39.近所で有名なスパイ
ある深夜、とある施設の深い暗闇の中で、結衣は俺に何かゴツゴツしたものを手渡して言った。
「これを、かけてみてくれ」
「かける?」
「赤外線ゴーグルだ。赤外線センサーのレーザーが見える」
「なるほど……」俺は手探りでその形を確かめ、頭からかぶる。
「横に、スイッチが付いてる」
俺はそのスイッチを指先で探し、電源を入れた。
「……何も見えないんだが」
「そうか。じゃあ、無いんだな」
「無い?」
「赤外線センサーは、無いんだ」
「そうか。実際、見てみなきゃ分からないしな。有るか無いか……。まあ、暗視装置としては使える」
「優しい……」
俺たちは相変わらず、ずっとこんな調子だった。
変わったことがあるとすれば、俺たちは正式に付き合い始め、家賃や光熱費を折半しながら、仲良く暮らしている。そして、あのボロアパートの薄い壁に気を使いながら、夜にはまあ、色々とするようになった。
時々、夜中にこういう任務が入らない限りは。
不意に足音が聞こえ、俺たちは慌てて近くの部屋に身を隠す。
「見回りか?」声を殺して俺は尋ねる。
結衣はスマホの画面を確認して、それを否定した。
「多分、社員だ」
社員に法外な残業をさせているという企業の調査で、サクッと済む予定だったのが、どうやら時間がかかりそうだ。
俺は『スパイのウェストポーチ』(丈夫でファスナーが壊れにくい)に手を入れ、その中にあるものの感触を確かめると、「こんな時になんだが……」とそれを取り出して切り出した。
手のひらに乗るようなサイズの、丸っこい形をした小さな箱だ。
「何だ?」と結衣が首を傾げる気配がする。
「俺たちはどっちも、親や親戚がいない。一体、何を待ってるんだと、最近、ふと疑問に思ってな。任務もそれなりにデカいのを安定してこなせるようになったし、こういうものを、買ってきたんだが……」
俺はその箱を、パカッとやる。
「え……」結衣は、言葉を詰まらせるように、声を漏らした。「見えない……」
「あ、そりゃそうだ。これを使ってくれ」俺はさっきの赤外線ゴーグルを渡す。
結衣はそれを頭からかぶって、電源を入れた。
「やっぱり……文脈から言って、そうだと……」
結衣のメカニカルな視線の先、俺の掌にあるのは婚約指輪だ。
「どうだ? ダメか? 俺は、お前と結婚したいんだが」
暗闇の中に、鼻をすするような声が聞こえた。
「嬉しい……着けて」
結衣がそう言うと、俺は胸を撫で下ろした。実は、結構緊張していた。
「よし……」と俺は手探りで箱から指輪をつまみ、それから言った。「見えない……」
「これを着けろ」結衣は赤外線ゴーグルを外し、俺に渡す。
「ああ……」と俺はそれを受け取ったが、指輪を片手で摘んでいるせいで、上手くゴーグルが付けられない。「ちょっと、コレ持ってて」
結衣に指輪を渡す。
暗闇の中で、「フッ……」と結衣が噴き出すのが聞こえた。
「笑わないでくれ。俺なりに、一生懸命やってる」
「ああ。分かってる。私たちって、いっつもこんなだよな。私はお前の、そういうところが好きだ」
「俺も、お前の少しおっちょこちょいなところが、可愛いと思ってる」そう言いながら、赤外線ゴーグルをつけると、緑色に浮かび上がった結衣の左手の薬指に、指輪をはめた。
それから俺たちは、暗闇の中でキスをした。
ちなみにその夜の任務は、ちょっと盛り上がりすぎたために、社員に見つかって逃げ回ったり、色々とあったが、何やかんやで成功した。
✳︎
任務を終えると、すっかり朝になっていた。俺たちはいつもの商店街を通って、俺の狭いアパートへ向かう。
「いやぁ、いつもそうだが、ギリギリだったな」と結衣は左手の薬指にきらめく指輪を見つめながら言った。
「ああ。それでもギリギリでいつも成功するよな。俺たちは最強のカップルだ」
「これからは、最強の夫婦になるわけか……」
感慨深そうに結衣がそう言うと、向かい側からランドセルを背負った子どもが2人、走って来た。
もう、そんな時間か、と思うと、
「あ、スパイの兄ちゃんと姉ちゃん!」子どもたちは、プロ野球の2軍で奮闘する地元選手を見つけたくらいのテンションで言った。
「おう。転ぶなよ」
「転ばねえよ! 任務頑張れよ!」生意気にそう言って、子どもたちはまた走って行く。
コロッケ屋の前で、車から荷下ろしをしていたオヤジが声をかけてきた。
「よう、スパイの兄ちゃんと姉ちゃん! 任務帰りかい?」
「ああ、そうだ」
俺が言うと、大柄な親父は、頑固そうな強面に笑みを浮かべた。
「朝飯食ってねえだろ。上がってきな!」
「いいのか? そんなしょっちゅう……」結衣が遠慮がちに言う。
と、親父はその結衣の左手の薬指が目に入ったと見え、歓声に近い声をあげた。
「兄ちゃん! ついに決断したか!」
「俺たちは出会って1年も経たないぞ。割と早い方だと思うが……」
「関係ねえよ。俺ぁな、もう即決していいくらいのカップルだと思ってたんだ。こうしちゃいられねえ!」
そう言うと、店の奥の事務所に駆け込む。
電話の存在価値が疑われるくらいの大声が、通りまで聴こえた。
「そう! あの2人! スパイの! ついにだってよ!」
すると、それを聞きつけた商店街の面々が、『肉のタナベ』の店先に殺到した。
「これからはスパイ夫婦かい? やるねぇ!」
「兄ちゃんアンタ、大事にすんだよ! スパイだからって、危ないことさせんじゃないよ!」
「ほら、お祝いだ。スポーツ用のアンダーウェア。スパイのスーツにぴったりだろ」
俺と結衣は幾分戸惑いながら、冷凍餃子だとか、アンダーウェアだとか、取るものも取り敢えずといったていで彼らが持ち寄ったお祝いを受け取りながら、「ありがとう、ありがとう」と礼を言った。
「この商店街を救った、『近所で有名なスパイ』の2人が結婚するってんだ。こんな目出度いことがあるかい!」
コロッケを山盛りにした皿を抱えて、タナベのオヤジが言う。
「どうなんだろうな、『近所で有名なスパイ』ってのは、スパイとして……」
俺がやや不安を覚えてそう言うと、結衣は笑い飛ばすように答えた。
「いいじゃないか。これが私たちのスタイルだ。これからも、ずっと、そういような」
通りに歓声があがる────。
数年後、俺たちはこの街の片隅に、小さな中古の一軒家を買った。
それからは、写真だけの結婚式を挙げたり、子どもが生まれたり、『組織』の秘密を暴いたりしたが、それはまた別の話。




