8.夜の公園にて
俺が公園に着いた時、結衣はブランコに座って寒そうに背を丸めていた。
「さすがに、冷えてきた」と肩を震わす。
「家に帰ってりゃよかったろ」
「鍵をかけたじゃないか」
「お前がかけろって言うから」
コイツは多分いい奴なんだが、やることなすこと裏目に出るようだ。
俺は途中で寄ったコンビニの袋から、ホットの缶コーヒーを一本、彼女に渡した。彼女は小さくありがとう、と言って、それを受け取ると、両手で握った。
「そりゃ立ち漕ぎしてたら寒いだろ」結衣の隣のブランコに腰をおろすと、思ったより位置が低くて脚が窮屈だった。
「で、どうだった?」結衣がこちらを見つめる。
今さらだが、かわいい顔をしている。目が大きく、まつ毛が長い。
「ああ、怖い人のフリをしてみたんだがな、思いの外上手くいった。ムラタさんには悪かったな。無駄に怖い思いをさせてしまった」
「私も、最初お前が部屋に入って来た時は、『もうダメだ』と思った」
「まあ、普通は不法侵入している部屋に家主が帰って来たら、もうダメだろうな」
「だから、不思議な感じだ。なんでこんなに協力してもらえているのか、考えれば考えるほどワケが分からん」
「俺はお前がなんでスパイなんてやってるのか、さっぱりワケが分からんしな。世の中には分からんことばっかりだ。
だが、『肉のタナベ』の食品偽装疑惑については、事情が分かるかもしれない」
「私もそう思って、アプリを『リアルタイム・モード』に切り替えてる」結衣はそう言って、自分の耳を指差した。ポーチから伸びたコードが、イヤホンに繋がっている。
「どうだ?」と俺が聞くと、結衣は顔を横に振った。
「まだ、親父さんがいる。CMソングを考えてるが、あまり進歩はない」
「そうか。これ以上親父が無駄な努力を重ねる前に、お前の考えた歌を早く聞かせてやりたいな」
「きっと、これから店にスパイが入る。私は、そう推理したぞ」
「お前以外のスパイということか?」と俺は聞いた。コイツの推理にどの程度期待していいのか疑わしいとは思いながらも。
「そうだ。おかしいとは思ってたんだ。任務が発注されたのは、今朝のことだった。私はそれが、簡単な任務だから、私のような下っ端スパイにチャチャっと片付けさせたいのだと思ったが、それが再開発のために、店を立ち退かせるのが目的だとしたら、普通、今朝発注で明日の朝までに納品なんていう無茶なスケジュールにしないはずだ」
「おお。確かに」と俺はうなずいた。思っていたより俄然まともな導入だ。「つまり、お前が調査に入るのは、今日じゃなくてはならなかった?」
「そういうことだと思う。なぜかというと、今日、肉や書類に細工をするからだ」
「なるほど。そのためのスパイが、これから入るのか」
「私はそう考えたんだが、どうだろう」と結衣は俺に尋ねる。少し不安そうな顔をしている。
「いやお前、これキテるだろ。スパイの才能あるじゃないか」俺は本心から言った。
思い返せば、店の親父とムラタさんの会話を聞いた時も、結衣はすぐに内容を理解していた。おっちょこちょいなだけで、頭は良いのかもしれない。
結衣は照れくさそうにふふっ、と笑った。「褒められてうれしい」
しかも人懐っこい。
「じゃあ、その推理が正しいとして、俺たちはどうすればいい? どうすれば親父の店を守れて、どうすればお前の職場は納得する?」
「現場に踏み入るんだ。悪いスパイが細工をしている現場を押さえる。私は警察じゃないから、捕まえる必要まではない。
必要なのは、裁判で使えるレベルの確たる証拠じゃない。企業同士の交渉のネタになるくらいのものでいいんだ」
「よしよし。分かったぞ。俺がムラタさんに聞いた話と合わせれば5W1Hが揃うんじゃないか?」
そう言って、俺たちは互いの情報と考えをすり合わせた。
When:今日、まさにこれから
Where:『肉のタナベ』の事務所や冷蔵庫で
Who:『はなまる総合開発』とかいう会社とその子飼いのスパイが
What:『肉のタナベ』を
Why:再開発の用地として立ち退かせるために
How:食品偽装をでっち上げ、それを結衣に持ち帰らせようとする
「よし。この公園から店まではすぐだ。タイミングを逃すわけにはいかないぞ。親父さんは、もう店を出るところだ。お前も聞いておけ」と結衣は、イヤホンの片方を差し出す。
「おお……」と俺は思わず声を漏らした。
「お前、さては1つのイヤホンを2人で使うのは恋人っぽいと思っているな」
「いや、そこまではっきりとは……」
「やめろ。こっちも気になってくるだろ」
「ああ、悪い。大事な局面だもんな」
「そうだぞ」と念を押すようにしながら、もう一度それを差し出す。
俺はそれを受け取り、自分の耳へ……「届かない」
「ん? なんだって?」
「いや、コードが短くて届かない。というか、なんでコードレスじゃないんだ? スマホをハンズフリーにするなら、イヤホンもコードレスにすべきじゃないか?」
「だって、Bluetoothのヤツは高いし」
「ああ、そうだよな。何にだって予算ってものがある。大体、俺たちがブランコに座ってるのが悪いんだよ。ブランコとブランコの間に距離があるから。ベンチに行こう」
「お前、2人でベンチに座って1つのイヤホンってことになると、それはもう、いよいよそういう感じになるじゃないか」と結衣は今さらそう抗議する。
「いや、思ったんだがな、2人、夜の公園で並んでブランコ漕いでる時点で、はた目から見りゃもう、そう見えるんじゃないか? 何にしても、大事な場面だ。お互い、腹をくくろう」
「ああ……まあ、そう! 大事な場面、そうだよな!」
俺たちは2人、そうだそうだと言い合いながら、近くのベンチに並んだ。
と、その時である。
イヤホンから、カタカタと音が鳴り始め、やがて一声大きく乾いた高い音が響いた。
「来たっ!」俺たちはどちらが先ともなく声をあげる。
結衣が慌ててベンチから立ち上がると、それに引っ張られて俺の耳から、イヤホンがすっぽ抜けた。
「行くぞ!」と結衣は俺の手を握る。
ひんやりとして柔らかい手の感触が、俺を何となくムズがゆいような気分にさせた。
「よし来た。相棒」
結衣は強くうなずいた。「相棒! そう、それだ!」
俺たちは駆け出す。
公園に立つ2つの街灯から、行く手の塀に落ちた2つの影が、俺たちの目の前で重なった。