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32.汚くはないおじさん

 通称『汚いおじさん』の部屋が、一週間足らずで一通り片付くと、俺はおじさんの部屋に移り住んだ。


 その間、結衣は地下アイドルのオーディション(というよりは突貫の面接のようなものだったが)に合格、毎日ダンスや歌のレッスンに精を出しているらしく、他にも美穂の姉の大学に忍び込んだり、知り合いになったスカウトマンとの情報交換、ライブハウス周辺での聞き込みなどといったことを色々試してはみたが、どうも上手く物事が前に進んでいかない。


 そして何より困ったのは、汚いおじさんが、掃除に目覚めてしまったことだった。


 元々は、俺が、組織の寮をめちゃくちゃに散らかしているおじさんと同居して、近くで口やかましく小言を言い続けることで、おじさんをウンザリさせて追い出そうという作戦だったのが、早くも2日目して、俺にへつらう方向へ思い切り舵を切ったおじさんは、せっせと掃除をする内に、清潔な部屋に住むということの喜びに目覚めてしまったらしいのだ。毎日風呂にも入るようになったらしい。


 こうなってくると、元々あまり人を(けな)したり、脅したりするための語彙が豊富でない俺は、手立てを失ってしまう。



「ところで旦那、今はどんな任務を手掛けてらっしゃるんで?」

 すっかり片付いた1LDKの居間で、メジャーリーグの中継を観るともなく眺めながら、おじさんは聞いてきた。


「こういうのは、言ってもいいもんか……」と俺はためらったが、

「アッシもこれで組織の人間ですぜ」とすっかり俺の舎弟か何かにでもなったような口ぶりと、その変わり身の大胆さに負けて、俺は大方のことを説明した。



「ははぁ……なるほど。旦那は、その地下アイドルが、スカウトマンを介して夜の店に流れてるんじゃないかと睨んだわけですな」

 おじさんはさも関心したふうに、カミソリまけした口元を手で覆った。


「ああ。ハズレだったみたいだけどな」


「そういうことなら、アッシの“行きつけの嬢”に聴いてみましょうか?」とおじさんが言う。


「イキツケノジョウ?」


「行きつけの風俗店の、女の子」おじさんが言い直した時、初めてその言葉の意味を理解した俺は、思わず顔をしかめた。


「そんな、居酒屋みたいに……」


「こんな生活しとったら、安酒飲むか、たまに小銭貯めたのをはたいて風俗行くか、そんくらいしか楽しみがないもんで」


「何か、分かりそうなのか?」と聞くと、おじさんは記憶を辿るように間をとった。


「こないだ、入った子がね、そんなような事言っとったんですわ。地下アイドルがなんとか。ああそう、『すぐヤレるアイドル』」


「えぇ……」


「要は、風俗嬢だと公言して、アイドルのステージにも立つわけですな。まあ、地下アイドルならではというか。そのステージでムラムラしたら、夜のお店で指名してねと。まあ、その子は昼間も出勤しとったワケですが」


「徳が低い……」

 有りなのか? それは。


「今時は、ポルノ女優なんかもテレビに出たりするでしょう。オープンな世の中になってきて、アッシは大変結構と思いますがね」


「まあ、確かに、立派な仕事だからな。コソコソする必要はないと思うが」

 少なくとも、要らない人に、要らないサービスを押し売りするということはない。


「とにかく、何か分かればお知らせしますよ」


「ああ、頼む」

 俺はそう言い残して部屋を出た。


 夕方、街中で結衣と会うことになっている。


 電車で中央区に出ると、いつものようにスーツ姿のサラリーマンが少なく、代わりにカップルだとか、家族連れだとかいった人たちで駅が賑わっていたので、俺はこの日が休日だということに気付いた。


 結衣が待っていたのは、改札を出てすぐの辺りだった。ラベンダー色の、丈の長いシンプルなワンピースを着ている。


「いいな、その服。似合ってる」俺は結衣に会うなりそう言った。


「お前、なんか、こなれてきてないか?」と結衣はにわかに表情を険しくした。


「そうだろうか。俺は別段、そういうつもりもないが」


「またナンパしてるんじゃないだろうな」


「あれは、ものすごく疲れる。やらなくていいなら、正直もう二度とやりたくない」


「そうか、で、そっちはどうだ?」と結衣が聞くので、駅を出ながら、俺は近況を説明した。


 カナに連絡し、美穂の姉が大学で目撃されていることを報告すると、美穂はとても安心したが、本人とはまだ連絡が取れていないこと、俺も試しに大学まで行ってみたが、怪しい目で見られただけで、特に収穫はなかったこと、『汚いおじさん』が、もはや『汚いおじさん』ではなくなってしまって、手をこまねいていることなど。


 一方、結衣の方は、レッスンを受けつつ、聴き込みをしようとしているが、結衣が入ったアイドルグループは、非常にギスギスした雰囲気で、とてもいなくなったメンバーの事情を聴き出せるような雰囲気ではないらしかった。ただただ真面目にレッスンを受け、ダンスが上手くなり、歌にも磨きがかかっているだけだ。


「ただ、いなくなったアイドルたちの、SNSのアカウントを見つけた。美穂ちゃんの姉と同じで、どうも投稿内容に信憑性はないが、ほとんど毎日更新されている」


 オフィスビルの中にある、大きな全国チェーンの喫茶店に入ると、俺たちはテーブルを挟んで向かい合い、結衣のスマホを覗き込んだ。


 これがどこのグループの誰それのアカウントで、と結衣が説明する。どの投稿も、微妙に時間帯や居場所がおかしかったり、失踪前とは文面の雰囲気が違ったり、何かちぐはぐな印象がある。


 結衣の説明を聞きながら、俺は少し考えた。


「なあ、彼女たちは、この投稿を通じて、何かメッセージを発しているとは考えられないだろうか」


 俺がそう言うと、結衣は膝を叩く。

「暗号か! いや、あり得るぞ」


「お前は暗号の解読が得意か?」


「いや、苦手だ」


 結衣がそう答えたので、俺は反省した。思えば、分かりきっていた。


「そうか。お前は歌が得意だもんな。大丈夫だ。俺たちが2人で協力すれば、どんな難しい暗号も、きっと解ける。そうだろ?」


 結衣はうつむきがちにうなずいた。

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