記事に書かれていた。

「ナンキンハゼって知ってる?」

「ちょっと待ってね、調べてみるから。ああ、これこれ。紅葉がきれいなんだって」

「ああ、これなら近所のお寺にあるんじゃない」

「そうね。ちょっと前まできれいな紅葉していたわよね。いまは白い実が垂れ下がっているけど」

「その実が毒なのよ」

「どうしてその実がカレーの中に入ったのよ?」

「さあ? みんなが食中毒したんだから、相当な量が入っていたんじゃないかと新聞に書かれているわ」

「同じ実でも、アーモンドやカシューナッツだったらよかったのにね」

「銀杏でも美味しいかもしれないわね」

「あんたたち能天気だわね」

「それにしても何でそんなものが入ったのよ。もしかしたら、それを入れたのが私たちだってまた言い始めるんじゃないの」

「ありうるわね。気を付けなくっちゃあね」


 ナンキンハゼの実を誰がカレーに入れたのかは結局謎のまま残ったし、マスコミはそのことに興味がなかったようで、取材に来ることはなかった。


 これは当事者以外他の誰も知らないことだが、小学生の子供の手がかぶれていたので、母親が問い質すと、ナンキンハゼの実をカレーに入れたことを白状した。子供が言うには、アーモンドカレーがあるのだから、この実も入れたらきっと美味しくなると思って入れたと言うのだ。母親は「二度とこんなことをしちゃあ駄目よ。そして、このことは誰にも言わないようにね」と子供に釘を刺した。他の子供の親もこの母親と同じようにした。母親たちはが示し合わせたわけではなかった。

 SNS上には、時々、カレー殺人事件のコメントが載っていた。SNS上ではアパートの女の子たちの嫌疑が晴れたわけではなかったのだ。


                つづく

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