7.聴取
玄関を蹴破るように飛び出して、3歩踏み出したあたりで、結衣が俺を呼び止めた。
「鍵! 鍵をかけろ」
「時間がないだろ。別に盗られて困るようなものもない」
「これからは分からんだろ。こういうのは習慣だ。普段から鍵をかけるクセをつけないと、大事なものがあった時にもかけ忘れるぞ」
「なるほど、一理ある」俺のポケットに鍵が入っていたのはたまたまだったが、俺は結衣の言う通り、玄関に鍵をかけた。
それから俺たちは、気を取り直して駆け出した。ここから『肉のタナベ』まで、本気で走れば5分もかからない。
「なあ、ムラタさんは、良い人だと思うか?」と結衣が聞いてくる。
「俺にはそう思えたがな。回りくどい脅迫なんだとしたら、親父は飯を食って行けなんて言わないだろ」
「親父さんが騙されてるのでなければいいが」
「そうだな。ところで、行くのはいいが、どうするんだ?」
「私の都合で悪いが、情報は朝までに必要だ。もう、直接聞くのが一番早い。それをボイスレコーダーに録音して提出する」
「なるほど、なら、そのレコーダーを貸してくれ」
「なぜ」
「ムラタさんも、多分俺が聞いた方がしゃべりやすい。それに、お前は顔が割れない方がいいだろ」
「分かった。これをポケットに入れといてくれ」そう言って、結衣はポーチから単3電池くらいの大きさのレコーダーを取り出すと、スイッチを入れて俺に渡した。
そうしている間に、店はすぐそこだった。
うらぶれた商店街は、もうこの時間になると人通りはない。
店の中から声が聞こえて、俺たちは慌てて立ち止まり、路地裏に身を隠す。
──「すいません、図々しくご馳走になってしまって」
「俺ぁ、俺の作ったものを旨そうに食ってくれる奴のためにこの仕事をしてる。また来な」
「ええ。ありがとうございます。本当に、気をつけて」
「アンタこそ。気をつけて帰れよ」──
そういう挨拶が交わされた後で、靴音がこちらに近付いて来た。俺たちは、電気屋と婦人服店の間の小路で息を潜める。
その前を、こちらに気付かずスーツ姿のサラリーマンが通り過ぎて行った。ムラタさんに違いない。見たところ30過ぎといったところか。声を聞く限りもっと若いと思っていたが、俺よりは確実に歳上だ。
俺は足音を忍ばせて、小路から出ると、ムラタさんの後を追い、背後から声をかけた。「あんた、ムラタさんだな」
ムラタさんは、今にも口から心臓を吐き出しそうな顔をしてから、一目散に駆け出そうとする。俺は慌ててその肩を掴んだ。
「慌てなさんな。何も取って食おうってわけじゃない」ちょっと大物風を吹かしてみる。
「どちら様ですか……? 全く、何にも心当たりがありませんが」
「俺は、『ムラタさんだな』と聞いただけだが、これも何かの縁だろう。アンタが何について心当たりがないのか、聞かせてもらおうじゃないか」
ムラタさんは、気の毒なほど震え上がっている。
無理もない。自分より二回りもデカい男が夜道で背後から話しかけてきたら、俺だって怖い。俺はムラタさんを落ち着かせようと、なだめた。
「まあ、少しリラックスしてくれ。俺はアンタをどうにかしようってんじゃない。ただ、ここいらをウロついてる、『行儀の悪い地上げ屋』について、話を聞かせてもらいたいだけなのさ。
言うだろ?『敵の敵は味方』ってやつだ。俺はあんたの味方だよ。そういう意味において」
「わ……分かりました。話します」
「助かるよ。迷惑ついでに、何か資料のようなものがあると、なお良いんだが」俺が図々しくもそう頼むと、ムラタさんは肩から提げていた鞄をゴソゴソとやり、A3サイズの紙を1枚取り出して俺に寄越した。
「競合のリストです。赤字で書いてる企業は、強引な手法で業界でも評判が悪い」
「なるほど」
俺がその用紙を開くと、そこに並んだ会社名の1つを、ムラタさんは指差した。
『はなまる総合開発株式会社』と書かれている。
「かわいい社名だ」
「その会社が絡んだ地域では、必ず事件があるのは業界じゃ有名なんです。例えば、小火とか、食中毒とか。そういうので店舗がダメになったところを安く買い取る。必ず1件は、そういうのがある。何かあるとすれば、そこで間違いありません」
「で、タナベの親父んとこも狙われてると?」
「いや、なぜその話を? たった今ですよ?」
「言うだろ、『壁にミミあり障子にメアリ』って。いや、『アメリ』だったか?」
外国人風の名前の女はどこにでもいると言う意味だ、と俺は冗談を言ったが、これは全然ウケなかった。ただ、ムラタさんは少し冷静さを取り戻したらしい。少なくとも、俺が乱暴なことをするつもりがないことは伝わったようだ。
「タナベのコロッケは、僕が学生の頃から世話になってた地元の味だ。僕の仕事はね、変わって行く街や時代の中で、ああいう良い店や良い人たちが、生き残っていく方法を考えることなんです。
ただ土地を安く買い叩いて、そこにどデカい商業ビルをブチ建てた利ザヤから歩合を得ることしか考えない、小ズルい営業マンになるのはゴメンだ」
「俺には、難しい話は分からない。だが、アンタが熱い男だってことだけは分かった」
それからもう少し詳しく話を聞いて、ムラタさんと別れると、携帯電話に着信があった。二つ折りのガラケーを開く。知らない番号だ。
通話ボタンを押すなり、結衣の激しい抗議の声が鼓膜に突き刺さった。
「お前、長いぞ! 心細いだろうが!」
「そうか。悪かったな。ちょうど今、ムラタさんと別れたところだ。ところでお前、なんで俺の番号を知ってる?」
「連絡が取れないと困るだろ」
「聞き方が悪かった。動機じゃなくて、手段の方だ」
「そんなの、私はスパイだぞ。お前がトイレに行ってる間にササッと」
俺はもう少し凝った手口を期待していたが、とりあえず居場所を尋ねた。
「近くの公園だ。ブランコで立ち漕ぎをしている」
「なんでだよ」
「私は子どものころ、あまりこういう遊びをしてこなかったからな。どんなもんかと思って」
「携帯片手にか? 危ないぞ」
「今時、ハンズフリーだろ」
「ハンズフリー? 悪いが、日本語で言ってくれ」
「『両手自由』?」
「自由じゃないだろ、立ち漕ぎしてるんだから」
「自由になった両手で立ち漕ぎをしてるということだ」
「ああ、なるほど」俺は納得した。