36.スパイの仕事
俺は、こう考えた。
ちょっと話せばそれと分かる常連客が、地下アイドル連続失踪のキーマンだった。
俺たちに届いた任務詳細に、「ライブハウス近くの路上にて男性からの声かけを受けている」という、『男性』というのがその男だ。
では、彼女たちからすれば、いわば太客であるはずの男が、具体的に特定されなかったのはなぜだ?
おそらく、声をかけるのに、他のアイドルたちやそのファンに目撃されるような時間帯を避けたからだ。
だから、事情を知らずに、失踪した女の写真を見せられた人が、「ああ、この人なら、あの辺で男の人に声かけられてましたよ」という程度の情報しか集まらなかった。
そして、その男には、もう一つ、どうしても避けるべきことがある。うっかり18歳未満の未成年を連れ去ってしまうことだ。それをやれば、いよいよ大ごとになる。警察も重い腰を上げるだろう。
そう考えたとき、男が活動すべき時間はいつか。それは、おそらく今だ。未成年が出歩くことを許されない深夜。それも、ライブが終わって、飯を食ったり、一杯引っ掛けたりした後、さらに言うなら「終電逃したなら、ウチのセーフハウスに泊まってきなよ」と言える、まさにこのタイミングではないのか。
俺が自分の考えをそのように説明すると、結衣は渋々承知して、俺たちは再び歓楽街の方へと歩いて行った。
「そういえば、お前、お酒の匂いがするな」
「ああ、すまん。おじさんと居酒屋に入って、俺だけ飲まないのもナンだからな」
「酔った勢いとかじゃないだろうな。私を好きだと言ったこと」
「ああ。俺は、これで大分強い方だ」
「そうなのか? 家じゃ全然飲まないのに」
「酔わないからな。逆に飲みたいと思うことがない。さして美味いもんとも思わないし。お前は?」と俺は尋ねた。
一緒に暮してしばらく経つが、彼女が酒を飲んでいるところを見たことがない。
「私は、まだ二十歳じゃないからな」
「何?」俺は思わず声をあげた。
「19だ」
「何だと?」
何より、自分が一緒に暮らしていた女の年齢を知らないことに驚いた。
「お前、全然そういうこと聞いてこないからな。私に興味ないのかと思ったぞ」
「いや、俺にとって、あんまり重要なことじゃなかった。お前が何歳だろうと、それで好きになったり嫌いになったりするわけじゃないからな。しかし、よく考えてみれば、お前が16歳とかだったらエラいことになっていた。危ないところだった」
「まあ、私もさすがに、自分が16やそこらに見えるってことはないと思っていたが、じゃあ、何歳に見えていたんだ? ってところは気になるな」
「やめよう。誰も得をしない話だ」
とかなんとかやっている内に、俺たちは歓楽街に差し掛かっていた。
「アイツを見つけたら……」
結衣が切り出すと、俺は気持ちがはやって、遮るように言った。
「俺が、話をする」
「いや、待て。お前の気持ちは分かる。だが、私たちは、スパイだ」
「しかし、それ以前に……」と反論しようとするのを、今度は結衣が遮る。
「いいか、泰山、アイツがやったことは、いなくなった彼女たちの悩みを聞いて、解決するという、家族や大切な人たちの役割を奪ったと、お前は言ったな」
「そうだ。アイツのしたことが、一部分において、彼女たちの助けになったとしても、俺はそのことが許せない」
「しかし、そう考えると、アイツとその話をするのは、私たちではなく、家族の仕事なんじゃないか?
彼女たちがどこにいるのか、誰が、どうして、どうやって彼女たちをそこに匿っているのか突き止めて、彼女たちやその男が、彼女たちの大切な人と話し合うために必要な情報を届ける。私たちの仕事は、そういうことじゃないか?」
俺はうなった。
「お前の言う通りだ。危うく、俺自身も、彼女たちの大切な人たちの、大事な仕事を奪うところだった」
結衣はうなずく。
「泰山、私たちは、スパイだ。非合法な手も使う。盗聴なんか、バレたら普通に捕まるしな。だが、それでもこうやって仕事を続けているのは、何か、正しい事の役に立てるんじゃないかと思うからだ。例え、法律や組織が、私自身を守らなくても、そういう生き方には、意味があるんじゃないかと思えるからだ」
「正義のためか。俺は正義について、あまり詳しくない」
「何が良くて、何が悪いのか、私だって、正義についてたくさんのことを知っているわけではない。失敗もたくさんする。だが、いつか、この仕事を引退したときにでも、お前と一緒に、『それでも私たちは、私たちが信じる“善いこと”のために、力を尽くしたよな』って、認め合いたいんだ」
俺はこの時初めて、彼女をスパイとして尊敬した。
「よし。分かった。じゃあ、男を見つけたら、尾行でいいか?」
「ああ。自宅かセーフハウスは突き止められるはずだ」
そうやってうなずき合った端から、向こうの交差点に、街灯に照らされて、何かを待ち構えるようにガードレールに腰をかけている太った男の影が見えた。
「俺たちって、ツイてるよな」思わず俺はそう言った。