4.肉のタナベ、その店主
「店は、まだ開いてるだろうか」と結衣が不安げに言うので、俺は、大丈夫だ、と答えた。
「夜の8時まで開いてる」商店街のアーケードにある時計はいつも5分ほど遅れているが、それを踏まえても7時を少し回ったところだ。
『肉のタナベ』が食品偽装を疑われているというのは、俺にとっては信じられないことだった。
そもそも、スパイに不祥事を嗅ぎ回られるような企業というのは、もっと大きい企業ではないのか。
それとも、俺が思っているより、スパイというのは世の中に広く溢れていて、常に誰かと誰かが互いの弱みを探り合っているのだろうか。
そうだとしたら、あまり良い世の中だとは言えないな、と俺はそのことを少し残念に思った。
「あ、この匂い!」と結衣が声をあげた。
コロッケを揚げる油の匂いを、早くも嗅ぎ付けたようだ。
「鼻が良いな。さすがスパイだ」
「あー、私はお腹が空いた。もうすぐか?」
「そうだな。もう一本、通りを渡ったところだ」
「走ろう! 売り切れてしまったら大変だ!」結衣はそう言って走り出した。
堅っ苦しい口調の割りに、人懐っこい女だ。この女は、その店の食品偽装を疑って、自分がスパイに入ろうとしていたことを思い出したりはしないのだろうか。
商店街の人通りは、やや時間が遅いこともあってまばらだった。
横断歩道の前で待っていた結衣は、信号が青になるや、また矢のように駆け出して、俺を手招きした。
「おい! 泰山! 早く来い!」
女に下の名前で呼ばれるのなどいつぶりだろう、と俺は不思議な感慨にふけりながら、小走りに車道を渡り、その店の前へ駆け寄った。
頑固そうな店の親父が、俺の顔を覗き込むように見ると、「珍しいな」と言った。
「いや、俺はよく来るぞ」
「そりゃ知ってる。自慢じゃねえが、俺ぁ2回来てくれたお客の顔は忘れねえ。そうじゃなくて、女の子を連れて来るのが珍しいってんだ。可愛い彼女じゃねえか」
「そういうんじゃない」
俺がそう答えると、親父は途端に険しく眉を寄せた。
「おい兄ちゃん、てめえ、いい加減な付き合いすんじゃねえぞ。俺ぁ女を大事にしねえ奴ぁ大っ嫌いだ」
いきなり客に言うことか? 俺は怯むのと同時に、なんと説明すればいいのか迷った。
お宅の食品偽装を疑って、ものの拍子に俺の部屋に上がり込んだ女スパイと、偵察ついでにコロッケを買いに来たのだとでも言えばいいのか。
だが、そこに割って入ったのは、当の結衣だった。
「親父さん、安心してくれ。私とこいつは、今日初対面だ。だが、ちょっと常識では考えられんくらいいい奴でな、色々と、親切にしてもらったんだ。この店もこいつが教えてくれた。何でも、死ぬほど旨いコロッケを食わしてくれるそうじゃないか」
それを聞くと、親父にはにわかに表情を緩めた。
「なんだ、そうなのか。兄ちゃん、悪かったな。『死ぬほど旨いコロッケ』? 嬢ちゃん、その通りだ。国産牛肉100%、玉ねぎにも、衣のパン粉にも、揚げ油にもこだわり抜いてる。そして何より、俺の腕だ。
俺ぁこれまでずいぶん食い歩いて来たが、俺より旨いコロッケを揚げる奴にゃ、お目にかかったことがねえ」
「それは楽しみだ」と結衣が、本当に心からそう思っていることが分かるように言うと、親父は親指を立てて後ろを指した。
「特別だ。奥、上がってきな。揚げたてのバリバリを食わしてやるぜ」
肉のショーケースの間を抜けて、店舗の奥は事務所になっていたが、その隣、休憩室になっているのか、小上がりの四畳半が接していた。
親父は店でコロッケを揚げている。他に従業員はいない。
「どうだ? あの親父だぞ。とても不正をやるようには見えない」と俺は言った。
結衣も首を傾げる。「確かに。隠し事があるにしては、無用心過ぎるよな。だが、火のないところに煙は立たないとも言うしなぁ……うーん」
「誰か、火のなかったところに火をつけてる奴がいるんじゃないのか?」
「放火?」
「いや、俺の言い方が悪かった。今のはたとえだ。つまり、悪い噂をたてようとしてるとか」
「何? そんな悪い奴がいるのか? 信じられん」と結衣は一目に分かるくらい憤慨しながら腕を組む。
お前の仕事は何なんだ? と問いただしたくなるのをこらえて、俺は考えた。
「例えば、不正の証拠どころか不正そのものが最初から無かった場合、お前の報酬はどうなるんだ?」
「残念だが、入らん。スパイは成功報酬だからな。それはここの親父さんや私たちの心にとっては良いことだが、財布にとっては良くないことだ。もっと別の、有益な情報が仕入れられたとなれば分からんが……」
「ちなみにお前、どうやって証拠を得るつもりだった?」
俺がそう尋ねると、結衣は肩から提げたポーチに手を突っ込んで、ゴソゴソとまさぐった。
「例えば、これだ」と言って彼女が見せたものは、三つ口の電源タップだった。
俺はそれほど勘のいい人間ではないが、彼女の仕事を考えれば、さすがにその正体にもピンとくる。盗聴器だ。
「他にも、小型カメラとか、色々あるけど、全部は秘密だ」と結衣は得意そうに言う。
「そうか。じゃあ、早速……」と俺が手を伸ばすと、結衣は慌ててそれを引っ込めた。
「ちょっと待てお前。それはスパイの私もさすがに引くぞ。親父さんはご親切に私たちをここに上げてくれたのに、そんな、恩を仇で返すようなマネ……」
「いや、これはもしかしたら、ここの親父のためになるかもしれない。
ほら、この店が別の誰かに狙われてて、そいつがここに小細工しようとしてるような場合、それはお前の言う『もっと有益な情報』ってやつになるんじゃないか?
そうすりゃ親父は助かる、お前は金が入る、組織? かなんか分からんが、そいつは情報を得られる、まさに三方良しってやつじゃないか」
俺はそれほど大それたことを言ったつもりはなかったが、結衣はほとんど大袈裟と言っていいくらい関心してうなずいた。
「お前、私よりスパイの才能あるんじゃないのか?」
確かに、お前よりはあるかもしれないな、と俺は薄々思い始めていたが、あえてそれは口に出さなかった。
「いや、これはたまたま思いついただけだ。お前がそのポーチに“それ”を入れていなかったら、思いついたところでどうにもならなかったしな。
さすがだ。俺はてっきりコロッケのことしか頭にないと思ってた」
「……たまたまだ」とバツが悪そうに結衣は言った。「本当は、コロッケのことしか頭になかった」
俺はそれに何と答えるか、少しの間考えた。
「そうか。お前、少し正直すぎるかもしれないな」
親父が皿に大盛りのコロッケを持って来たのは、その少し後のことだった。